こうして、私は席を立った。

 普通散らかすより片付ける方が体力いるものだけれど。

 潤君が手伝ってくれたおかげで、思っているより早く終わった。

 ひとまず床に散らばったものを拾い集め、端に寄せる。

 壊れている物はゴミ袋へ、そうじゃないものは棚に戻して。

 家計簿も年金手帳も通帳も、隠されたり抜かれたりした様子はないようだった。普段から黄色いメモを挟んでいるから、もし勝手に開けられていればメモの位置がずれているはずだけれど、ずれていないから大丈夫。

 潤君は専ら床に散らばった蓋ものを拾い集めてくれていた。

 さすがに棚の引き出しは私の下着も見えているから、あの子にしてみたら近付きにくいらしく、遠巻きにしていたからそれでいいと思う。


「お姉さん、これは?」


 潤君は落とした際に思いっきりぶっちりと切れたらしいビーズのネックレスだったものを見せてくれた。あぁあ、これ。友達が誕生日プレゼントでつくってくれたものだったのに。


「……悪いけど捨てちゃって。ビーズは後で集めるから」

「うん」


 床も見えるようになった最後に、掃除機をかければ片付けは一応は完了した。

 私は床に落とされて埃のついた服を洗濯機に突っ込めば、何とか元通りにはなった。

 私は洗濯機に洗剤入れて回してからリビングに戻ると、潤君はゴミ袋を閉めながら、怪訝な顔で私を見上げてきた。


「……何でこんなに部屋荒れてたの? 俺が起きた時には、もうこうなってたから……」


 言葉に詰まる。

 まさか、「君の中にいる奴にやられた」なんて、どうやって言えばいいんだろう。私は苦笑いを浮かべるしかできなかった。


「大丈夫よ、時々こうなるから……」


 何が大丈夫なんだろうと、我ながら疑問だけれど。

 潤君は答えになっていない私の答えには返事をせず、少し迷ったように目を伏せた後、私をじっと見た。

 その顔が驚くほど綺麗なのに、私はびっくりする。……すっかり見慣れたはずだったのに、未だに潤君の時折見せる綺麗な表情にはドキリとさせられる。

 浮かべている表情は真剣そのもので、私を逃げないようにと、凝視していた。潤君は少しだけ息を吸うと、一気にまくし立てた。


「いや、お姉さん変だよ。そもそも見ず知らずの俺をここに置いておくことだって変だし、病気で倒れても平気だって笑うのも変だし、おまけに部屋がこんなにひと晩でぐちゃぐちゃになっているのだって……」


 私は黙って、潤君を見た。

 当たり前だよね。変だって思うのは。でもどうしよう……。後回し後回しにして、潤君に葵のこと、全然説明しないままだったし……。でも、普通説明して信じられる? こんなひっちゃかめっちゃかなこと……。でもなあ……。

 私は葵が荒らすだけ荒らした部屋、潤君は何も悪くないのに、一緒に掃除して片付けてくれた。あんなひと晩でぐちゃぐちゃになったの、説明を求めるのは当然だと思う。私は思わず溜息をつく。

 潤君が全く悪くないのに、潤君が自分のせいって思ってしまっては可哀想。なら、嘘って思われるかもしれないけど、本当のことを言ったら、少なくとも訳のわからない私に気を咎める必要はどこにもないって思ってくれるかもしれない。

 私はそう考えをまとめ、口を開いた。


「……もしもさ」

「えっ?」

「君にもうひとつ人格あるって思ったら、どう思う?」

「…………?」


 潤君は眉を潜めて、私を訝しげに見た。

 そりゃそんな顔するだろうなあ。普通の反応だもの。私は潤君が少なくとも、葵よりは人の話を聞いてくれて、まともな反応をしてくれる事に、少しだけ安心した。

 そして、続ける。


「君がうちの家に来た時ね、君はうちのアパートの階段の影に隠れていたんだよ」

「……何で?」

「君は覚えていないの?」

「……」


 黙って彼は頷く。


 やっぱり、葵に体を乗っ取られたって自覚はなかったんだ。私は続ける。


「そしてうちに来た」

「……お姉さんは断らなかったの?」

「それがね、君に取り憑いてる人、私が地元で別れた人なのよ」

「どうして、それがわかったの?」

「……いやぁ、その……。家族以外だと私の裸見たことあるの、あいつくらい……だし? ねえ?」


 潤君はそれを聞いて、頬を少しだけ赤らめた。

 ……やっぱり中学生には早過ぎたのかもしれない。いや、あいつのことを話さないことには全部に説明つかないんだけど。

 仕方なく私は、潤君の表情を無視して話を続ける。


「で、その人は死んで、気付いたら君に憑いてたって、言っているのよ」

「……それ、本当?」

「本人の自己申告だから、信じられないならそれで終わり。でも私は現在そいつに付きまとわれている。あっ、別に潤君が嫌とかじゃないのよ? ただそいつは性格に少々問題がある奴だから、野放しにできないだけだから」

