8-23

 娼館に来て二週間ほど過ぎた頃、クロウはエレナの教えですっかり読み書きを覚え、古い戯曲や小説にも手を出し始めていた。

 そんなクロウが今日手にとっていたのは博物図鑑で、娼婦たちの控室でその分厚い革の製本を体育座りで熱心に読み込んでいた。


「すごいね、もうそんなの読んでるんだぁ」

 と、掃除を終えたエレナがクロウに話しかける。


 有翼人のエレナはいつも変わった服装をしていた。上着は翼を袖に通せないので、長く白い布の真ん中に穴を開け、そこから頭を通して脇を紐で結んだだけのものだった。ボトムスは足の動きを遮らないための裾の短いパンツで、機能的かつ質素だが際どい格好だった。


「故郷じゃあ興味がなかったんだけどね。いざこうして読み書き覚えると読みたい本がどんどん出てきたの」 


「そうだねぇ。クロウはとっても読み書き覚えるのが早かったもんねぇ。本当に一度も勉強したことがなかったの?」


「さっき言ったけど、故郷じゃあ興味がなかったのよ。だからからっきしだったわ」


 この物覚えの良さは、当の本人にですら奇妙だった。

 確かに、自分は以前から覚えないといけないと思ったことはすぐに会得できていた。母に命じられて始めた家事もキャバレー時代の踊りも周囲が感心するほどだった。

 その折に彼女はただ覚えの良いだけで済ませていたが、改めて振り返るとその習得に彼女はそう長い時間も苦労も要さなかった。

 しかしエレナはそんなクロウの様子を気にせず、そうなんだぁとクロウにもたれかかって一緒に図鑑を読み始めた。


「……エレナ、貴女すごい軽いのね? 大丈夫? ご飯食べてるの?」

 体重を預けてるはずなのにまったく重みを感じさせないエレナにクロウは驚いた。まるで、小鳥が翼を休めるために小枝にとまっているかのようにさりげなく、そして軽かった。


「へへ~、エレナは有翼人だからねぇ。飛ばなきゃいけないから骨もお肉もほかの種族より軽いんだよ」

 と、有翼人の少女は木陰の間から聞こえる鳥のさえずりのような笑い声をあげた。掃除という生活味のある仕事をやった後だというのに、お伽噺の登場人物のような雰囲気がある少女だった。


 クロウはアリアが娼館に来た初日に言った、“あの種族は体が弱い”という言葉を思い出した。確かにクロウの力でも、思い切り捻れば関節がどうにかなってしまいそうなほどに、特に翼の所が弱々しかった。

 有翼人は先の大戦中、体が弱くまともに戦えなかったため、空路経由での物資の運搬などの後方支援を期待されていた。

 しかし物をもって飛ぶこともまた満足にこなせず、結局は伝達係としてしか彼らには活躍の場がなかった。

 そのため戦時中の活躍によって発言力が左右された戦後においては、住む場所が他種族によって切り開かれ、種族として衰退していく一方だったのである。

 あるものは新天地を求めひたすらに空を旅し、あるものは歌声を活かして見世物小屋で歌手として、あるものは物乞いをして細々と生きていくしかなかった。

 そして、その物珍しさから近年は人身売買も多発するようになっていた。


「飛べるんなら……こんなところ逃げればいいでしょ?」


 エレナはクロウから体を離すと、首を振りつつ言った。

「カールスさんに大羽を取られちゃったんだよぉ。だからエレナは飛べないの」


「あ……ごめん」


「いいんだよぉ。最初はみんなそれ訊くから」

 そして、エレナは翼を広げて掌を見る様にして見つめた。

 その羽は髪と同じように薄く桃色を帯び、さながら光に当たった真珠のように濃薄鮮やかな桃色を発していた。

「でもねぇ、飛べない有翼人っていうのは何なんだろうねぇ」


「……飛べない鳥も世界にはいるよ」


「本当に?」


「ほら、ここに載ってる」

 そう言って、クロウは図鑑の走鳥類※の絵を指し示した。

(走鳥類:ダチョウなど)


「わ~足長い」


「こいつらは足が速いんだってさ」


「へ~」


 足……クロウはふと、控室の隅に立ててある松葉杖を見た。それは、娼館から逃げるのに失敗して連れ戻された際、足の指を切られた娼婦の杖だった。彼女はもうその杖を使わなければ日常の歩行がままならないほどだった。もちろん走ることなど永遠に不可能だ。


 クロウは思わず口を歪めて、「下衆どもが……。」と漏らした。


 驚いてエレナがクロウを見る。


「あ、ごめん。口が汚かったね」


 エレナが笑う。

「うう~ん、何かクロウにはそういうのが似合ってる気がするよ。様になってる」


「……それ、褒めてるの?」


 ふたりが笑っていると、控室のドアが開き深い灰色の髪をした童顔のバリーがクロウを呼んだ。バリーという青年は、ここで働く唯一の男だった。

 カールスは過去に部下に裏切られた経験から、なるべく男を身近に置くのを避けていた。しかし流石に男一人の手で娼館を経営するのは無理があり、貧しい農家から働き手として貧弱で気弱な少年バリーを格安で引き取ったのだ。カールスはひと目見ただけで、バリーには野心の炎などこ生まれ得ないであろうことを見抜ていた。バリーの両親も、口減らしになると喜んで息子をカールスに売り渡した。

