南の島でお魚になるはずなんだけど(前編)

 エバーグレーズを横断するように作られたハイウェイを、フロリダ・キーズに向けて車を走らせる。


 途中、前が見えないほどの土砂降りに遭いながらも、相方は「これで今日の分の雨は終了」と全く意に介さない。曰く「雨季のフロリダの降水確率は、毎日60%以上。でも、5分待てば雨は止む」そうな。

 相方の言った通り、ハイウェイを時速5マイル(=約9キロメートル)以下で徐行せざるを得ないほどの大雨を降らせていた雨雲は、あっという間に通り過ぎ、からりと晴れ上がった青空が頭上に広がった。ただし、「5分待てば」と言うのはちょっと言い過ぎ。少なくとも30分以上は「なんやの、この雨! 前見えへんやん! うわっ、光った! 雷、近い!」と助手席で叫んでいたと思う。

 「サンシャイン・ステート太陽の輝く州」の愛称を持つフロリダ。雨季(=5月から11月)の間、州内のほとんどの地域が毎日のように突然の雷雨スコールに見舞われる。年間降水量は全米一。中部は「雷首都」と呼ばれ、国内で最も雷発生回数が多い。どおりで、エバーグレーズのような大湿地帯が生まれるワケだ。


 真っ白な雲が、ぷかり、ぷかりと浮かぶ空。

 緑の水草がさわさわと風にそよぐ大湿原。

 その間を真っ直ぐ貫いて、地平線の果てまで続くハイウェイ。その遥か向こうで、いまだ降り続く雨がカーテンのように煙っている。時折り、何本もの稲光が音もなく走っては消える。広大なアメリカの大地が見せてくれる自然の驚異は、息を呑むほどに美しい。



 エバーグレーズを抜けると、辺りの景色は一変する。ハイウェイの両脇に広がるのは農業地帯だ。

 果樹園らしき土地には、艶々と光る濃い緑色の葉が茂った背の低い樹が植えられている。フロリダだけに、オレンジなどの柑橘類だろう。色鮮やかな花が咲いた鉢植えがずらりと並べられ、様々な種類のパームツリーが植えられているのは園芸農園だろうか。とにかく緑が濃い。車で走れば牧草地や綿花栽培の畑が延々と広がるバージニア州とは、全く違った光景だ。

 窓の外をぼんやりと眺めているうちに、緑の間にぽつり、ぽつりと白い建物が目立ち始め、やがて、すらりとしたパームツリーが側道に立ち並ぶ小さな街が姿を現した。紺碧の空の下、白壁に平屋の四角い建物がよく映えて、何とも可愛らしい街並みだ。

 オーランドを出て以来、初めての「街らしい街」で目敏めざとくスターバックスを見つけた相方のリクエストで、しばしの間、休憩することに。



 コーヒー好きな相方のタンブラーと車のガソリンを満タンにして、再びハイウェイに戻る。

 緑の畑を抜けると、ハイウェイの両脇に連なる熱帯林の向こうに、またもや沼地スワンプが広がっている。青空の下、黒々と輝く水面に群生した緑のマングローブがこんもりと小さな島のように浮かぶ姿は、なんとも不思議な光景だ。

 しばらく車を走らせていると、背の高い木々が少しずつ姿を消し、代わりに背の低いマングローブの林が延々と続くようになった。ふと目を遠くに向けると、先程までスワンプが広がっていたはずの場所が青い輝きに変化している。何だろうと思って見つめているうちにマングローブの緑も消えて、視界が一気に開けた――



 海だ。


 鮮やかな宝石のように輝く緑青ろくしょう色が、水平線の彼方で空の青と混ざり合っている。


 

 アメリカに移住して以来、バージニアの泥水色の海を見る度に、沖縄の花緑青色エメラルドグリーンの海を思い出して哀しくなった。生まれ故郷を懐かしむより、慶良間ケラマの海が恋しかった。

 私がスクーバダイビングを始めたのは、職場の上司からの理不尽なハラスメントで精神的に追い詰められていた頃だ。嫌なことを忘れるために、休日になると沖縄に飛び、海に潜って心のもやもやを洗い流して大阪に帰る。海風を感じている間は心が穏やかでいられたから、いつの間にか、海風を感じる場所に居るのが当たり前になっていた。

 相方に出逢ったのもスクーバダイビングがきっかけだったりするから、人生の転機はどこに転がっているか分からない。空回りする日々に転換期が必要だと感じたら、今いる場所からほんの少し動いてみるといい。そこに、思いがけない世界が広がっているかもしれないから。


