第50話 流離譚、その始まり
赤熱の暴風は留まることはなく私の身を焦がす。終わりなき焼灼の嵐の世界に何故私はいるのか? 私は焼き尽くされ、微塵へと消え去るしかない。なのに次の瞬間、私は其処に在り、嵐に晒される、それを繰り返す。無限に繰り返される死と再生、それは次第に私の心を蝕んでいく。
何故、何故、何故――――?
問いに見合う答など返らない。ただ、絶望のみが
「あなた、本気なの? 本当にやるつもりなの?」
若い女が問いかける。声は裏返っていて、彼女が酷く動揺していることを知らせる。
「そうだよ、もうこうするしかないと判断したのだ」
灰色の髪をした痩せぎすの男が応えた。彼の目は壁一面を覆うガラス窓に向けられている。その向こうは真っ白な何もない部屋だ、広さは10平方メートルほどか。その中央に少女が1人だけ座っていた。小柄な少女、歳の頃は5、6歳ほどか。じっと座っているだけで
「しかしあなた、〈ディープコネクト〉を5歳の幼児に施すなど考えられないわ! そもそもネットワークと脳神経のハードウェア上の直接
ないの! まして5歳の幼児に新技術となる〈ディープコネクト〉なんて……!」
灰色の髪の男は窓の向こうに目を向けたまま若い女に応えた。
「しかしもうこれしか手段がない。ありとあらゆるサイコセラピー、薬物投与、外部装着方式の間接的
言い終えると男は振り向いた。若い女はその顔を見て言葉を失った。その目は赤く腫れあがり、彼が涙を流していたことを教えてくれる。彼女は何も言えなくなってしまった。男は目を閉じ、歯を食い縛る。そして絞り出すような声を上げた。
「多世界から無限に押し寄せる情報奔流にあの子の精神は晒され続け、逃れることができない」
目をカッと見開き、言葉を続ける。
「このままではあの子の心は壊れてしまう! 魂のない肉人形になり果ててしまうじゃないか!」
両手を上げ指をワナワナと震わせている。そのあまりのさまに、若い女はたじろいだ。
「あなた……」
女は何も言えなくなってしまった。
――私には能力があった。
量子感応は集合的無意識領域を通し、次元を越えて無限とも言われる多世界にチャンネルを繋げるものだ。それは1人の人間の意識に全宇宙の情報を流し込むようなもの、いや1つに留まらず2つ、3つと多数の世界の情報が流れ込んで来る。能力が大きい場合、より大量の情報を受け取ることとなる。その負荷は能力者自身にしか分からないが、場合によっては人の意識には耐えられなくなることがあると思われる。心を病み、精神が崩壊するケースが多々観察されている。私もその1人だった……
5歳にして私の心は崩壊の瀬戸際に追い詰められ、死は免れないかに思われた。
「精神の訓練を重ねれば、何とかなるかもしれない。しかしこの子の能力の拡大は早すぎた。とても間に合わない、もう数日ともたないのかもしれないんだ……。ヴラン! 何故お前が……!」
灰色の髪の男――彼こそが私の父、ドミトリー・ベルジェンニコフ。
脳科学者にしてサイバネティシスト、そして量子力学にも通じていた彼には解決法が見えていた。だが、それは危険の大きなものだった。
「血中に接続制御端末となる
能力は多世界からの情報を受け取る。それは集合的無意識領域から個人的無意識へ、そして意識へと流れて来る。その情報量の多さと圧力こそが人の精神を圧迫する。それを防ぐには、防波堤を築くか流れを変えるしかない。父の目指したものは流れを変えること――量子情報の電子情報への変換であり、ネットワークへ流すことだった。
「超自我領域は集合的無意識領域と個人的無意識領域の境界に位置し(ここで言う超自我はフロイドの言ったそれとは多分に意味が異なる)、意識――そして自我を形成する根幹を成す。この領域への探査針の貫入により、無意識世界から溢れる量子情報の探知・解析が可能となる。そしてその流れを制御し、
後にフェイズ2レベルのFMM(
だがこれは新しい技術だった。どんな影響があるか分からず、基礎的な実験すら行われていないものだったのだ。それをいきなり使用しようというのだ。反対の声が上がるのも当然だ。ある意味人体実験であり、甚だしい人権侵害となるものと言えた。
「ならどうしろと言うのだ? この子は……ヴランは……私の娘は、明日をも知れぬ命なのかもしれないのだぞ!」
悲嘆に満ちた眼差しは若い女の心を打つ。もう彼女に返す言葉は見つからなかった。彼女にも父の気持ちはよく理解できる。何故ならば彼女は父の妻、アンジェリー・ベルジェンニコフ――私の母だからだ。彼女は父の共同研究者であり、専門技術の知識もあった。
こうして処置は決定された。父は私に〈ディープコネクト〉を施したのだ。
