五 巨乳とマッドな研究者
ごつごつした堅い岩のような感触。
じとじとした空気に、冷たい気温。
目を閉じている津村稔は、うつ伏せに伏せている。
意識は覚醒しているものの、状況がよく分からない。
少なくとも、稔が住んでいた付近には、全身を横たえる事が出来るほど大きな岩なんてなかったし、季節は春だったから、冷たい空気でも、じとじともしていなかった。
ともかく答えを見出そうと、稔はゆっくりと瞼を開ける。
開けた視界に映ったのは、壁も地面も岩でできた薄暗い空間の中にいる二人の存在であった。彼らの足下には小さな燭台が置かれており、一本のろうそくがほのかな灯りで周囲を照らしていた。
稔は上体を起こして、二人の事をよく見てみる。
一人は、全身を薄汚い灰色のローブですっぽりと覆っている男であった。フードの隙間から見える顔は、ほお骨が浮き出るほど痩せており、無精髭が苔みたいに生えている。肌は汚れているものの白く、鼻は高く、目の色は青い。眼光は鋭くぎらついていて、稔の事をにやにやと笑みを浮かべながら興味深そうに観察していた。年齢はよく分からない。五十代にも見えるし、あるいは二十代と言っても通用するように見えた。
もう一人は、女だ。同じようなローブを着ている。だがその下にある胸が大きく主張して、女性らしい体付きがローブ越しでもよく分かる。顔の方は男と違ってフードを被っていない。整った顔立ちで、黒い瞳は大きく、口は小さい。汚れている肌は稔と同じ黄色人種の色だ。短く乱雑に切った髪も黒い。年齢は稔と同じぐらいのようだった。しかし、表情は暗く沈んでいて、せっかくの美貌が台無しになっている。
男が稔に向かって何やら話し始めた。しかし言葉が分からない。早口なのもそうだが、何よりも聞いた事がない言語だった。
稔がきょとんとしていると、男は呆れ返った仕草をする。どうやらがっかりした様子だが、すぐに横にいる女の方に向かって話しかけた。
女は男が喋る言語と同じ言葉ですぐに応じた。二、三話すと、稔の方に向き直って、
「……、あの、言葉、分かりますか?」
一語一語区切るように言った。日本語だ。しかし暗い声である。
「あ。ああ」
稔は警戒心を露にしながら頷いた。
「……良かった」女はほっとしたように胸を撫で下ろす。「日本から来たんですね? 私もそうなんです。あ、名前。私の名前は、喜多村由梨江。あなたは?」
「……津村稔」
「津村さん……ですね。覚えました。それから」由梨江は隣の男を手で指し示す。「この方は……ゴゾル……さんです。私たちをこの世界に召還した方です」
「召還?」
「……今は何も分からないかと思います。後ほど詳しく説明します。とにかく、ここでは落ち着けないでしょうから、部屋に案内いたします。立てますか?」
稔は黙って立ち上がった。それを見届けた由梨江は、「暗いですから、足下に注意してください」と一言だけ添えて稔を先導する形で歩き始める。
稔の頭の中は混乱していた。状況を掴めることができなかった。だから、とりあえずは同じ日本人であるらしい由梨江の後を追う。
壁も、天井も、地面も、やはり岩が続いている。どうやらここは岩窟らしい。
そのため足下は常に凸凹している。
唯一の光源は、一定の間隔で壁にかけられた燭台のろうそくの灯りだけで、岩窟の中は薄暗くてよく見えない。だから由梨江が言うように注意しなければ足を引っかけてしまいそうだった。
「津村さんは、日本のどこから来たんですか?」
おっかなびっくり歩く稔に対し、慣れた様子でするすると歩いて行く由梨江は、そう尋ねてきた。
「……」
戸惑いながらも、稔は自分が住んでいる県の名前を答える。
「そうなんですか! 奇遇ですね!」
驚いたように由梨江は言って、稔がいた隣の県に住んでいたと教える。声は大きかったが、空元気なのは明らかだった。しかし状況の整理が追いついていない稔には、相手を気遣う余裕は少しもなかった。だから、
「……ここは、一体どこなんだ?」
脈絡もなく聞いた。
「ここは……メルセルウストと呼ばれている世界です」
やはり聞いた事のない名前だ。
由梨江は続けて告げる。
「簡単に言えば、ここはファンタジーみたいな世界です」
ふぁんたじー?
