第一章

薔薇の館(1)

 差し込む陽の光が思いのほか優しいのに気付いて、アザレアは目を覚ました。昨晩は備え付けのソファの上に申し訳程度の毛布を敷いてなんとか眠ったものの、起きた瞬間からかたいクッションに圧迫され続けた肩がじんわりと痛んだ。

 とはいえ座ったまま眠るより睡眠の質はずっとましだった。夢も見ずに眠ったせいか、目覚めはいい。妙にすっきりしている。

 既に部屋のカーテンも取り去っていた。まだ陽が昇りはじめたばかりの空が窓の向こうに広がっている。それを見ながら、今が上掛け一枚で過ごせる程度のあたたかい季節でよかったと思う。

 朝が来てしまった。

 昨日のうちからわかっていたのに、それでも苦い気持ちが胸に広がる。モーリスが階下へ迎えに来るのは十一時。十時半には部屋を明け渡すことになっていた。アザレアはしばらくもぞもぞしていたが、観念して起き上がり、手早く寝間着を脱いでいつもの簡素な普段着に着替え、顔を洗い、髪に櫛を通した。昨晩大泣きしたせいか、瞼が腫れぼったい。長い髪をまとめた後くるりとねじって止めて、いつも習慣にしていた通りの手順で、立ち去る前に簡単に掃除をする。いつも通りのことをしていないと落ち着かなかった。拭き掃除に使った雑巾を固く絞って干したところで、やっと一息つく。

 きれいに掃除した部屋の真ん中で、ようやくここから離れるのだという実感が湧いた。ずいぶん長い間をここで過ごしたものだ。

 約束の時間にあっけなく部屋の引き渡しが終わり、自分と自分の旅行鞄だけになってみると、喪失感よりもむしろ自分のあまりの身軽さに、呆気に取られてしまった。所在なく建物の前の石畳の階段に座って往来を眺めながら、モーリスが迎えに来るのを待つことにした。

 このアパートメントは街の中でも活気のある通りにすぐ面していて、だからアザレアはかつてバルコニーから下を見下ろせば、いつでもたくさんの人の往来を見ることができた。幼い頃は、素敵なドレスを着た貴婦人や紳士たちに架空の物語を膨らませ、過ぎ去る馬車の背筋の伸びた御者に無邪気に手を振ったこともある。幾何学模様に敷かれた赤と黄色のタイルは、朝早くから夜遅くまで目まぐるしい通りを華やかに演出していた。

 アザレアはこの街で生まれ、そしてこの街が好きだった。近所の住人は皆顔見知りで、女手ひとつで娘を育てているのを気の毒に思ってか、皆貧しいなりに気遣いあって暮らしていた。それにアザレアが眼帯をつけだしてからも変わらずよくしてくれた人々ばかりだった。

 挨拶もせずに離れていくことを、誰か気に留めるだろうか。急に思い立って、迎えが来るまでに行けるところだけでも回ってしまおうかと立ち上がったが、直後近づいてきた高級そうな二頭立ての馬車が目に入り、アザレアは踏みとどまった。

「アザレアさん」

 先日と変わらぬ格好で馬車から降りてきたモーリスがにこやかに声を掛けた。アザレアが鞄を持ち上げる前に、彼が近づいて自然に荷物を引き取った。

「さあ、どうぞ。すこし早かったかと思いましたが……」

「いえ。時間通りですよ。引き渡しもすぐ済みましたから」

 促されて乗り込んだ馬車の中は思いのほか広く、向かい合う席の対角線上にそれぞれ座った。隣に置こう、と鞄をやわらかく置かれて、礼を述べて引き寄せる。モーリスが御者に合図を送って扉を閉めると、馬車はなめらかに走りだした。外観もずいぶん上等な馬車だと思っていたが、こんなに座席の揺れが控えめなものかと驚いた。最もアザレアが乗ったことがあるのは馬に引かせる荷車の類で、大抵乗った瞬間から揺れで舌を噛まないようにしっかり口を引き結んでいる。

「よく眠れましたか」

「ああ、そうですね。悪くない目覚めでした」

 今朝起きた時のことを思い出しながら、適当に答える。モーリスは当たり障りのない会話をひとつふたつ投げかけたが、その気配りも如才なく、アザレアは感心した。こういう人たちにとっては当然なのかもしれなかったが、生憎そんなに上等な人々とは付き合ったことがない。