「……」

「で、今は君が意識ない時に、あいつが出て来て、夜な夜なあいつの死体を探している」

「……死体探しているのは何で?」

「これも本人の自己申告だけど。死体を見つけたらあいつは成仏できるらしい。君も解放されるし、私も解放される。あいつに付きまとわれるのが嫌で、今はその話に乗っている。以上。ここまでで質問ある?」

「……」


 潤君はいつものようにうなじが見える位まで、頭を低く低くして俯いた。……あらら。やっぱり説明が無茶苦茶だと思われた……?

 私は潤君が俯いているうなじを見ていたら、すっと頭が上がって私の方を見た。


「……俺は気付いたら意識ないし……、夜中もバイトしてたから、変だなとは思ってたけど、それなら、納得いった」


 ……どう見繕っても高校生には見えないんだけど(下手したら小学生に見えそうだしな、この子……)、バイトって……。そもそもこんな細っこい子雇ってくれるような深夜バイトなんてあるのかしら……。まあ今はそこは無視して、潤君の話に耳を傾ける。


「で、俺の中にいるのは、お姉さんのその……元彼氏さん、なんだよね?」

「まあ、そうだね」

「お姉さんは元彼氏さんの家の住所とか、電話番号とか知ってるの?」

「今のは知らない。死ぬまでこの辺りで働いてたらしいけど、どこで働いてたとか何してたのかは、あいつが口を割らないから知らない」

「付き合ってた頃のは?」

「あいつの実家の? まあ、知ってるというか覚えてる」

「……」


 何でそんなこと言うんだろう?

 私はきょとんと潤君を見ていたが、潤君は唇を指で弾きながら考え込み、そうやって考えた事を口にしているようだったから、思いつきだけで言っている訳ではないみたい。

 そして、また潤君は口にする。


「何でその元彼氏さんの実家に問い合わせないの? 元彼氏さんが今何しているのかとか、どこで働いているのかとか、実家は知っているんじゃないの?」

「あっ……」


 私は思わず潤君を凝視する。

 そういえばそうだった。いっつも不毛に夜中に雨に打たれてふらふらさまようよりも、あいつの実家に訊けば一発じゃんか。何で私、その事に気付かなかったんだろう……。

 私がはっとなっている間も、潤君はいつもの調子で私をじっと見ているだけだった。


「ありがとう……私馬鹿だな……全然思いつかなかった」

「……別に」

「ちょっと電話してみるね……」

「うん……」


 どう電話しよう。

 私はスマホ取り出しつつ思う。

 まさかお宅の息子が死んだから、どこで死んだのか知りたいから、仕事先教えてなんて言うのは不吉過ぎる。

 お宅の息子さんに暑中見舞い送りたいから住所教えて? いや、メールあるのにハガキなんて、怪しすぎるにも程があるしな。

 ……ん?

 私は電話画面に携帯を切り替えて気付く。


「何で葵は、実家の話、一度も口にしなかったんだろう?」


 思わず口に出してしまう。

 潤君は私をじっと見て、そして口を開く。


「お姉さんもだけど……その元彼氏さんも、何か隠してるんだよ」

「ちょっと待って。潤君、私別に隠し事ないよ?」

「でもお姉さん。病気の事昨日までひと言も言ってなかったじゃない」

「そりゃ別に言う必要がないからだよ」

「……元彼氏さんも、同じこと思ったからじゃないの?」

「えー……?」


 いや、普通。

 自分死んだらまず家族のこと考えないの? 普通自分の息子が死んだら親だって悲しむだろうに。でも……。

 私は潤君に見守られるまま、今でもソラで覚えている電話番号を押す。……嫌な話だな、もう葵の家の電話番号は、アドレス帳から消したはずなのに、今でも全部覚えているなんてさ。番号を押すたびに、何故か心臓の音が早くなる気がする。何でだろう。

 最後の番号を押し終えたと同時に、トゥルルルルと、電話が通信を開始する。

 何故か、心臓の音が大きく聴こえてきた。……何でだろう。

 私は何故か朝に見た夢のことを思い出した。あの時、私は何かを忘れているような気がした。何で忘れてるって、今まで気付かなかったんだろう。

 何で葵と話をしていて、矛盾を感じているんだろう。

 ……鍵は葵が隠しているような気がする。


 私がそう思っていたら、ガチャリと言う音が受話器から聴こえてきた。


『はい、松風です』

「松風さんのお宅ですか? こんにちは、お久しぶりです。涼暮です」

『涼暮……もしかして、早苗さん?』

「はい? そうですが……」


 何故か葵のおばさんの息を飲む音が聴こえた。

 あっ、あれ? 何で?

