黒い光景に横たわる何か。

色彩フラグメント『黒棺』




「っっあああ゛あ゛あぁぁぁっ……」


 深淵にはまだ、彼女の歌声がこだましていた。耳朶を打つ清らかな声が、この世のものとは思えない濁った言葉を発している。

 視界の先に寝そべった彼女に、僕の視線は釘付けになったまま──。


 どくんと跳ね上がる僕の心臓が、正しさの意味を失わせた。

「あ゛あ゛あぁ」と震える彼女の喉が、呪うようにして僕を魅せつけている。


 彼女の下半身は、宗教的な紋様が彫りこまれた皿の上で自立していた。水平に限りなく漸近した断面が、鋭利な業物の切れ味を容易に想像させる。

 無数の鱗が精緻に並び七色に輝く尾鰭は、中空で向きを変えて稲穂のようにだらりと垂れていた。


 つまり逆さまに自立したその下半身は、虚飾の限りを尽くしたどんな芸術品よりも美しく其処に在ったのだ。


「耳障りな声だ」

「そうかしら。声を無くしては人魚と呼べないと思いますけれど」

「魚は好かん」


 悪趣味な蛇柄のネクタイを締めた中肉中背の男と、無駄に肌を露出したドレスを纏った女が何やら雑談を交わしている。

 僕にとっては、その二人の声の方が余程耳障りに思えた。気付けば僕は、下卑た会話で彼女を汚そうとする二人に剣呑な目線を突き刺していた。


「あら、強い眼ね。早速魅せられたのかしら」

「咎めてやるな。私も若い頃は盛っていたものだ」


 寛容とも緩慢とも取れる態度から、意図して意識を逸らした。腹の底から湧き上がる嫌悪感を呑み込むようにして、ぞわりぞわりと這い上がる好奇心が、僕の社交性をかろうじて繫ぎ止める。


 逆十字のイヤリングを耳元で揺らす女性に促され、僕らは着席を始めた。テーブルの上には、十組程度のカトラリーが並べられている。そのどれもが銀製で、白金の光を惜しみなく放っていた。


 着席した分だけ彼女との距離が近づき、僕の目線は更に釘付けになった。鉄の匂いと潮騒の香りが、わずかに鼻をつく。


 黒い宴。赤い皿。

 生き血の海を漂う彼女は、「ああ゛ぁ」「あ゛ぁあ」と歌い続けている。


 両の乳房が在ったはずの場所には、薄く切り取られたひとひらの肉片が、睡蓮の花のように見事に咲いている。天井から吊るされた豪奢なシャンデリアの明かりが、その身の一つ一つに瑞々しさを浮かべていた。


 すらりと伸びた二本の腕の周りに、色とりどりの果実が誇らしげに鎮座する。特にこの目を惹いたのは、瑞々しい大粒の葡萄だった。しかしほどなくしてそれが、彼女が産み落としたであろう人魚の卵なのだと気付く。


 濃紺な瑠璃色の玉の一つ一つが、いずれ生まれるであろう小さな彼女たちなのだ。その一つ一つを摘み取る悦びに、罪深さにこの胸が潰れて歓喜する。


 喉元まで迫り上がる吐き気と相反して、今すぐにでも喰いつきたい衝動が僕を震わせる。「あうあー」「あ゛あぁぁ」彼女の歌声も、次第に弱々しさを帯び始めている。目の前で消えようとしている美しい命が、あるいは既に潰えてしまった気高い命が、愛おしくて狂おしくてたまらなく思えた。


 思わず僕は、生唾を嚥下する。

 ごくりという生物的な音が聞こえたのか、先ほどの女が舌舐めずりをして微笑んだ。扇情的なその表情。艶めかしさを隠そうともしない彼女もまた、飢えているに違いないのだ。


 重厚な色をしたワインがグラスに注がれ、さも万端とばかりに主催者が立ち上がった。表の舞台では動物愛護団体の代表として知られる彼も、地下に潜れば密猟者たちの支配者でしかない。


「では、捕食者の幸運に感謝して」


 彼の言葉ののちに、『乾杯』の音が鳴り響いた。


 祝杯の中で僕は思う。

 人間の皮の脆弱さを。この皮膚の下で蠢く獣を。


 彼女を食せば僕も、きっと戻れはしない。




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