 

 早朝、オーランドを出発し、内陸部のハイウェイを走り続け、エバーグレーズを堪能し、夕方近くにようやく辿たどり着いたフロリダ半島最南端。ここから先は『フロリダ・キーズ』。メキシコ湾と大西洋の間に浮かぶ熱帯の島々だ。

「海だーっ! 海っ、海! 陸で干上がりかけたお魚のような可哀想な私を、早く海に連れてってー!」 

 車の窓越しに大騒ぎする私に、相方が素っ気なく言い放つ。

「今日はもう遅いからムリ。どこかで夕飯食べて、ホテルに直行。海は明日のシュノーケリング・ツアーまで我慢」

 涼しい顔で前方を見つめる相方に「えーっ! 目の前に見えてるのに……」とボヤキながらも、窓の外に広がる海を見つめ続けた。


 目指すはフロリダ・キーズ最大の島キーラーゴ。「世界のスクーバダイバーの首都」と呼ばれる美しい海が、私達を待っている……はず。



***



 フロリダ半島南端部から細長く延びるフロリダ・キーズ(Florida Keys)列島。


 Keyとは「サンゴ礁の上にできた、小さく標高の低い島」のこと。

 その名の通り、隆起サンゴ礁によって形成された大小数百もの島々が、点々と連なっている。ほとんどがマングローブ林で覆われた無人島で、人が居住している島は、主要な観光地であるキーラーゴ、キーウェストを含む数十のみ。

 北端から南西端までの長さは約290キロメートル。そう言われてもピンとこないので調べてみた。新東名高速で、大阪府高槻市から静岡県焼津市まで行けちゃう程の距離だ。


 フロリダ半島からフロリダ・キーズ北端のキーラーゴを経て、アメリカ本土最南端の最果ての島キーウェストまでは、たった一本の道が、島々を結ぶ42の橋でつながれている。青く輝く海を眺めながら走る国内屈指のドライブルート、『Overseas Highwayオーバーシーズ・ハイウェイ』の美称を持つ「国道1号線(U.S. Route 1)」だ。

 実は、この国道1号線、自動車道に改造される前は、鉄道線路だった。

 19世紀後半、フロリダの大西洋沿岸を開発し「鉄道王」と呼ばれたヘンリー・フラッグラーは、キーウェスト港を南の物流拠点にすべく島々に橋を架け、遂に1912年、キーウェストに鉄道を開通させた。が、1935年、キーズに上陸した超大型ハリケーン『レイバーデイ』によって壊滅的被害を受け、完成からたったの23年で、あえなく廃線。その後、州が買い取り、自動車道として再び利用されるようになった。

 鉄道線路時代の鉄橋「オーバーシーズ・レールウェイ」は、貴重な遺構として保存されている。現在では「オールド・セブン・マイル・ブリッジ」の名で呼ばれ、途中で切断された姿を晒したまま海に浮かぶ古い鉄橋は、一部が一般にも開放されている。

 橋の上から眺めるキーズの海は、「絶景」の一言に尽きる。キーウェストまでドライブする機会があれば、ぜひとも訪れて頂きたい。



 北アメリカで唯一最大のサンゴ礁「フロリダ・バリア・リーフ」が広がるフロリダ・キーズ。

 キーズを取り囲む海域は、国立海洋保護区だ。「海の熱帯林」と呼ばれるサンゴ礁は多様で豊かな生態系であり、海洋生物の揺りかごとなるため、ダイバーが好んで潜るスポットでもある。ちなみに、世界最大のサンゴ礁はオーストラリアのグレート・バリア・リーフ。次いで、カリブ海のベリーズ・バリア・リーフ、3番目に大きいのがフロリダ・バリア・リーフだ。

 スクーバダイビングを始めて以来、私が主として潜り続けて来たのは、世界トップクラスの透明度を誇る沖縄・慶良間ケラマ諸島の海だ。孔雀の羽根の輝きに似た美しい「ケラマブルー」の海は、晴天の日に水深25メートル程の海底から頭上を見上げれば、水面みなもにゆらゆらと揺らぐ太陽の光と白い雲が透けて見えるほど。

 フロリダ・キーズを取り囲むエメラルドグリーンの海も、透明度が高いことで知られている。二酸化炭素を吸収し、酸素を作り出すサンゴが海水を浄化してくれるからこそ、高い透明度を誇る宝石色の海が保たれるワケで。