稔は一瞬何を言われたのか分からなかった。冗談なのかとも思った。
だけど、由梨江の声はあくまで真面目だったのだ。
「着きました」と由梨江は振り返って言う。「ここが、私たちの部屋です」
木製の戸がそこにあった。
私たちという単語が稔には引っかかったが、由梨江は全く気にする素振りを見せる事なく戸を開ける。
中は狭い。四畳半ほどの広さで。灯りはやはりろうそくだけ。ただ床は岩がむき出しになっている訳ではなく、小麦色の藁が敷かれていた。
由梨江は躊躇なく藁の上へと座って、「どうぞ座ってください」と促す。
稔は戸惑いながらも言われた通り藁へ尻を付ける。ソファーみたいな心地よさは全くない。岩肌の感触も完全に相殺している訳でもない。それでも幾らかは緩和されているようだった。
「さて、先ほども言いましたが、ここはファンタジーな世界です。なので、当然魔法があります」
由梨江はローブの中から右手を出した。その手には鋭い刃先のナイフが握られている。それから左手でローブと灰色のシャツを一緒にまくると、由梨江のお腹が見えた。
「よく、見ていてくださいね」
と、由梨江は言った。
同時に、由梨江は持っていたナイフを一切の躊躇もなく腹に突き刺した。
「う……ぐぅ」
呻き声を発した由梨江の顔が、苦痛に歪む。お腹からは、だらだらと赤い血が垂れ流れる。
「え?」
稔は呆気に取られた。由梨江の動作があまりにも自然だったからだ。
由梨江は稔の存在に頓着せずに、ゆっくりとナイフを引き抜いた。
彼女の顔色は青白い。呼吸も苦しそうである。
「な、何してるんだよ」
思わず稔は言った。腰を中途半端に浮かし、両手で宙を掻き回す。酷く狼狽していた。
「……はあ……はあ……だい、じょうぶ……はあ……はあ……です、から……」
由梨江は言うが、とてもそうは見えない。
しかし次の瞬間、稔は目を疑った。
由梨江の腹の傷が、跡形もなく塞がったのだ。
「これが、私の魔法です。もっとも、この回復魔法だけしか使えませんが」
彼女は臆面もなく言う。
稔は信じられない思いだった。しかし、彼女の腹に付いている血の跡が、あるいは赤く染まった藁が、鼻を突く血生臭い匂いが、そこに傷があった事を物語る。
「本当に……魔法なんてものが……」
稔は愕然としながら呟いた。もはや、目の前で見せられたら、信じるほかになかった。
「……はい。本当に、あったんです」
けれど、その超常の力を見せつけながらも、由梨江の顔は暗いままだった。
「その、俺にも使えるのか?」
と、稔は問う。魔法なんて物語の中だけの存在だと思っていた。それが今、目の前で同じ世界の人間が使っている。興奮を覚えるなと言うのも無理な話だ。
「今は、無理です」
沈痛な顔のまま、由梨江は答える。それが稔には不思議だったし、そもそもどうしてこんなくたびれた所にいるのかも疑問だった。そして、由梨江の隣にいたあのゴゾルと呼んだ男。あれは何者なのだろう。
「今は?」
「……はい。明日、津村さんはあの男に手術をさせられます」
奇妙な違和感だった。由梨江は最初、確かに男の事をゴゾルさんと呼んだ。しかし今、由梨江が呟いたのあの男という言葉には、憎しみや怒り、あるいは恐怖が込められているように感じられたのである。
それから、手術。不吉な思いを抱きながらも、稔は、
「あの男と言うと、さっきのゴゾルっていう人の事か」
と尋ねた。
由梨江は頷く。
「そう、です。私はあの男に改造させられたのです。そして、こんな魔法を使えるようになったんです」
「もしかして、その魔法を使えるようになった事は、嫌なのか?」
「……はい」
「そっか。まあ、ここは元いた所とは全然違うってことは、理解したよ」
稔は、とりあえずもう魔法について聞かない事にした。由梨江が嫌そうだったからだ。しかし一番の問題は、次の質問であった。
「じゃあさ。元の世界には、帰れるのかな?」
由梨江は申し訳なさそうに目を伏せて、首を横に振った。
「私には……分かりません」
「……そっか。けど、分からないってことは、方法はあるかもしれないってことだな」
「そう……ですね。ですが、それを探す手段は、私たちにはないんです」
