ここにいて 6

 エルセリスの言葉を聞いていないかのように少女は右腕を伸ばした。すると突如発生したかまいたちめいた風がエルセリスに襲いかかる。聖具を掲げるしかなかったエルセリスだったが、その前に別の影が割り込んだ。

「ぐっ……!」

「ネビン!」

 捧げ持った杖で風を防いだネビンだったが、衣裳は裂け、頬の切り傷には血が滲んでいた。駆け寄ろうとすると鋭い声が飛ぶ。

「下がってください! 術師です、それも桁外れに強い……!」

「術師!?」

 その襲撃は予想していなかった。

 術師は自らの領分を侵す者に仇なすだけで、塔に近付いたからといってやってくるものではないと考えられていたからだ。だがその術師が現れたのならここは彼女の領域だったのか。冷たい汗を感じながらエルセリスは問う。

「外の状況は?」

「全員失神しています。アトリーナさんには逃げて助けを呼んでもらうようにお願いしました。復路に人がいるはずですから」

 アトリーナの聖具は声、エルセリスたちのように戦う術を持たない。首都に戻る道に待機している見張りの隊と合流できれば、多分大丈夫だ。

(桁外れに強い術師、だって?)

 聖務官である三人が意識を保てているのは祈人として身に宿る祈りの力が強いためだと考えられた。しかし魔気耐性もある典礼騎士たちまでも意識を奪ったというからには、ネビンの言うようにあの少女はとんでもない力の持ち主なのだろう。

「何が目的ですか!? 我々はあなたと争うつもりは、」

 少女が伸ばした手が斜めに払われると、ネビンは呼びかけをすべて口にする前にまるで木の葉のように吹き飛ばされた。彼女の腕の先にいる見えない怪物が無言のままにその意に従っているかのようだった。

「ネビン……!」

「……う……」

 したたかに地面に打ち付けられたネビンはうめき声を漏らして伏した。かろうじて無事でいるらしいことにほっとしたが、脅威はまだエルセリスの正面に立っている。

 再び少女の腕が振り下ろされた。

 エルセリスははっと息を吐いて、剣を縦に斬り下ろす。するとばしっと音がして見えない力が霧散したのがわかった。

(よし、聖具で祓える!)

「……お前」

 凶悪な力の持ち主は、想像とかけ離れた可憐な声をしていた。しかし低く膿んだ暗さのある響きを持っている。

「……見たことがある……そう、わたしの邪魔をした……」

 なに、と思ったときには少女の顔が間近にあった。

(うっ!?)

 突き出された細い手が胸を狙ったが、剣を振るのが間に合ったおかげで少女を飛び離れさせることに成功した。だが攻撃をかわしたというのに、エルセリスの心臓は不吉なほど鼓動を鳴らして警告を発している。

(なんだいまの動き)

 触れられると恐らくまずい。強力な呪いをもらうだろう。

(けど向こうも聖具に触られると困るみたいだな)

 掠めた外套の縁が黒く焦げ付いているのを見ながら剣を構え直す。

 ゆらりと外套の裾を揺らしていた少女が足を引いた。一歩、二歩と引くその動作が何を意味するのかがわからず、だが目を離してはならないと注視していたから、その影が現れていることに気付くのが遅れた。

 彼女の背後、下がると同時に近付いてくる人影。

 オルヴェインだった。

 ざく。ざくり。無警戒に足音を立ててやってくるのを見て、おかしい、と思った。まさか負傷したのかと思ったのは、荒れて乱れた呼吸が聞こえてきたからだ。

 そうしてエルセリスは信じられないものを見た。

 彼女と彼の位置が交わるそのとき、少女を抱きとめるようにしてオルヴェインが腕を回したのだ。

「…………オルヴェイン……?」

 頼りない声が自分のものだなんて信じられなかった。

 篝火が減ったせいで彼の顔がよく見えない。エルセリスの呼びかけに応えたのは、くすりと笑う術師だった。

「邪魔だから、消して」

 嘘だと思った。

 ばさりと外套を翻したオルヴェインが目前に迫ったときもまだ、エルセリスは夢を見ているのだと思った。

 自分に向けて落とされる刃を認識したときには遅すぎた。

 肩を持っていかれるか、腕をなくすか。

 しかし覚悟した痛みはこなかった。剣とともに身体ごとぶつかってきたオルヴェインが、エルセリスを押し倒し、その頭上に刃を突き立てたからだ。

 彼はエルセリスの上で大きく震え、食いしばった歯の間からうめき声を漏らした。

「逃、げ……ろ……」

 つなげればそれはエルセリスへの懇願になった。

「呪い、……が……」

(術師の死の呪い――!)

 死の呪いはその名の通り呪われた者を死に至らしめる。同時にその者の心と身体を術師の所有物にする呪いだ。

 だからこれはオルヴェインの意思ではない。これまで何事もなかったけれど、呪いが進行して変調をきたしたのだろう。原因はあの少女だ。

 そのとき投げ出していた右手を強く踏みつけられ、エルセリスは短い悲鳴をあげた。

「わたしの邪魔をしないで」

 祈人の痣を踏みつぶしながら少女は呪う。

「彼の身体はわたしのもの。彼の心はわたしのもの。彼の過去もいまも未来も、すべてすべてわたしのもの!」

 仰ぎ見た少女の顔はエルセリスへの憎悪を浮かべ、美しく可憐で、醜かった。

 怒りが湧いた。

 踏みつけられていた手で拳を作り、体勢を崩した彼女へ叫ぶ。

「彼のすべては彼のものだ!」

 オルヴェインを押しのけ、もう一方の手で彼女の足を掴もうと手を伸ばす。だが少女はひらりとそれを避けると手の届かない距離に一足飛びに逃れた。

「……お前、本当に邪魔。わたしと彼の逢瀬を阻んで」

 剣を拾っていると不愉快な単語が聞こえてエルセリスは顔を引きつらせる。

「逢瀬?」

「わたしは彼にしるしをつけた。彼のすべてがわたしのものだというしるし。わたしの祈り。彼はわたしと添い遂げる、今世も来世も、永遠に」

 少女が足を踏みしめた瞬間、その周りで風が吹き上げる。

「なのにお前が邪魔をする! 彼はわたしではなくお前を見る!」

 さきほどまでエルセリスたちのものであったはずの舞台は、いまや術師の少女のものとなって彼女の意のままに力を与えていた。

「わたしの彼を奪うお前は、魂が砕けるように殺してやる!」

 背後にあった気配を横に躱した。

 さきほどまで立っていたところにオルヴェインの剣があった。術師との距離をも測りながら、エルセリスはもう一度剣を握り直す。

「彼に魂もろとも砕かれなさい!」

 オルヴェインの目は何も映していない。覚悟を決めなければならなかった。

 戦うしかない。逃げても意味がないのなら。

(勝ち目のない喧嘩はあんまり好きじゃないんだけど)

 せり上がる恐怖がまったく別のことを考えたらしく、そんな軽口がふっと浮かんだ。

 勝ち目のない喧嘩は自分だけでなく周りも傷付くことがあるからやりたくない。

 けれど敵前逃亡の方がもっと罪が重い。

(そうだったよね、オルヴェイン大将?)

 切っ先をオルヴェインに向けた。

 彼が動いた。

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