第20話

 自宅へ帰還したオリヴィアを待っていたのは、一週間の軟禁生活であった。

 窓枠には厳重に鍵がつけられ、扉の前には常に乳母が待機している。トイレに行くこともままならない。任されたのは古典文学の現代語訳と海外文学の翻訳作業。水を飲みに行こうとするだけで「お嬢様、どちらに行かれるのですか」と問いただされる。まったく息が詰まりそうだ。

「お嬢様、旦那様はお嬢様が憎くてこのようなことをしているわけではありませんよ」

 昼食を盆に乗せてやってきたポーレットは、真っ赤な口紅の塗られた唇を大きく開けてそう言った。

「旦那様はお嬢様に立派になって頂きたいのです。一流の職業につき一流の殿方と結婚し、最高に幸せな家庭を作って頂きたいのです」

「そんなの押し付けだわ。私には私の人生があるの」

「お嬢様、旦那様の気持ちもお考えください。旦那様は奥様が亡くなってから、いつだってお嬢様たちのことを一番に考えてこられました。シルヴィア様が天国に立たれた今、旦那様にはオリヴィア様しかおられません。どうか、旦那様の言いつけをお聞きください」

 嵐の夜、ゴミ捨て場から帰ってきたクマのぬいぐるみは、箪笥の上に座っていた。

 ひどい雨の中捨てられていたはずなのに綺麗にされていたのは、ポーレットの気遣いだったようだ。

「いくら悪魔憑きといえど、シルヴィアお嬢様が大切にされていたぬいぐるみです。あのような汚い風貌では、シルヴィアお嬢様もさぞ嘆き悲しむでしょう」

 捨てるのではなかったのかと問いかけると、ポーレットははぁ、と深くため息を吐いた。

「そのつもりでしたし、今もその気持ちは変わりません。けれど、こうして舞い戻ってきたということは、まだこの家に居たいということなのでしょう。この家に居る限り、汚い恰好でいることは許しません」

 その高圧的な言い分に、オリヴィアはポーレットらしいと苦笑した。

 出された紅茶を飲むことなくクマのぬいぐるみに結ばれた赤いリボンを弄んでいるオリヴィアに、ポーレットは続けた。

「お嬢様」

「なぁに?」

「来週、この屋敷にまたシャルル様がいらっしゃいます」

 思わぬ発言に、オリヴィアはリボンを弄る手を止めた。

「……え?」

「そのぬいぐるみは、嵐の後も二度ほど屋敷の外に捨てました。けれどそのたびにどこからともなく戻ってきて、使用人も皆気味悪がってしまっています」

「で、でももう、事は終わったって……」

「すべては旦那様が決めたことです。来週の週末、またシャルル様がいらっしゃり、儀式を行います」

「そんな……だったらシャルルではなく彼でも――」

「すべては旦那様がお決めになります。旦那様以外に決定権はございません。無論私にも、お嬢様にも」

 険しい表情でこちらを見つめるポーレットから視線を逸らし、手元に落とす。膝の上では、赤いリボンを付けたクマが円らな瞳でこちらを見ている。何も知らない、危害など加えることのない純粋で無垢な瞳だ。

「……旦那様は、シャルル様を是非オリヴィア様にとお考えになっているようです」

 ポーレットの突然の告白に、オリヴィアは思わずぬいぐるみを落としそうになった。床に直撃するギリギリで受け止めて、声を荒げる。

「縁談てこと? わたしはまだ二十歳にもなっていないのに?」

「いずれ二十を迎えます」

「わたしは彼のことをなんとも思っていないわ!」

「シャルル様はオリヴィア様のことを好ましく思っていられるようです」

「で、でもわたしは――」

 クマのぬいぐるみを抱えたまま立ち上がったオリヴィアの脳裏に浮かんだのは田舎町のプラットホームであった。そして汽車。黒いジャケットを着たサングラス。触れた唇をとっさに抑え、息を止めた。

 そんな彼女の行動に、ポーレットは一体何を思ったのだろうか。悟ったかのように目を細めた。

「オリヴィア様、シャルル様は一週間後にこちらに来られます」

「一週間後……」

「オリヴィア様」

 ポーレットはそこで再び名前を呼び、オリヴィアの瞳をまっすぐに見つめた。

「ポーレットは、常にお嬢様の幸せを一番に考えております」

 ポーレットはそう言って、うやうやしく頭を下げた。失礼します、という言葉を残して去っていった。残されたのはオリヴィアと、無垢な瞳を持ったクマだけ。

 オリヴィアは乳母の去った扉を見つめ、立ち上がり、部屋の隅に設置してあった電話機を手に取った。ぐりぐりとダイヤルを回し、あと一回というところで指先を止めた。

(しんどくなったら、俺の名前を呼んで)

 脳内で反響する彼の囁きは、ひどく優しく、そしてどこか甘かった。

(しんどくなったら、って)

 来ないのに。来ないくせに。名前を呼んだところで、どうせ何もできないくせに。ダイヤルを回すことのない受話器の奥から聞こえるのは、ツーツーという電子音だけ。何もない。誰の声も聞こえない。

「……無責任なこと言わないでよ」

 自分に言い聞かせるかのように呟いて、彼女はゆっくりと受話器を置いた。

 


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