「急かすようで申し訳ありませんでした。お葬式の翌日に」

「いいえ。どうせあの部屋も、今日引き払うところだったんです。むしろ好都合でした」

「そう言ってもらえるとありがたい。門の時間が迫っていたものだから」

「門?」

「公爵邸へ行くのに必ず通る必要がある、関所のようなものがありまして」

 アザレアはふと気になって尋ねた。

「公爵邸って、いったいどこにあるんですか」

「ここからだとちょっと距離がありますね。十二時頃に門を通過する予定ですが、それから一時間ほど走れば着くはずです」

 この近郊に関所があるだなんて知らなかったし、公爵様のお屋敷があるなんて話も聞いたことがない。

 一瞬感じた違和感の正体を突き詰めることなく、そうですかと相槌を打って軽く流した。自分が世間知らずなのは承知していたし、それをわざわざこの男の前で披露する必要もなかったからだ。

 なんとなく感傷的な気分のまま街を抜けて、馬車は田園地帯へ入った。舗装されていない田舎道も軽快に進んでいく。彼は合流前にちょっとした軽食を買い込んでいたようで、アザレアは勧められて薄焼きのクッキーや、卵のサラダを贅沢に挟み込んだサンドイッチをすこしつまみ、携帯用の容器にはいったぬるめの紅茶を飲んだ。あるだけすべて食べてもいいとモーリスは言ったが、食費を切り詰める生活が長くてすっかり少食になっていたため、途中で辞した。

 正午に差しかかる頃、モーリスは窓をかるく叩いて御者へ合図を出した。

 今の仕草の意図を問うと、門を通る時にはそれとわかるように、御者に公爵の旗を掲げてもらうのだと言う。

「もちろん紋章入りの馬車を使うのが一番わかりやすいのですが、悪目立ちするのを避けるため、最近はこのような方法を取っています。門を通る時、わざわざ一人ひとり呼び止めて、通るか通らないかを聞くわけではないので。門とはそういう性質のものです」

 はあ、と相槌を打つ。

「じゃあ門というのは、何か詰所のようなところで手続きするのではないんですね」

「ええ」

「間違えて入ってきてしまうとか、無いんですか?」

「その心配はまったくありません。いずれわかります」

 モーリスは茶目っぽく笑いかけてみせた。

 ふうん、とアザレアは感心しかけて、その時ふと違和感に気付いた。彼の、撫でつけられた灰色の髪の生え際――たしかに豊かなシルバーブロンドだったはずのその髪の根元が、黒く染まっている。果たして今朝会った時から、いや、はじめて会った時から、そうだっただろうか? 彼の顔ばかり見ていて、髪をよく観察していなかったかもしれない。

 それにしても、奇妙だった。普通髪を染めたのなら、毛先の色が変わっているはずなのに、これではまるで逆だ。

 逆。

 

 途端に軽い耳鳴りがして、アザレアはぎゅっと目を閉じた。

「アザレアさん?」

 話しかけられて、アザレアはぱちぱちと瞬きを繰り返した。耳鳴りが遠ざかる。

「もしかして気分が悪いのでは? あまり食べていなかったし」

「ああ、いえ、お気遣いなく。もともと少食なんです。でも、乗り慣れないからかも」

「公爵邸所有の馬車ですから、乗り心地は保証しますよ。辛かったら途中どこかで一度、休憩がてら止めましょう」

「そこまでしていただかなくても……景色でも見て、気を紛らわせます。門の時間というのは……」

「ああ、もう、無事通りすぎました。畑の向こうに立っているあの三角の柱です」

 窓へ顔を近づけて、どんどん後ろへ遠ざかっていくその柱を見た。確かに立っている。しかし、それはさきほどからずっと立っていただろうか? あんなに目立つ柱が畑の真ん中に立っているなんて、今まで気付きもしなかった。

 それはひどくマットな質感だった。何かの墓標みたいな。

 なんとなく、心臓の鼓動が速くなっていくのを感じていた。息苦しい。こういうときの悪い予感はだいたい当たるものだ。理由のない焦燥感を押さえつけるようにぎゅっと手を握り合わせて、動揺を悟られないように一心に外を見つめていた。いや、そうではない。

 