焼かれ、焦がされ、崩れ、散り……そして再び蘇る私の身。いつまで続く? 終わりはないのか? 嫌だ、嫌だ、もう嫌だ! 死すら切望し、せめて何も感じなくなれ――と、心の底から消滅を望んだ時、
それは糸だった。光の糸とでも言うべきか? 遥かな高みから垂れ下がり、私の方へと降りて来ていた。激しい暴風に曝されながらも全く揺らぐことなく、そこだけが無風地帯であるかのように伸びていた。私は注目した。何しろ身を焦がす赤熱以外に何も見えない世界だったからだ。見逃せるはずもない。そして縋るかのように手を伸ばした。何かが変わるかもしれないと、切に願ったからでもある。この無限の焼灼地獄から逃れられるのならば、何だっていい――追いすがる想い故の行動だった。
そして――――
「ヴラン、ヴラン……!」
抱きしめる父の力は強く、痛くて潰されそうなほどだった。でもその痛さが愛おしいと感じられた。ああ、私は帰って来た……帰って来られた……
処置は成功した。私の体内に注入されたナノコネクターは淀みなく機能し、探査針から量子情報を送り続けるようになった。コネクターは情報を接続された
ようやく私は
私もまた父を抱き返した。もちろん、小さな手は大人の背中にまわせるはずもなかったけど。でも、それでも……現実の世界に、父と母のいるところに帰って来られたという喜びは至上のものだった。
これで終わった……いや、これは始まりに過ぎなかったことを後に知る――――
「ボリス、どうだ? 気分は?」
車椅子に座る少年に覆い被さるように身を寄せて父は話しかけた。話しかけられた少年は暫し何も応えず俯いたままだった。父の顔には不安が
「う……あ……」
少年の唇が動いた。声が出されるが、しかしまともな言葉にならなかった。彼は顔を上げ、間近の父を見上げるが、その眼差しは宙を彷徨う。明らかに目前の父を視覚に捉えていない。
「うう……そんな……!」
崩れ落ちる父を私は背後から黙って見るしかなかった。彼の悲嘆が伝わり、私の胸も痛くなってしまった。
少年は私の弟、ボリス・ベルジェンニコフ。やはり私と同様の能力を発現させ、心を蝕んでいた。これは血統なのだろうか? 私たち姉弟は共に顕在的能力者として覚醒したのだ。ただ、父母は共に覚醒していないのだが……
父は私の成功例に学び、より高性能に改良された〈ディープコネクト〉を弟に施すことにした。私の治療よりちょうど1年後のことだった。
弟は目の前で崩れる父を見つめこともなくただ宙に視線を彷徨わせるだけだった。
失敗だ――誰もがそう思った。量子情報の変換は成功し、ボリスの超自我領域から流れて来る量子情報は彼と接続されたネットワークに送られてはいた。その数値データは計測されており、接続変換は成功したはずだった。だがボリスの意識は戻らなかった。理由は分からない。
彼は不明の認知症患者のような状態のままであり、どうしても意識が戻ることはなかったのだ。
「何故だ、何故なのだ? ヴランは上手くいった、なのにこの結果……。この違いは何を意味するのだ?」
父は諦めず記録の分析評価とシミュレーションを繰り返し、何とかボリスを治療しようと試みた。だが何度繰り返しても成果は上がらなかった。
「あなた、もうやめて! これ以上続けると、返ってボリスを苦しめることになるのかもしれないわ!」
ある日、切羽詰まった母は訴えた。父は彼女の言葉を意外にもあっさりと受け入れた、治療をやめたのだ。或いは、そんな母の言葉を待っていたのかもしれない――私はそう思った。
人間精神は底が知れない。超自我という意識の深層に触れ、数値化すら実現したこの時代の脳科学、精神科学と言えどもその全てを解明することは叶わない。父は自らの研究分野の頂が遥か彼方にあることを思い知った。そして己の傲慢さを自覚した。
「神でも気取っていたのか? 所詮意識の入口を触っただけに過ぎなかったものを、精神現象の全てを解明した気になっていたのかもしれない」
それでも父は諦めなかった。原点に立ち戻り、脳科学、サイバネティクスの研究に専念する。地道に成果を積み上げ、いつか再開するボリスの治療に役立てるために――――
4年の時が流れた。西暦2130年、私が10歳、ボリス8歳の夏――8月。
吐く息は白く、視界を曇らせすらする。気温は0度。8月だが、氷河期の時代のロシアはこんなもの。これがこの時代の真夏だ。
私は街の光景に目をやる。真っ白な建物の数々、色彩らしい色彩はない。どれもこれもが凍り付いたようで、生気すら奪われているかのよう。寒気が街の命を奪っているようにも感じられた。