「どういうこと?」
「私たちがここから出ることを、あの男が許さないからです」
そう言う由梨江の瞳は、何処までも暗く、何処までも遠くを見つめていた。それは何もかもを諦めている者の目だった。
「いや……」
と、稔は何かを言いかけたが、由梨江の諦観しきった表情を見た瞬間、言葉が喉から外に出なくなった。由梨江のその表情は、長い時間をかけて作られたのだと悟ったからだ。
「もう寝ましょう。明日は早いです」
由梨江は淡々と提案した。
「あ、ああ。でも、どこで?」
「ここです。私たち二人は、ここで寝るんです」
「けどさ。一応、俺、男なんだけど」
「……ああ、そうでした。向こうでは、そういうものでした。忘れていました」
由梨江は寂しそうに、悲しそうに笑んで、でも、と続ける。
「でも、ここでは私たちは、実験動物なんです。ただのモルモットなんです。人権なんてないんです」
「……モルモット」
稔は衝撃を受けながら彼女の言葉を繰り返した。
「トイレは、あの角の所に裂け目ががあるのでそこにしてください。久しぶりに日本語で話す事が出来て楽しかったです。それでは、おやすみなさい」
とんでもない事を至極あっさりと由梨江は言うと、ろうそくに息を吹き掛けて火を消した。完全な闇が、周囲を覆い尽くして何も見えなくなった。
「……マジかよ」
稔の呟きは、闇の中に紛れて消失した。
「津村さん。起きてください」
身体を優しく揺さぶられて、稔の目が覚めた。視界に飛び込んで来たのは由梨江の顔だ。
「水と、この世界でのパンです。食べてください」
目を擦りながら身体を起こした稔は、呆然と周囲を見回している。
「ここは……?」
稔は小さく言った。自分の部屋でない事に驚いている。
「ここは、メルセルウストですよ。地球ではないんです」
由梨江は労るように諭す。
「……ああ、そうか。そうだったな」
首を振って、稔は応えた。ようやく意識がはっきりして、今いる場所を思い出す。
「これは朝食です」
由梨江は、握りこぶしと同じぐらいの大きさをした焦げ茶色い塊を一個、稔に手渡した。
それは思いのほか堅く、表面が凸凹している。稔は見た事のない物をまじまじと見つめて、
「これは?」
と尋ねた。
「パン……のような物です」
何処か気になる答えだったけれど、稔はお腹が空いていた事もあって、恐る恐るかぶりつく。
がり。
およそパンをかじったとは思えない音と歯ごたえがした。皮だけが堅いわけではなく、中も堅かったのだ。それも想像以上に。その癖、中はぱさぱさで、口の中の水分が一斉に奪われるばかりか、味もない。
稔は思わず顔をしかめた。正直に言って不味かった。お世辞を言う事すら出来ない。
「水です」
と、由梨江はガラスのコップを差し出した。稔は黙って受け取ると、なみなみと注がれている透明な液体を口に含んで、口の中の不味く堅いパンを胃の中へと流し込む。
「すみません、美味しくなかったでしょう」
でも、他には何もないんです、と由梨江は申し訳なさそうに言った。
「なんなんだ、これ? 本当にパンなのか?」
「この世界の言葉で、パルツ、という食べ物だそうです。一番似ているのがパンだと思ったから、私はそう呼んでいます。だから、私たちが知っているパンとは少し違うんです」
「少し……ね」
稔は呟いた。
「食べておいた方が、良いです。少なくとも栄養がない訳じゃないみたいですし、他に食べられる物を私は持っていませんから」
由梨江の言に、稔は大げさにため息を吐いた。
「仕方ないか」
「はい。仕方ないです。私はいつも、水で無理矢理飲み込んでいます」
稔は手に持っている食べかけのパルツを見た。それから意を決して、再び口の中へ運び込み、咀嚼し、水で飲み込んだ。決して美味しいわけではないけれども、食べれない訳でもなかった。何よりも何も食べないよりはマシだと、稔は自分に言い聞かせる。
そうして、稔が食べ終えるのを見届けた由梨江は、
「……では、行きましょうか」
と、陰鬱な眼差しを隠そうともせずに言った。
二人は岩窟の中を歩き始めた。
手術が始まるのだろうと、さすがに稔は察している。