 もし彼を見て、何かを再び発見してしまったなら、どう自分に説明したらいいのかわからない。もしかして自分は、とんでもない人についてきてしまったのではないか。窓の外を移ろっていく景色はずっと変わらぬ田園風景のままだが、だんだんこんもりした森の一部が視界に入るようになってきた。鳥が上空を飛び回って、愉快そうに鳴いている。

「祖父と、知り合いだったと仰ってましたね。どういうお知り合いなんですか」

 顔を外へ向けたまま、アザレアは問いかけた。声が震えないか心配したが、かすかにうわずったトーンは馬車の車輪の音に掻き消される。

「命の恩人です」

 モーリスもまた静かな口調でそう言った。

「私がまだ仕事を始めたばかりの頃に助けていただきました。あなたも覚えがあるかもしれないが、ライアンは特別な人で」

 特別な人、と意味深にアクセントを乗せた。

「私がこの地でうまくやっていけたのは、彼のおかげでした。彼はまだ年若かったが、物怖じしない人だったし、好意的だったから」

 しみじみと呟くのを耳だけで聞きながら、一体この男は、いくつなのだろうと考えた。祖父が若い時分に知り合ったのなら、もうとっくに祖父は亡くなっているのだから、老人でもおかしくないはずだ。しかし彼の顔にそのようなたるみを見た覚えはなかった。

「機会があれば、あなたのお母様にも恩返しがしたかった。こちらに来たのは本当にひさしぶりで、まさかそんなに具合が悪かったとは知りませんでした。我が君に頼まれた仕事がなければ、ずっと知らないままだったかもしれません」

「我が君?」

「公爵様です。屋敷の者は皆、そう呼びます、あるいは旦那様と」

「へえ。公爵様ってどんなお方なんですか?」

「お強く、お美しく、素晴らしい方です」

「はあ……え?」

 その屈託ない賛辞を聞いて思わず視線をやった途端、ぎょっとしてアザレアは軽く飛び上がった。

 向かいに座っていたモーリスは、いまや別人のような変貌を遂げていた。撫でつけられた髪は、灰色から艶やかな黒褐色に変わっていた。肌には血色が宿り、頬の線や顎の輪郭は明らかに引き締まっている。まとっている衣類こそ変わらなかったが、中肉中背の風体は若者のように筋肉の張りを取り戻し、堂々たる姿勢で足を組んでいた。肉体の時間が巻き戻ったのかと錯覚するほど。

「な、なぜ、あなた」

「え? ああ」

 驚きに目を瞠っているアザレアを安心させるように笑いかけた。

 顔の造形は変わっていないのがそれでよくわかる。

「失礼。驚かせてしまいました。マカイに入ると仮の姿を失うことを失念していて」

「マ……?」

「魔界です。さっき門を通過したでしょう?」

 一体何を言っているのかさっぱりわからなかった。

 だが、手品よりも鮮やかに目の前で変身した男に対して湧きあがったのは、ただ強い恐怖心だった。血の気の引いた手が震え、次の瞬間アザレアは鞄をひっつかむと馬車の扉へ手をかけた。馬車はまだ走っている最中だが、そんなのどうでもいい。力いっぱい押したが鍵がかかっていて開かなかった。

「アザレアさん」

 当然目の前の男から制止の声があがった。

「危ないですよ」

「おろして!」

 悲痛な叫び声をあげて何度も扉の鍵を回そうとしたが、びくともしなかった。無我夢中で窓を叩く。やめさせようとモーリスが手を伸ばしてくるのに気付いて悲鳴をあげた。

「離して! 触らないで!」

 鞄を振りかざしたアザレアと距離を取ろうと、彼は両手を挙げて座席へ戻った。

「やれやれ、嫌われたものだ」

「何なの? どういう……何のつもり? 私を騙したの? あなたは誰?」

「もう一度自己紹介からはじめる必要が?」

「おろして。馬車からおろしてってば! 帰らせてよ!」

 半狂乱で訴えたが、モーリスは落ち着いた様子で、顎に手をやった。

「落ち着いてください。あなたに危害を加える気はありません」

「落ち着けですって?」

「私が今まで話したことはすべて事実です。公爵邸に勤めている。屋敷でハウスメイドを募集していて、あなたに紹介したい。ただ、あなたとの認識に少々ずれがあったことも理解しています。門の開閉時刻に間に合わなくなっては困るので、黙っていましたが」

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