第15話 プロポーズされて泣いてお受けした!

【9月1日(木)】午前10時ごろ、席に戻ってきた竹本室長が岸辺さんを手招きしている。岸辺さんが室長のところへ行くと、すぐに二人はフロアーの端にある会議室へ入って行った。なんだろう。大事な話に違いない。


10分位で岸辺さんが席に戻ってきた。席に戻ってもしばらく仕事が手につかないみたいで考え込んでいる。


「どうかしましたか?」


「いや、大したことはないけど、室長から難しい相談をされたのでね」


それからも、岸辺さんは仕事が手に着かず、考え事をしているみたいだった。


午後になって、私が席に戻ってくると、岸辺さんは私の耳元に小声で話しかけた。


「明日の晩、仕事が終わったら食事をしないか、大事な話がある」


「いいですが、プライベートな話ですか?」


「グレーゾーンだから」


「グレーゾーンですか? 分かりました」


「待ち合わせ場所と時間は携帯にメールを入れるから」


私に明日の約束をした後は、岸辺さんはいつもの岸辺さんに戻って、仕事に集中していた。2時から会議を設定していたので、二人で会議室に向かう。


3時に会議を終えて、会議録のまとめをいつものように私に頼んだ。私はすぐに取りかかる。4時には出来上がって、岸辺さんに渡すとすぐに室長へ報告に行った。そして、5時になると、今日はちょっと用事があるのでと言って、すぐに退社した。


【9月2日(金)】昼休みに岸辺さんからメールが入る[ビルから少しのところにあるタクシー乗り場で5時15分に待ち合わせ]。すぐに[了解]のメールを入れる。


5時過ぎに私は「お疲れさま、お先に」と岸辺さんに言って退社し、タクシー乗り場へ向かう。タクシー乗り場で待っていると岸辺さんが5分ほどでやってきた。


すぐにタクシーが来たので、岸辺さんが先に乗って私が後から乗る。これは仕事でタクシーに乗る時のスタイル。この時間だから会社の人に見られても仕事で出かけたように見える。


タクシーに乗ると、岸辺さんはホテル名を告げて、すぐに私の手をそっと握る。


「今日は休日ではありませんが」


「グレーゾーンということで」


握った手はそのまま、私もそのままにしている。


ホテルに着くと、最上階のダイニングルームへ。入口で名前を言うとウエイターが窓際の席へ案内してくれる。丁度日没のころで、これから夜景がきれいになる。


ウエイターが飲み物を聞く。私はジンジャエール、岸辺さんはビールを注文して、料理は予約のとおりだと確認している。それと肉料理のときに赤ワインを頼んでくれた。その間、私は珍しいので外の景色を見ていた。


「大事な話ってなんですか」


「まず、食事をしよう。お腹が空いた。それから話す」


食事はここの定番のフランス料理のフルコースを頼んでくれていた。


「おいしいです。さすがに有名ホテルですね」


「おいしいね」


「ホテルで二人が食事するのは初めてですね」


「今日は僕が全額払うから」


「いいんですか」


「グレーゾーンだから」


「じゃあ遠慮なくご馳走になります」


いつも割り勘にするから、潤さんは気にして今までホテルで高価な食事などしなかった。今日は特別の日なの? グレーゾーンって、なに? 料理が終わって次はデザートになる。外は夜景がきれいなので、ジッと外を見ている。


「大事な話だけど、昨日、室長から異動の内々示があった。10月1日付で場所は関西の茨木研究所だ。研究企画室長ということで、もちろん受けた」


「そうだったんですか、ご栄転ですね、おめでとうございます」


「それで、美沙ちゃんに一緒に来てもらいたいんだ」


「私も転勤するんですか?」


「いや、僕と結婚して付いてきて来てほしいんだ。どうかな、お願いします」


「ええ…それって、プロポーズですか?」


「それ以外に何がある」


「あまりにも突然の話で驚きました」


「驚くことはないだろう、ずっと付き合っていたのだから」


「私は岸辺さんと結婚できるとは思っていません。つり合いがとれませんから」


「でも付き合ってくれたじゃないか」


「付き合いたかったからです」


「それならいいじゃないか」


「はい、嬉しいんですが、まだなぜか実感がないんです」


「いいんだね」


「はい、いいです」


「ありがとう。よかった。じゃあ、これを是非受け取ってほしい。婚約指輪と結婚指輪は二人で買いに行こう。これは昨日買ってきたものだ。開けてみて」


私は包みを解いておそるおそるケースの蓋をあける。そこには3重チェインのシルバーのブレスレットが入っていた。


「それをその太いベルトの腕時計の代わりにしてほしいんだ」


それを見て私は嬉しさがこみあげてきてこらえきれずに声を出して泣いてしまった。周りのテーブルから視線が集まったに違いない。


潤さんが隣のテーブルに向かって「すみません、プロポーズしたら泣いてしまって」と小声で言っているのが聞こえた。するとその場にざわめきが起こったみたい。


そこへウエイターがデザートを持ってきてテーブルに置いた。私は泣きやんだ。蝋燭を1本灯したケーキだった。ケーキにはハートのマークの中にありがとうの文字。


「ご婚約記念のケーキです。ごゆっくりどうぞ」


「美沙ちゃん、蝋燭を吹き消して! 二人で食べようよ」


私は長い間、蝋燭を見つめていた。そして「記念に写真を取っておきます」と言ってスマホで写真をとった。


それから、そっと吹き消して「ありがとうございます。とっても嬉しいです」と言った。そのころはもう落ち着いていた。


それから、潤さんは腕時計を外して、ブレスレットを着けてくれた。


「これから、毎日いつも着けていてもいいですか? 会社でも」


「もちろん、そのためにプレゼントしたんだから。その傷を癒してあげると言う僕の誓いの印と思ってくれればいい。なくしたらまた新しいのを買ってあげる」


「絶対に無くしません。大切にします。ありがとうございます」


「気に入ってくれてよかった」


私は何度何度も腕をかざしてブレスレットを見ていた。いつも気持ちが高揚するとピリピリする傷痕は静かにしている。ブレスレットで封印されたのかもしれない。


「明日は土曜日だけど、11時ごろに僕の家へ来ないか。これからのことを相談したいから」


「じゃあ、お弁当を作って11時にお邪魔します」


それから、ホテルを出て、二人手をつないで駅までゆっくり歩いた。何も話さなかったけど、心は通い合っていた。


いつものように、電車を乗り継いで、電車で分かれた。今日はグレーゾーンだから。二人とも家に帰って一人になってこの余韻に浸りたいと思っている。


帰宅してから、ホテルでの出来事を思い出して、本当にあったことなのか信じられなかった。


腕にはブレスレットが光っている。何度も何度もそれに触れて、箱を開けてブレスレットを見た時のこと思い出して、また嬉しくて、嬉しくて泣いてしまった。しばらくこの余韻に浸っていたい。


そうだ、母にこのことを伝えておかなければと思い電話した。母はとても喜んでくれた。岸辺さんはいい人だから絶対に離してはだめと言われた。


ブログにはこう書き込んだ。


〖今日プロポーズされてお受けした。そして手首の傷痕を隠すブレスレットをプレゼントされた〗


コメント欄

[よかったね。おめでとう。泣いたでしょう]

[傷を隠すブレスレットなんて彼氏は心もカッコいいね!]

[絶対に離れたらだめだよ!]

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