第3章 マイ・ベイブ
3-1
夜明け頃にはロランの体は十分に暖まっていた。
その間、クロウの方は彼を残し周辺を散策していた。
危険が去ったこと、自分たちが流されたのは地図上ではどこかを調べるためである。
昨夜の激しい逃走劇が嘘であるかのように、川原は穏やかだった。川はせせらぎ、柔らかな苔の匂いが周囲を漂っていた。
クロウが散策を終えて岩場に戻るとロランが目を覚ましていた。
呆然としたようにその場に体育座りで座り込んでいる。
「起きたね」
クロウは散策ついでに摘み取った野生のベリーと、火にかけて水を飛ばしたパンをロランに差し出した。
「ほとんど流されたり、使えなくなったりしてしまってね。今食べられるのはこれくらいだ。熱を作るといい」
しかし、ロランはぼおっとしたままでクロウを見る。
「どうした?」
ロランはサラシを剥がされ、シャツ一枚になった体を見た。
「……見たのかい?」
「拝ませてもらった。さすがエルフだ、芸術的ですらあったよ。私が男だったら変な気を起こしていただろうね」
クロウはベリーをかじりながら答える。
ロランは打ちひしがれたように塞ぎ込み、膝と膝の間に額を埋めた。
「そうか……。」
「お前さん何か勘違いしてやしないか? 言っとくが、お前さんの秘密なんて最初に出会った時に気づいていたぞ? フェルプールは鼻がいいんでね。多分、ディアゴスティーノだって気づいていただろうよ」
ロランは力のない顔でクロウを見た。
「そうか……気づかれてないと思ってたのはぼくだけだったのか」
ロランは再び顔を立てた膝の間にうずめ自嘲気味の笑いを浮かべる。
「とんだ間抜けだな」
「本名は?」
「え?」
「ロランってのは偽名だろ?もうこの際だ、本名を教えてくれよ」
クロウは木の実をすべて口に頬張った。
「イヴ……イヴ・ヘルメス」
「ん~、ヘルメス候のご令嬢ですかい」
クロウは感心したように言って、果汁で汚れた指を舐めた。
「……どうせそれも気づいていただろう?」
「うすうすは。振る舞いは上品だしいい教育を受けたろう発音、上質のものを食べてきただろう奴特有の匂いもするからね。フェルプールの五感は誤魔化せないさ」
ロランはため息をついて丸まった。
「食べてくれ、というか、嫌でもかき込んでくれ。体力をつけないと。すぐに移動したい」
「ああ、そうだね」
ロランはパンを取って食べ始めた。
「……次はどこに?」
「お前さんのおうちだよ。帰るんだ」
「……そんな」
ロランは悲劇のヒロインのような顔を上げた。
「約束と違う! 次の新月まで付き合ってくれるって話だっただろう?」
ロランがかけていた毛布をはだけさせクロウに迫った。
褐色だがシミ一つない光るような肌と、彫刻のように均整のとれた四肢がクロウの目の前にあった。
目のやり場に困待っているクロウに気づいたロランは慌てて毛布で体を隠した。
目を背けたままクロウが言う。
「……事情が変わったんだ、申し訳ない」
「お金を受け取ったじゃないか?」
「前金はな。それだけだ、成功報酬はいらない。ファントムの今回の依頼は失敗に終わったって事だ。言いふらしてもらっても構わないぞ。業界で信頼を失うというそれ相応のペナルティには甘んじるつもりだ」
「一体どうして? 君を信頼していたのに……。」
「ありがとう。でも今言ったろ、事情が変わったんだ。ゴブリンが出て来るっていう最悪の状況だ」
ロランが分からないという顔をする。
「ゴブリンなんて……雑魚モンスターじゃないのか?」
「お前さん、箱入り娘どころか生まれてこれまで物置か何かにしまわれていたのかね?」
クロウは白んだ空を仰いで言う。
「ゴブリンが雑魚モンスター? そりゃ戦前の話だろ。ラクタリスの話を覚えてるか? ゴブリン狩りを生き残ったやつらはもう以前の奴らじゃあなくなったんだ。種族の中でも特に執念深く残虐なやつらが生き残って、そいつらが更に子を成した。ある意味よりすぐりさ。私たちの業界じゃあ、アイツらだけは絶対に敵に回しちゃいけないんだ」
