第5話「消える世界」

 僕とリューネは船に乗っていた。目的地は、魔法の都マジック・キングダム。

 頬を撫でる潮風。波は穏やかで、ほとんど揺れは気にならない……のに、リューネは船酔いで寝込んでいる。竜が船酔いするなんて、前代未聞の話だ。

 ……リューネには悪いけれど、一人の時間ができたことはありがたかった。なぜなら、僕はどこまでも広がる青い海を眺めながら、それと似つかわしくないことを考えずにはいられなかったからである。それは、死について。

 ネクスト・シティでは、人の死を間近に感じた。冒険の日々を思うと、今までその機会がなかったことは幸運だったのかも……いや、幸運だったのだ、本当に。

 ――幸運。そんな一言で片づけてしまってもいいのだろうか?

 これまで幾度いくどとなく危険な目にもってきたけれど、そのたびに僕達は乗り越えてきた。まるで、それが当たり前のことであるかのように。

 何がどうなるかなんて誰にも分からないのに、進んで命を投げ出すような無茶もしてきたような気がする。与えられた役割をこなす、誰かの操り人形として。

 ――何かが変わってしまった、そんな気がしていた。

 変わってしまったのは僕なのか、誰かなのか、良いことなのか、悪いことなのか、それは分からない。でも、もしかしたら、もうあの頃には戻れないのかもしれない。ハチャメチャで、メチャクチャで、だけど、まっすぐな――。

「何を深刻そうに考えておる?」

「……寝てなくていいの?」

 リューネは「よいしょ」と手すりに腰を載せ、僕と目線の高さを合わせる。僕はリューネに顔を向け、考えていたことを口にした。

「リューネはさ、自分が誰かに操られてるって感じたこと、ある?」

「そんなの、しょっちゅーじゃな」

 ……僕は意外に思った。だって、リューネは何からも自由に見えたから。

「今もお主に操られているようなもんじゃよ」

「そんなこと……」

みな何かに影響を与え、与えられながら生きておる。皆が何を思うかということよりも、思うということそのものに意味があるのかもしれんな」

「それ、どういうこと?」

「そんなことより、まだ着かんのか? 儂はそろそろ、飛んで行きたくなってしまったぞ? まったく、お主が船に乗りたいなんぞ言うから……ぶつぶつ」

 空と海が一つに交わる水平線には、まだ何も見えなかった。

 ……もしかしたら、この先に大陸なんてないのかもしれない。今はまだ……そんなことを考えながら、僕は海を眺めていた。



 私はキーボートから手を上げると、髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回した。ダメだ、うまく話がまとまらない。こんな話になるはずじゃなかったのに。

 博覧会を舞台に胸ワクワクの冒険活劇! めくるめく謎、渦巻く陰謀、そして黒猫空賊団とまさかの共闘!? ……みたいなのをイメージして書き始めたはずなのに、ソーマとリューネは船に乗っている。行き先のマジック・キングダムなんて、ほとんど思いつきだ。設定も何もかも、これから考えなければならない。それでも、あの町に留まるよりはずっと良かった。

 ――どうして私は書き続けているのだろう。

 黒埼先輩はいなくなってしまった。そして、今や唯一の読者である冬馬とも、ずっと会っていない。止めるには絶好の機会。最初から書き直す……というのも良いだろう。全てを白紙に戻して、最初から。でも、私は続きを書いてしまう。その先に何かがある、いや、あって欲しいと願っている? ……うん、そうかもしれない。

 だけど、今日は終わりだ。まだ夕暮れと呼ぶには早い時間。今日も冬馬が屋上に姿を見せることはなかった。真っ暗になるまで待っていたこともあったけれど……近頃はめっきり諦めが早くなってしまった。これも前向きになったということなのだろうか……私には、わからなかった。

 私はノートパソコンを鞄にしまって立ち上がると、鞄を肩にかけて溜息を一つ。扉を開けて、階段を降りていく。タッ、タッ、タッと、校舎に靴音が響いた。

 

 見慣れた景色。何でもない帰り道。まっすぐ伸びる影法師。

 まばたきをして、立ち止まる。――そこは、私の知らない場所だった。


「……何、これ」

 周りには誰もいない。何度辺りを見回しても、まばたきを繰り返しても、あの場所に戻ることはできなかった。今の今まで歩いていた、あの道に。 

 ――私は走り出した。行き先なんて分からない。ただ、ここにはいたくなかった。でも、いくら走っても、私が知るどこかへと辿り着くことはできなかった。

 人はいた。声をかけようとして、はたと立ち止まる。何と言えばいいのだろう? ここはどこですか? ……そんなこと、聞けるはずもなかった。私はぐっと唇を噛み締めて駆けだし、人影の脇を通り抜けていく。

