不思議な図書館の田中さん

霧島まるは

第1話

「それじゃあ、田中さん。よろしくお願いしますね」

 にこやかな白髪の老館長にポンと肩を叩かれ、田中早苗はやや緊張気味に「はい」と返事をした。

 小柄な館長が、ソフト帽を手に持って去っていくのを見送った後、彼女は自分が握っているものへと視線を下ろした。その手にあるのは、二つの大きな鍵。バラバラではなく、金属の輪でキーホルダーのようにひとまとめにしてある。

 今日、早苗は初めて残業と勤務先の戸締りを頼まれた。

 長い髪を後ろで三つ編みにして、それを更に頭に巻きつけたすっきりした髪型は、大学時代からの彼女のお気に入り。化粧は極力ナチュラルメイク。目が大きいので、ちょっと目元の化粧に気合を入れると、すぐにケバくなってしまうのが悩みだ。薄いグリーンのスーツは、大学を卒業前に就職のために購入したもの。仕事柄、清潔感のある印象を心がけている。

 そんな彼女が働いている場所は──図書館だった。

 日本海に面した田舎の、そのまた更に田舎の行き止まりの山の中。市町村合併が済んだいまでも、郡であり村のままのそこに建っている古めかしいレンガ造りの洋館。それが「村立明治図書館」だった。

 その名の通り、建物は明治時代に建てられたという。だが、元々は図書館として建てられたものではない。地方の豪商が当時、別荘として建てたものを、そのまま図書館として利用している。そのため、中もとても古めかしい。

 通常の図書館であれば、一フロア全体が見渡せるようになっているところを、当時の壁をそのままに残しているため、部屋ごとに本が分類されて収蔵されている。各部屋にはテーブルとソファが置いてあり、読書が出来るようになっている。空間を贅沢に使った形だが、村という非常に利用者の少ない場所であるため、不満が出たことはない。収蔵される本の数にも限りがあり、決して多くはないため、コンピュータもいまだ導入されていない。

 こんな田舎の図書館に、彼女が勤務するようになったきっかけは、当然司書の求人を見たからである。都市の大学に通っていた彼女は、近場の図書館の司書になるべく求人を探したが、その年は募集が非常に少なく倍率が高かった。いくつかの面接に落とされた早苗が、ふと見つけたのがこの明治図書館の求人だった。

 勤務地がとても遠く、待遇も決して良いわけでもない。だが、その求人票の特記欄に、一言こう書いてあったことが早苗の目をひきつけた。

「おおらかな人に限る」

 これまでの、どの求人広告でも見たことのない一言だった。

 早苗は、決して自分のことをおおらかと思っているわけではない。しかし、おおらかな人間にはなりたいと思っている。そのなりたい自分が、この図書館の中にあるのではないかと思った。気がついたら、その求人に応募していた。

 そして、いまに到る。

 この春から、早苗はこの明治図書館に勤務するようになった。つい一ヶ月前の出来事である。

 出勤初日は、夢に見るほど美しい桜が満開で。その日は、村の花見の日でもあった。仕事が終わって帰ろうとすると、村人がぞろぞろむしろやレジャーシートを持って来るので何事かと思ったら、図書館の庭で花見を始めるではないか。ここが一番桜が綺麗だ、と。あっさりと早苗は彼らに捕まり、そのまま「新しい司書さんの歓迎会」も始まってしまった。

「うちの息子の嫁にどう?」と三回くらい聞いた気がするが、早苗はお酒とともに曖昧にそれを断った。すぐ裏手に住まいがあるので、飲んでも歩いて帰ることは出来るのだが、お酒にとても弱かった。

 そんな風に始まった田舎の司書生活は、とてものどかで穏やかだった。ただ、よその図書館よりは、念入りに床掃除が必要でもあった。農家が多い土地柄、畑から長靴で本を借りに来る人や、雨の日は暇だからと畦道を近道に使って図書館に来る人が多いからだ。清掃係を別に雇っていないため、毎朝八時から一時間、司書二人で館内の掃除をすることになっていた。

 開館時間は九時から五時まで。

 その開館時間が、週に一度だけ延長になる曜日がある。

 それが──日曜日。

 休館日の前日のその曜日だけ、図書館は午後七時まで開館している。村民全員に解放されるのではなく、特定の利用者にだけ解放される特別図書館になるという。

 この図書館は、名目上村立となってはいるが、運営資金の一部は個人資産の寄付からまかなわれている。その寄付をしてくれた方々のために、時間外にひっそりと解放するというのだ。

 これまで、早苗は新人ということで特別解放の担当になったことはなかった。一ヶ月間の彼女の働きを見て大丈夫と思われたのか、ついに早苗は二つの鍵を館長に託されたのである。

 担当するに当たり、注意事項をいくつか館長に口頭で言われた。早苗は二つの鍵のひとつを握って、館長の言葉を思い出す。

「最初にまず、正面玄関の鍵を閉めること」

 握った鉄製の大きな鍵を持って、早苗は玄関へと近づこうとした。

「田中さん、待って待って!」

 そんな彼女の背後。階段を駆け下りてくる足音に、びっくりして早苗は振り返った。背広の上着を羽織りながら、手すりで踊り場をターンしたその男を、彼女はよく知っていた。

「海老名さん、まだいらしたんですね」

 先輩司書の海老名(えびな)流平(りゅうへい)だった。村人には「エビちゃん」とか「リュウちゃん」とか呼ばれている。早苗も村人からはもはや「サナエちゃん」呼びだったが、一部子供からは「田植えちゃん」と呼ばれていた。「うちの田植え機と同じ名前だねー」と言われた時から、嫌な予感はしていたのだが。