 そしてカールスが見抜いた通り、貧しい農家の末っ子のバリーは従順以外の特技を身に着けていなかった。彼は娼館に来てからのカールスの数回の殴打であるじの表情と殴打の関連性を理解した。今ではカールスが一日無言でいても彼の仕事をサポート出来るほどになっていた。

 そんな哀れな影のあるバリーを、娼婦たちは青年になってもとはみなさなかった。なので、客を取った後の全裸姿を彼に見られても一切の恥じらいを感じることがなく、バリーは下働きとしてはこれ以上ないほどに便利にこき使われていた。

 もっとも、バリーもバリーで客との行為の最中には恥じらいを交えた甘い嬌声を上げるクセに、客がいなくなると辛辣な悪態をついて股を広げ陰部を掻き毟る娼婦に女性としての魅力を感じてはいなかったのだが。



「日が沈んでないうちに客を取らされるなんて聞いてないんだけど?」


「……ごめんなさい。特別な常連さんなので、どうしてもということで……。これまでも度々あったんです……。」


「……そう」


 バリーに連れられ、クロウは客室に向かう。

 雑種というのはあくまで経営者都合で、客としては得体のしれない雑種を抱くよりは同じ人間、もしくは没落貴族のエルフを抱く方が彼らの趣味には合っていた。なので、クロウはとりわけ人気の娼婦ということにはならなかった。

 そのため固定客はつかず、目当ての娼婦が既に接客している場合にのみの指名を受ける程度だった。そしてもう一つは……。


「良かったですよ、クロウさんが他の皆さんと馴染んでくれて。カールスさんも一安心です」


 ここに来た当初はさんざん殴られたはずなのに、カールスに平伏するあまり、主人の喜びを自分の喜びと錯覚するようになった青年は嬉しそうに話す。娼婦の中には、好色家のカールスのことなのでバリーにも手を出しているに違いない、と噂する者もいるくらいだ。

 そしてそんな“可哀想なバリー”に、クロウも他の娼婦と同じように思わず哀れみの目を向けていた。


「そうですねぇ、お客さんも次第につき始めたし。踊り子をやっていたクロウさんなら、本気を出せばここのお客さんなんて簡単に虜にできちゃうんじゃないですか? いやホント僕はそう思いますよ」

 と、落ち着き無くバリーは言う。


「言いたいことがあるならはっきり言ったらどうなの」

 挙動のおかしさや呼吸と心拍音の乱れから、バリーは自分に何かを隠しているらしい。クロウは自ら切り出した。


「……あの……その、実は……お客様が……。」


「客が、何?」


「はい……実は追加料金をもらってまして……。」


「……冗談でしょ」


「すみませんクロウさん。他の先輩方がどうしてもやりたくないと……。」


 このように、面倒くさい客ややりたくない行為を強要してくる客はクロウたち新人に割り当てられていた。

 口では女同士協力しないといけないと言っている娼婦たちだが、いとも簡単に厄を他人に回すこともする。

 そして不平を言う新人には、私も昔はやらされた、アンタたちも新人が来たらやらせればいい、の一点張りなのである。


「私もやだっ」


「困りますクロウさん。もうお客様お待ちなんで。そんなことを言われると、僕もカールスさんに報告をしなければならなくなります」


 バリーは自分がカールスの犬っころであることを誇るでもなく卑屈になるでもなく、とても自然なこととして受け入れていた。脅しなどではなく真っ直ぐな感情で鬼主人のことを口にする。


「……何の要望があるの?」


「大丈夫です、今日のお客さんは道具を使うだけです」


 何が大丈夫だよと小声で文句を言ってからクロウが訊く。

「道具って?」


「張り型と鞭です」


 それを聞くなりクロウはその場で座り込んだ。

「……無理」


 バリーはクロウの前でうろたえた。

「ああ、ごめんなさいっ。軟膏とかすぐに用意しますし、クロウさんが無理なら今日はこの後はお客さんを付けませんっ。だから今回だけは」


「くそっなんであいつら……本当は客は誰を指名してたの?」


「それは僕の口から言えません。例えそれがアリアさんであっても、それは絶対です」

 と、バリーは毅然として言った。


「……こんな時だけ男らしくならないでよ」


 そして客の待つ個室の前についたバリーが言う。

「クロウさんならきっとやり遂げられますよ。僕、初めて見た時から、クロウさんって他の女性にはないタフな心を持ってるって思ってたんです」


 クロウが客室のドアをに手をかける。

「まぁ嬉しいダーリン。貴方の期待に添えるよう、私がんばっちゃうわ」


 女性に初めてダーリンと言われたバリーは、頬を赤らめながら「ダーリンだなんて……。」と照れまくった。


 そしてやはり、クロウはそんないまいち足りていない青年に、可愛さよりも憐れみを感じるのだった。


 クロウは意を決して大きくひと呼吸し気合を入れて客室に入った。

 入室したクロウの正面には、ドミノマスク※を被った肥満の中年男が、鞭と張り型を手にして立っていた。

(ドミノマスク:目など顔の上半分のみを覆う、仮装用のアイマスク)


「初めまして、子猫ちゃん」

 既に男は全裸で、勃起していたイチモツがクロウを見るなり立って跳ね上がり、男の下腹を勢いよくパチンと叩いた。


 一瞬だけ、クロウの意識が飛びかけた。

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