 心臓が、早鐘のように響く。何で?


『……もう、あの件は終わっているはずですが』


 おばさんの声は固い。

 えっ? あの件って、何?


「あ、あのう……松風さん? あの件って、何ですか?」

『私達はちゃんと制約を守っています! うちの息子があなたにしたこと、私たちはちゃんと反省しています! ただ……うちの息子は家を出て行きました! 高校を卒業と同時に! もううちの息子と私たちは全く関係がないんです! お願いですから……もう私たちのことは放っておいて下さい……』


 最終的には、おばさんは泣き出してしまった。

 嗚咽が受話器に響き、気まずい空気が流れる。


「あのう……」


 私は何とか情報を引き出そうとする。

 葵に、私はいったい何をされていた?

 それは開けてはいけない蓋のような気がし、心臓が早鐘を打つと同時に、チリチリと胸が痛くて仕方がない。早鐘とチリチリと、どちらが本当の感覚なのか、今の私だと判別がつかなかった。


「すみません、松風さん」

『まだ勘弁してくれないんですか?』


 おばさんは泣きながらも、電話を切らないということは、まだ話を聞いてくれる気があるって事でいいんだろうか? それとも、葵のしでかしたことがそこまでひどくって、そこまで罪悪感を伴うものだったんだろうか?

 私は、早鐘を打つ胸を押さえて、言葉を紡いだ。


「私はいったい、葵に何をされたんですか?」

『っ……!?』


 再度息を飲む声が聴こえた。

 次に聴こえた言葉は、私の心臓を止めてしまった。


『何で、覚えていないんですか? 私たちは大変だったんですよ!? 近所の人たちには隠していましたが、どこから漏れたのかわかりません。それともあなた方は触れ回った挙句、ころっと忘れたとか言うんですか? 冗談じゃありませんよ。あなたは、うちの息子に』


 その言葉は堰を切ったかのように流れ、溢れ、蓋を。こじ開けた。

 私はスマホを落とした。

 液晶画面の割れる音が響く。


「お姉さん……?」


 私はそのまま、へたり込んだ。

 体中が震えて、スマホを拾おうとしても、拾うことができなかった。替わりに私は、自分の体を抱き締めた。歯が寒くもないのにカチカチカチカチと鳴る。体中の震えが、腕をさすって温めても温めても止まる事がなかった。

 潤君は私と同じように座り込み、スマホを拾った。

 今でもおばさんは、けたたましい声で話し続けていた。


『暴力を受けた挙句に×××に変貌したなんて言われて、裁判所に呼ばれたこと、あなたはただ寝ていたから何も知らないでしょう!? あなたにも非はあったんじゃないんですか!? 私たちは何もしていないのに、勝手に悪者にされた挙句、半径100m以内に近付かないよう誓約書まで書かされて! ご近所からは×××を見る目で見られて! もうそれで十分じゃないですか! 私たちはずっと罰を受け続けているんです! 息子がいなくなったのはもう私たちには関係のない話です! 息子がいなくなってくれたおかげで、ようやく肩の荷が下りたんです!

 ちょっと、聞こえていますか!

 聞いていますか! あなたが訊いたんでしょう?

 あんたが訊いたんだろうが!

 ちょっと訊いているの!?

 何とか言いなさいよ!!

 …………!

 ……!

 ……』


 ……思い出した。


 私はあの時の恐怖を思い出し、床に転がっていた。

 よだれがダラダラと出る。喉が詰まったように、何度大きく口を開けても体に空気が入らず、息ができないのだ。


 私……。

 私は……。

 視界が湾曲レンズで覗いた世界のように、ぐにゃりと曲がる。全ての物が、景色が色彩の固まりになって、それが何なのか判別がつかないのだ。

 頭の中に色んな光景が走っては消え、体が重力に勝てなくなって崩れ落ちた。


「お姉さん!?」


 潤君に抱きとめられた所で、私の視界は、完全にブラックアウトした。

 雨の音が聴こえる。


 ザーザーザーザーザーザーザー。


 私……。

 私は……。

 葵に壊されていたんだ。


 そこで私は意識を失った。

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