夏とは言っても氷河期のこの時代、ロシアは全土が寒気に包まれている。元々は北の大地だが、極地に面した国土とは言ってもかつては8月ともなれば摂氏で20度、30度も超えることがあったらしい。だが“現代”ではそれはあり得ない。10度を超えるのも稀で、氷点下など日常茶飯事。0度などむしろ暖かいくらいだ。
〈御覧下さい、赤軍がクレムリンに突入しました。政府軍は全く抵抗する素振りも見せず、彼らに道を開けています。革命はこれで完遂したということなのでしょうか? ロシア政府からは何の反応もありませんが、もう声明を発する機能も残ってはいないのかもしれません〉
街頭ホロには何機もの歩行戦車と大勢の装甲兵が赤の広場に集まり、一部がクレムリン宮殿へ突入している光景が映し出されている。これは1つの国家権力の落日を意味していた。
「もう帰りましょう」
母が私の手を引いた。反対の手には重い荷物が抱えられている。ようやく手に入れた配給食糧だ。この時代、小麦粉1つ手に入れるのにも苦労する。配給も滞り、まともに配られないのが日常となっていた。
「ロシアはもうお終いね。あの人の言うように国を出るしかないのかもしれないわね」
〈
そんな最中に起きたのが〈第2次赤色革命〉――古典的なマルクスレーニン主義を掲げる共産主義勢力が武装蜂起してロシア政府に反旗を翻す革命闘争だ、2129年の12月のことだった。軍高官の国外脱出も相次いでいた政府軍の士気は低く、一部は赤軍に寝返る部隊もあった。よって赤軍は連戦連勝。8か月ほどで首都モスクワを包囲、そして遂にクレムリンの陥落と相成ったのだ。
「博士、もうこの国はダメです。こうなるとあなたの身の安全も保障できません!」
「
玖劾というのが彼の名、極東の国――日本皇国の在ロシア大使館に勤務する参事官だという。彼は1週間ほど前、赤軍がモスクワに迫って来た頃にそこを脱出し、ここサンクトペテルブルクにやって来たのだ。だが彼の目的は自身の身の安全だけではなく、それ以上のものがあった。
「赤軍はあなたを欲しがるでしょうから、害するとは言い切れません。しかし現在治安悪化が著しいこの国では何が起こるか分かりません。強盗や暴徒に襲われる危険性も高く、警察による取り締まりも期待できません。それに各国の動きも気になります」
玖劾さんは父の顔を正面から見つめた。父は彼の言いたいことを理解していた。
「ウム、私――というか、私の知識、そして研究成果が欲しいのだろうな。それは君たちも同じなんだろうがね」
玖劾さんはバツの悪そうな顔になった。
「それはそうですが、我が国は力づくで事を進める気はありません。あなた自身の納得いくように条件を揃えてお迎えしたいと思っているのですよ」
父の科学界に於ける業績は大きなものだった。先に述べた通り私を治療した〈ディープコネクトエンジン〉は軍事的にも大きな意味を持ち、その成果を手にしたいと思う国家は後を絶たないのだ。日本皇国以外にも、アメリカ帝国、汎アメリカ連邦、中華連邦……他にインド、豪州、南アフリカなどこの時代でも力を保っている国家は例外なく父の能力を欲していた。
「ディープコネクトエンジンの技術情報は公開されているんだがね。だから私などいなくても利用できるよ」
玖劾さんは首を振り、そして私に目を向けた。その仕草の意味を父は悟った。
「そうだな。私自身――つまり能力が欲しいというわけだ」
バージョンアップの継続が必要、そして新たな研究成果を手にするには研究者たる父その人が必要だ。そして研究成果になる私というサンプル――ヴラン・ベルジェンニコフも。
「皇国も同じなのだろう?」
「否定はしません。ですが私たちは――私はあなた方の人権には十分配慮――」
尚も話し続けようとする玖劾さんを制し、父は自らの言葉を発した。
「別に拒否するつもりはないよ。いずれ何らかの決断を下さなければならないと思っていた」
玖劾さんは何も言わず父の目を見つめる。暫く沈黙が流れたが、やがて父が口を開いた。
「いいだろう、皇国に身を委ねよう」
父は微かな笑みを浮かべた。
「少なくとも……玖劾くん、君個人は信頼できるしな……」
どこか寂し気にも見える笑みは、この決断がもたらす重みを理解している証だ。国を捨てるということ、自らを育んだ多くのものと決別するということは計り知れない重みがある。その決断をせねばならないという現実、時代が生み出した運命を父は理解していた。
この3日後、私たち一家は脱出を開始する。そしてそれが果てしない流離譚の始まりとなるとは……この時の私は想像すらできなかった。能力など何の役にも立たなかったのだ。
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