 ――誰か。私は走りながら、必死に誰かを探した。

 お母さんとか、お父さんとか、大地とか、冬馬とか、そんな贅沢は言わない。いつか、どこかで、一度、一瞬だけでもすれ違った誰か、その誰かがいてくれればいいのに、誰もいなかった。悔しいけれど、それだけは分かる。

 ……息が苦しい。私は足を止め、その場に崩れ落ちた。両手を地面に突いて、ぜぇぜぇと喘ぐ。ぽたぽたと流れ落ちた汗が、乾いたアスファルトの上で黒い点になる。夢ではなさそうだ。夢だったら、こんなに苦しいはずがない。私は、私は……。

「空子ちゃん」

 私は飛び上がって、声の主を振り返る。女性だ。私の知らない、女性。でも、彼女は確かに呼んだ、私の名前を。彼女は微笑びしょうを浮かべていた……完璧な微笑ほほえみを。

「あ、あなたは?」

 言いたいことはたくさんあったのに、月並みの台詞しか出てこない。まるで、私の小説みたいだ。彼女は完璧な微笑みを絶やさず頷いた。

「私は麻耶」

 ――しばらく待っても、続く言葉はなかった。

 深く息を吸って、吐いて、手の甲で額の汗を拭っていると、唐突に麻耶さんの完璧な微笑みが、眉根を寄せた困り顔に変わった。

「何から話せばいいのか――」

「何が、何が起こっているか、知っているんですね?」

 頷く麻耶さんを見て、私の中で何かが壊れた。

「あの、これって、何なんですか? ここ、どこなんです? 私はただ、学校から家に帰ろうと歩いてただけなんです! それなのに、気が付いたらここにいて……ここって、私、その、どうしちゃったんですか?」

 次々と言葉が、涙が、溢れ出てくる。それなのに、眉根を寄せた麻耶さんの困り顔は、まるでお面をつけているかのようで、ピクリとも動かなかった。

「場所を移しましょう。話せば長くなるから」

 麻耶さんの提案に、私は肩で息をしながら頷いた。


 ――規則正しく歩く麻耶さんの背中を追っている間に、私の気持ちは少しずつ落ち着いていった。同時に、自分の慌て振りを思い返して赤面する。私はきっと、道に迷っただけなのだ。隣町か、そのまた隣町まで迷い込んでしまったに違いない。

 ……私が小さい頃、こんな出来事があった。本屋さんで絵本か何かを立ち読みしていた私は、ふと顔を上げると家の扉の前に立っていたのだ。それを知って驚いたお母さんと一緒に、本屋さんへ急いで謝りに行ったことを今でも鮮明に覚えている。

 さすがにそんな出来事はそれっきりだったけれど、今でも小説を書いていると、冬馬に話しかけられても気づかないことは度々あった。だから、今回の真相もそれに近いものではないかと思う。あるいは、白昼夢……という奴かもしれない。

 麻耶さんはきっと、私の名前や顔をテレビや新聞、あるいは何かの雑誌で知ったに違いない。直接そうした情報がなくても、たとえば情報提供者――提供したつもりは一切ないのだけれど――が文芸部員だと報じられていたら、私だと特定することは簡単だろう。何しろ、文芸部には私と黒埼先輩しかいないのだから。