恐くないと言えば嘘になる。だが魔法が使えるようになると聞いて否が応でも期待してしまうのは、ゲームで散々慣れ親しんで来たファンタジーの世界が、今、目の前で広がっているせいに違いない。それが例え、このような劣悪な環境の中でもだ。
「ここです」
案内された場所の中央には、ベッドのように大きく四角く切り出された岩が横たわっていて、その周りをよく分からない器物が、ごちゃごちゃと置かれている。
ゴゾルは、多量の物の中から物色している所だった。
「――」
由梨江はメルセルウストの言葉で何かを言うと、ゴゾルがゆっくりとした動作で振り返る。
「――」
ゴゾルは喋り、由梨江が応える。
二人の会話が理解できない稔は、蚊帳の外に置かれたみたいな疎外感を感じた。
やがて由梨江は稔の方を見る。申し訳なさそうな表情が痛々しい。
「あそこに、横になってください」
彼女が指で指示した場所は、岩で出来たベッドである。
「――!」
ゴゾルが強く言うと、由梨江の肩がぴくりと震えた。
「……早めで、お願いします」
弱々しい声で哀願する由梨江の顔を、もはや見ていられなかった。
稔は岩製のベッドに、身体を横たわらせる。
「これから、あなたに、手術を行います」
ゴゾルが話し始めると、由梨江はゆっくりと通訳を始めた。
「今回の手術では、大した成果は出せないでしょう。だけど、全ての手術を終えた時、あなたは大きな力を手に入れる事ができます。その時、あなたは、ゴゾルさんのことを尊敬し……敬うでしょう」
由梨江は稔の目を見ようとしない。ゴゾルとも目を合わせない。ただ、視線を地面に向けたまま訳している。
「……痛いですが、我慢してください」
由梨江は、最後にそう付け足して、背を稔に向けた。
ゴゾルが近づいてくる。尊大な態度で、へらへらとした笑みを顔に浮かべている。
稔は気づいた。金縛りにあったみたいに、自身の身体が動かない事に。
そして。
絶叫。
それは、地獄の刑を受けた咎人が叫ぶような声である。
普通に生きていれば、決して発しないであろう声である。
意味はなく。言葉ですらなく。ただただ苦しみ喚く声である。
由梨江は背中越しに聞きながら、しかし耐える事はできず、そのまましゃがみ込んで耳を塞いだ。
それでも声は耳の中から入って来て、脳の中で暴れ回る。頭がおかしくなりそうだった。
「……ごめんさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
由梨江は同一の言葉を呟き続けた。無論、由梨江が悪い訳ではない。だが、声が由梨江に訴え続けているように思えたのだ。
助けてくれ、と。
気を失ってから長い時間が経った。
稔の意識は徐々に覚醒していく。後頭部が柔らかくて暖かな物の上に乗っているようである。
ゆっくりと目を開けてみると、すぐ眼前に大きな二つの膨らみと、由梨江の顔が現れた。稔は膝枕をされていたのだ。
「おはようございます」
由梨江は微笑みを浮かべて言った。
「おは……よう?」
そう返しながらも、稔の頭の中では疑問符が踊っている。どうして膝枕をされているのか分からないのだ。
「今は何も考えないで、ゆっくりと休んでください」
由梨江は優しい眼差しで稔を見つめている。
とても心地が良かった。このまま身を委ねていたかった。
だけれども、自らの額に違和感があることを、稔は気づいてしまったのである。
何気ない動作で、稔は手を伸ばす。
「あ、待って」
制止の声を由梨江が上げた。しかし、稔の手は止まらなかった。
「あ」
と、呟いた。
稔の手は、額に到達していた。
「なんだ、これ?」
二つの突起物がある。それは稔の額から生えている。
途端に、稔の顔が青ざめた。
思い出したのだ。
あの地獄を。
あの痛みを。
あの苦しみを。
そして、自身に何が行われたのかを。
この二本の角は、その結果だと言う事を。
「俺は、俺は……」
稔の身体が震えている。目から涙がこぼれる。
「……化け物に……なっちまった……」
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