 流平は、図書館で働いているにしては珍しい真っ黒に焼けた肌と、何のスポーツをしていたのか聞きたいような聞きたくないような立派な胸板を、シャツと背広に窮屈そうに押し込んでいる。髪は短く整えられてはいるが、そこもまた焼けすぎたかのように少し茶色がかっていた。面長のしっかりした顎の輪郭は、噛み砕く力が強そうだなと、漠然と早苗に感じさせた。

「ちょっと本を探してたら遅くなった」

 危ない危ないと、階段を降りた流平が大きな歩調で玄関に向かって足を踏み出す。玄関前に立ちふさがっていた早苗は、自分が邪魔なことに気づき慌ててカウンター側へとよける。

 そんな彼女の横を通り過ぎるかと思いきや、流平の足がぴたりと止まる。

「そういえば田中さんは、日曜日の特別担当初めてだよね」

 肩越しに、斜め後ろを振り返るその首関節の柔らかさには、毎度驚かされる。人の身体ってそこまで曲がるんだと、大きな身体の割りに非常に柔軟な流平に対し「ひっ」という驚きの言葉を呑み込んだ。

「は、はい!」

 失礼な自分の心の動きを隠すために、早苗は肩に力を入れて頷きながら返事をした。それは、さぞや緊張感みなぎる姿だっただろう。

「それじゃあ」と、流平はきちんと身体ごと彼女を振り返った。がっしりとした彼が目の前にいると、切り立った大きな山を前にした気分を味わう。早苗は、子供の頃の旅行で見た阿蘇山を思い出していた。

「それじゃあ、館長から言われた手順を復唱しようか」

 流平は彼女の顔の前に大きな拳を出した。快活な声と表情なので威圧感はないが、こんなに立派な拳を見慣れていない早苗にとっては、それは山から転げ落ちてきた岩も同然だった。

 その岩から、にょきりと一本竹が生える。ではなく、流平の人差し指が伸びる。

「ひとつ」と、指と共に言葉でカウントされ、はっと早苗は我に返った。

「ええと、最初に表玄関の扉の鍵を閉めます」

 早苗は手にしっかりと握っている鉄製の大きな鍵を持ち上げて流平に見せた。それに、うんうんと彼が頷く。

「ふたつ」

「裏玄関の扉の鍵を開けます」

 次に早苗は、握っているもうひとつの銀で出来た、やはり大きな鍵を持ち上げた。

「みっつ」

「裏玄関の側にあるカウンターに座り、図書業務を行います」

「よっつ」

「七時になったら閉館を告げ、利用者にお帰りいただきます」

「いつつ」

 流平の手が、大きく早苗の前で開いた。多くはない手のひらのシワが、その大きな手を生き物のように這っている。生命線が長いことは、はっきりと彼女の目に映った。

「裏玄関の扉を閉めます」

 もう一度銀の鍵。

「むっつ」

 もう片方の手が飛んできて、その手のひらに人差し指をびしっと押し付ける。本当にびしっと音がした気がした。早苗がどれだけ自分の手で実践しようとしても、決してその音は出せないだろう。

「帰り支度をして電気をすべて消灯し、表玄関を開け、きちんと施錠を確認してから私が帰ります」

 早苗は、最後はまとめて一度に語った。ななつの時に、今度は中指とセットになった二本の指が、手のひらに押し付けられる音はもっとすごいのではないかと無意識に心配したからだ。

 彼の手はもう音を立てることなく、すっと早苗の前から下げられる。

「大丈夫そうだな。もし困ったことが起きたら、備え付けの電話で館長か俺に連絡すること……困ったことが起きたら、だよ?」

 何故か、流平はその部分を二度繰り返した。何だか、それ以外では連絡しては駄目だと言われた気がして、早苗は違和感を覚えた。流平は、非常に面倒見のいい先輩だ。彼女より図書館のことに当然詳しいし、分かりやすく教えてくれる。言葉にもまったく棘がなく、理想的な頼もしい先輩だった。

 その彼が、早苗を少し突き放すようなことを言う。そろそろ一人で何でも出来るようにならなければならないという、流平なりの後輩指導なのかもしれないと、その時の彼女は思った。

「大丈夫です」

 だから精一杯の一生懸命の顔で、早苗は彼に向かって頷いた。

 そうしたら。

 ぽんと、大きな手のひらが早苗の肩に乗る。

「うちの図書館のモットーは?」

 その手を見てしまった彼女に、不意打ちの質問が飛ぶ。はっと顔をもう一度流平に向けて、早苗はこう答えていた。

「大らかな図書館です」

 求人票に書いてあった、ただひとつの特記事項を思い出す。それは、彼女の理想の形のひとつだった。

「よし……じゃあ後は頼んだ」

 お先、と肩から持ち上げた手をひらりと閃かせて、流平の大きな背中は玄関への向こうへと消えた。重々しく閉ざされる玄関の扉に、ふぅとひとつ大きく深呼吸する。それから、早苗は鉄の鍵で玄関の扉の鍵を閉める。この扉は、内側からも外側からも鍵でしか閉められない。

 それは、裏玄関も同じだった。玄関に背を向け、階段の脇を通りその裏を通っている廊下を歩いて裏玄関へとたどりつく。表より一回り小さなカウンターが設置されている。表カウンターは、二人座ることが出来るが、ここにある椅子はひとつだけだ。


 そして、早苗は──銀の鍵を回した。 


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