 麻耶さんはファミレスに入った。私も知っているチェーン店。店員さんに案内されるまま席に座り、麻耶さんに促されるままコーヒーを注文した。

 店員さんが先に持ってきてくれた水を、私は一気飲みする。麻耶さんが自分の水も勧めてくれたので、申し訳ないと思いながらも、ありがたく頂戴ちょうだいした。

 二杯目の水もごくごくと飲み干し、人心地がついたところで店内を見渡す。何の変哲も無いファミレスの光景なのに、何だかとても頼もしく思えた。

 二人分のコーヒーが店員さんに運ばれてくると、麻耶さんはこう切り出した。

「私の話をまずは黙って聞いて欲しいの。質疑応答はその後で。不躾ぶしつけだけれど、空子ちゃん、お願いできるかしら?」

 私は頷いた。そして始まった麻耶さんのお話は……とても奇妙なものだった。


 あなたは人間じゃないの……そんな出だしから始まり、ネストとかいう仮想現実世界のお話へと続いた。何でも、私はその世界の住人らしい。

 だったというのも、私の世界はすでに存在していないとのことで、この世界は私の世界……ネストを模した別の世界だというのだ。

 SFというか何というか……冬馬が好きそうなお話だなぁというのが、私の率直な感想だった。ファンタジーよりも、その手の話が今の流行りなのだろうか。


「すぐに信じてとは言わない。だけど、私はあなたの味方よ。これだけは信じて」

「はぁ……」

 私は悪いとは思いつつも、気の抜けた炭酸飲料のような返事しかできなかった。

 麻耶さんは良い人だと思うし、助けてもらったのも事実だし、感謝もしているのだけれど……これ以上、そのお話を聞きたいとは思えなかった。

「あの、私そろそろ帰らないと……」

 私がそう告げると、麻耶さんは小さく首を振った。

「この世界にあなたの家はないわ」

「は?」

「でも安心して。私が代わりの家を――」

「ない? ないって、なんですか!」

「だから、あなたの世界は――」

「そんなこと、信じられるわけないじゃないですか!」

 私はバンっと両手をテーブルに突いて立ち上がった。静まり返る店内。注がれる視線。麻耶さんは黙って私を見上げている。眉根を寄せた困り顔で。 

「……ごちそうさまでした!」

 私は財布から抜き取った千円札をテーブルに置いて、ファミレスを飛び出した。

 ポケットからスマホを取り出し、お母さんにかける……つながらない。地図アプリも使えなかったので、私は周囲をきょろきょろ見ながら歩き回り、やっと見つけた地図看板に目を凝らした……見知った駅名を見つけ、ほっと胸を撫で下ろす。どうやら、私は本当に隣町まで迷い込んでしまっていたようだ。

 それもどうかと思うけれど、世界がどうだとかいう話を聞いた後ということもあって、私はとにかく家に帰れるということが嬉しかった。

 足取り軽く、私は駅へと向かう。


 ――何かおかしい。

 自動改札機に阻まれドキリとした私は、ICカードを何度当て直しても反応がないので、仕方なく切符を購入し、丁度ホームに到着した電車に乗り込んだ。

 次の駅までの数分という乗車時間を、私は座席に座って過ごした。ガタゴトと揺られながら、一瞬、寝てしまいそうになる。……疲れているのかなぁ、私。

 駅に到着。電車から下りて、改札口を出た私の目に映ったのは、何でもない駅前の光景……そう、それは間違いないのだけれど、やっぱり何かがおかしかった。

 季節の花が並んでいる花壇も、手足を伸ばしたバレリーナの銅像も、発電量が切ない風力発電装置も、足早に行き交う人々も……何もかも見覚えがあるはずなのに、何もかも初めて目にするようで、私は、私は……走り出した。

 ――早く家に帰りたい。その一心で私は走り続けた。道はあった。当たり前だ。私は毎日、今朝だって、この道を通っていたのだから。だから、この道を真っ直ぐいって、突き当たりを右に曲がれば、私の家が見える……はずだった。

 何もなかった。いつか家が建つのか、駐車場になるのか、通りかかった人がそれぐらいの感想しか抱かないような空き地。ゴミ箱代わりに空き缶が投げ捨てられているような空き地。私の帰る場所があったはずの……空き地。

 私はぺたんと座り込んだ。いくら首を振っても、空き地は空き地のままだった。

「空子ちゃん」

 顔を上げると、麻耶さんが立っていた。なぜここに……そんなことを口にするのも馬鹿らしくて、悲しくて、私は嗚咽おえつを抑えることができない。

 麻耶さんは眉根を寄せた困り顔のまま、私の肩に手を置いた。


 

 ――悲しみに暮れる空子ちゃんを前にして、これで良かったのだろうかと、今更ながら私の気持ちは揺らいでいた。……本当に今更で、自分が嫌になる。

 見知らぬ女に突然「あなたは人間じゃない」と突きつけられたのに、空子ちゃん気丈だったと思うし、それを真実だと知った上でも、気丈さは健在だった。

 空き地の前で泣きに泣いた空子ちゃんは一転、私に次々と質問を重ねる……それはネストのことから始まり、エミュのこと、私の世界のこと、私自身のことにまで及び、何でも答えると請け合った私は、すっかり寝不足になってしまった。


「麻耶さんって、神様なんですか?」

 ――ある日の晩。空子ちゃんのために用意したマンションの一室で、恒例となったお喋りをしていると、空子ちゃんがふとそんなことを口にしたので、私は飲んでいたコーヒーを危うく画面に噴き出してしまうところだった。