「でも君なら追い払えるだろう? 一瞬で五匹も倒していたじゃないか」
「10回来たら9回は撃退できるだろうね。でも、そのたった一回が命取りなんだ。一回でもしくじれば、奴らは私の足の腱を切って動けなくなったところを肉食の巨ブタの檻に放り込み生きたまま食わせるだろうよ。そして私の哀願と悲鳴を聞きながら祝杯とともにマンマ・ミーアの大歓声を上げるのさ。真面目な話、奴らに「慈悲」なんて言葉は存在しない。生まれてこの方聞いたことがないし、これから覚えるつもりもない。例え教え込もうとしても右から左へ通り抜けてしまうんだ。誇張じゃないぞ? 屈強なオークだって奴らの群れに出くわしたら道を空ける。そんな奴らが9回追い払っても10回襲ってくるんだ、異常な執念でね」
「そんな……ゴブリンが」
「戦争が奴らを変えたのさ」
クロウはロランの近くに腰を下ろして念入りに強調した。
「永遠にな」
クロウは続ける。
「そして……そんなゴブリンが雇われるってことはつまり、金を出した奴が後先のことを関知していないってことでもある。まぁよほど金がないか嫌われていない限り奴らを雇うなんて発想にはなりはしないよ――」
クロウは昨夜の事を思い出した。
「しかも、あのゴブリンは妙な武器を持ってた。あれはなんだ? お前さん何か知ってるようだったが……」
「あれは……勇者の残した書物に記されてた武器だよ。とても危険で、人間の子供でもオークの戦士を殺すことができる武器なんだ。でもどうして、ゴブリンなんかが……。」
「だったら尚更だ。この依頼は、降りる。文句はないだろう?」
ロランには、もう何もクロウを引き止める言葉がなかった。
クロウは気の毒にも思うが、ゴブリンを相手にするなら多くのレンジャーが同じことを言うことも知っていた。
割が合わないのだ。
「悪く思わないでくれ。私も負けを前提にした戦なんてする気はないんだ。無頼の日々を送っているが、犬死にだけはごめんなんだよ」
私はロランの肩に軽く手を置いた。
「まぁ女なのに領主になろうってのは、よほどの事情があるということなんだろうけれど……」
「女じゃない!」
弱々しくも、それは本気の叫びだった。女の声だったが、その芯には別のものがあった。
「ぼくは……女なんかじゃない」
そして、怒りと嫌悪も含まれていた。
「……そうか」
「信じてないだろう?」
「いや、そういうこともあるだろう。何しろ世界は不思議で満ちている」
クロウの皮肉にロランはそっぽを向いた。
「話を聞いてよ本当なんだ……ぼくは女じゃないんだ」
「……よしじゃあ聞こうか。何しろ、私はお前さんの体を一晩中裸で暖めてたんだ。もしお前さんが女じゃないというなら、私も純潔の危機だからね」
「……
「女が見え透いた嘘をつく時はね、ダーリン?分かってても騙されてあげるべきなんだよ」
ロランは少し微笑んだ。
そうしてロランはクロウに語り始めた。遠くを眺めるように、過去を振り返りながら。
「――子供の頃から変に思ってたんだ。どうして自分の体は女なんだろうって……。」
クロウは缶の中にあったおかげで水難を逃れた煙草を取り出し、それを紙に巻きながら聞く。
「変に思うかもしれないけど、小さい頃はいつかは自分の体が他の男の子達と同じように成長していくものだと思ってたんだ」
「そういう育てられ方をしたとかではなく? 貴族には妙な趣味がある奴もいると聞くが」
「違う。それどころか、淑女の英才教育の日々だったよ。でもぼくはそれが苦痛でたまらなかった。装飾だらけのドレスを着てテーブルマナーを教えられるより、他の兄弟たちと外で駆け回って遊ぶ方がずっと楽しかった。父はそんなぼくに頭を抱えていたみたいだけどね」
一本できたので、クロウそれをシガレットホルダーにはさんだ。
マッチを爪でこすり火をつけ大きく吸い込む。乳白色のシガレットホルダーの先が赤く灯った。
ロランはクロウの一連の仕草を興味深そうに見ていた。
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