 私が神様ねぇ……マグカップをテーブルに置き、私はキーボードに指を置いた。

「そんな大それたものじゃないわよ。私は私の世界に生きる何十億もの人間達……その中の一人でしかないわ」

「麻耶さんの世界って、私の世界とそっくりなんですよね?」

 そんなことを口にする空子ちゃんを見て、本当に強い子だなぁと思う。私がもし空子ちゃんだったら……駄目だ、とても受け入れることなんてできないだろう。

 ……いや、それは空子ちゃんだって同じはずだ。そう簡単に受け入れられるはずはないだろう。それを表に出さないようにしているだけで、きっと――。

「麻耶さん?」

「ああ、ごめん! そうそう、そっくりよ! 本当、びっくりするぐらい」

「じゃあ麻耶さんの世界にも、幽霊とかUFOっているんですか?」

「実在しているかはともかく、話としてはあるわね。それがどうかしたの?」

「別に大したことじゃないんですけど……私の世界の幽霊とかUFOって、麻耶さんの世界の人が介入している証拠なのかなって、ちょっと思ったんです」

「なるほどね」

 そう答える私の胃が、きりきりと痛んだ。……私はまだ、黒姫様のことを空子ちゃんには話していない。冬馬君があんなことをしたのも、操られていたからだということも……それを話してしまったら、空子ちゃんは自分の世界のことをいやおうでも考えずにはいられなくなってしまうからだ。いつか話さなければならないとは思っているけれど、まだその時ではない……私はそう思っていた。

 それにしても、幽霊やUFOが介入の証拠だなんて、面白いことを考えるなぁ。確かにその可能性もあるとは思うけれど、エミュやニュー・ネストならともかく、オールド・ネスト……空子ちゃんの世界での介入は御法度だ。ただ、実際に介入できたケースもあったことを考えると、そう的外れな考えではないのかもしれない。

 ……私がそんなことを掻い摘まんで話すと、空子ちゃんは小首を傾げた。

「それなら、どうして麻耶さんは私を助けてくれたんですか?」

「それは、放っておけなかったというか……」

 私はキーボードから手を離し、考え込んだ。私を見つめる空子ちゃんの表情は真剣そのもの……おいそれと、適当な返事をすることはできない。

 空子ちゃんを助けた理由……改めて考えてみるまでもなく、それが自分のエゴ、あるいはおごりであることは明白だった。なぜなら、空子ちゃんは私のことも、ネストのことも、何も知らなかったのだから。それなのに、一方的に助けた気になって、感謝の言葉一つでも貰えればなんて、随分とおこがましい話だ。

 だからといって、偽りの理由を口にしてしまったら、空子ちゃんから信頼を得ることなんてどだい無理な話だろう。それなら、いっそ……。

「空子ちゃんがいなくなったら、小説の続きが読めなくなっちゃうじゃない!」

 空子ちゃんは目を丸くして、何度も瞬きした。

「小説って……」

「もちろん、空子ちゃんが書いた小説のことよ。ソーマとリューネの――」

「ど、どうして知ってるんですか! そんなこともできるんですか!」

 私が頷くよりも早く、空子ちゃんは「そうですよね、できないはずもないですよね……」と頷き、「そっかぁ……」と呟いた。

 ――沈黙。私は正直に言い過ぎたかなと後悔しつつ、弁明を試みる。

「あの、ごめんね。覗き見しちゃって……」

「えっ? ああ、そんなのは全然……ただ、驚いちゃって。私の小説、友達とか先輩にしか読んで貰ったことがないし、麻耶さんみたいに大人の女性に読んで貰う機会があるなんて考えたこともなかったから……その、面白くなかったですよね?」

「そんなことない! 最高に面白いわよ!」

 私……リアルの私と画面の中の私は、何度も首を振った。

 もちろん、完璧とは言えない。誤字や脱字もあったし、正直、首を傾げてしまうようなシーンもないわけではなかった。それに、私は読書が趣味というわけでもないから、他の作品と比較することもできないけれど、私は一読者として空子ちゃんの小説を楽しませて貰っているから、そうした気持ちを「面白い」という言葉にしたのだけれど……空子ちゃんは顔を真っ赤にして、くすぐったそうな笑顔を見せた。

「……何だか、照れちゃいますね、こういうの」

 空子ちゃんが遠慮がちに作品の感想を尋ねてきたので、私はここぞとばかりに思いの丈を空子ちゃんにぶつけた。美辞麗句で飾ることのない、本当の気持ちを。

 私は空子ちゃんに出会ってから初めて、心の底から素直な気持ちを伝えることができたと思うし、空子ちゃんもまた、色々な表情を私に見せてくれた。……ネストでずっと見ていた、あの時の空子ちゃんそのままに。

 その晩は随分と夜更かししてしまったけれど、私の気持ちは晴れやかだった。

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