 「私をサンゴ礁が輝く海に連れてってーっ!」と叫んで決まったフロリダ旅行。

 一番のお目当ては、もちろん、フロリダの海で魚達とたわむれながら泳ぐこと。

 水深が比較的浅いフロリダ・キーズの海は、わざわざ重い器材を背負って潜らなくともシュノーケリングで十分楽しめる。キーズのシュノーケリング・ポイントを絞って、相方と二人で『絶対に外せないポイント』を2つ選んだ。1つ目がキーラーゴのサンゴ礁。もう1つは、キーウェストから西へ約109キロメートルの沖合いに浮かぶ孤島「ドライ・トルトゥーガス」だ。



 無事、キーラーゴに到着し、夕飯に名物のコンク貝やワニ肉の料理を堪能した。

 宿泊先のホテルに向かう頃にぱらぱらと降り出した雨は、ホテルに着く頃には土砂降りとなっていた。

 明日のシュノーケリング・ボートツアーに備えて、ホテルの部屋に広げていた器材をダイビングバッグに詰め込んでいたら、テレビの天気予報をチェックしていた相方の表情が険しくなった。

「もしかして、海荒れてる?」

 私の言葉に、天気図に見入ったまま、うーん、と唸り声を上げると「マズイかも……ちょっと、ダイビング・ショップに電話して聞いてみる」とiPhoneを取り出した。


 実は、フロリダに出発する数日前、大西洋上にトロピカル・ストーム「フローレンス」が発生していた。が、プエルトリコから遥か彼方の海上にあったので、「旅行中はなんとかなるんとちゃう?」と気にも留めていなかった。フロリダに入ってからも晴天の日が続いていた。それが今になって、急激に勢力を増しながらフロリダに近づいているらしい。

 「トロピカル」と言えば聞こえは良いが、要はハリケーンに発達する可能性のある熱帯低気圧のことだ。激しい暴風雨を伴うため、バージニア州でも何度か「非常事態宣言」や「避難勧告」が発令されたことがある。 

 明日のボートツアーでお世話になるダイビング・ショップのオーナーと電話で話している間、相方はずっと顔をしかめたままだった。

「まさか、キャンセルとか言わんよね?」

「明日の海況次第。今日も沖の方はかなり荒れていたらしいからね」


 夢にまで見たキーラーゴでの夜。私達の不安をあおるかのように、雨は激しさを増しながら一晩中降り続けていた。


 

 翌朝。雨は小降りになったものの、真夏のフロリダで長袖のHoodieフーディー(=フード付きジャケット。「パーカー」は和製英語)を着込んでも肌寒いほど、気温が下がっていた。この分だと水温もかなり下がっているはずだ。

「ラッシュガードだけやと寒いんちゃう? 大丈夫?」

 真冬の日本で、半袖姿の外国人を見かけて驚いた方もいるだろう。平常時の体温がアジア人よりも高い白色人種は、寒さに強い傾向にある。が、相方はなぜだか寒さにとっても弱い。

「水温が低かったらショップで(保温効果のあるウェットスーツ素材の)フードベストを借りるよ。キャンセルの電話は入ってないから、ボートは出るみたいだ」

 iPhoneをチェックして車のトランクに荷物を詰め込むと、ホテルをチェックアウトしてダイビング・ショップに向かった。


 ショップの前には大きなピックアップトラックが止まっていた。ダイビング用タンクを積んだトラックから、撥水防風仕様のボートコートを羽織った男性達が降りてくるのが見えた。髪がぐっしょり濡れているところを見ると、早朝ダイビングから戻ったばかりのようだ。

「ボート、出てるみたいやね」

 ほっとしながらショップのドアを開けると、ウェットスーツ姿のお姉さんが出迎えてくれた。相方がシュノーケリング・ボートツアーを予約している旨と名前を告げた瞬間、お姉さんが気まずそうな顔をした。

「悪いんだけど、今日のボートツアーは全部キャンセルになったの。朝のダイビング・ツアーから帰ったばかりなんだけど、今日はもうボートを出せる状況じゃなくて」

 相方の表情が見る間に強張った。

「キャンセルの場合は電話をくれるって言う話じゃなかったっけ?」

「電話したわよ。だけど、つながらなくてメッセージも残せなかったの。これ、あなたの番号よね?」

 お姉さんが見せてくれた今日のスケジュール表らしきものに書かれた番号に目をやって、相方が「あ」と声をらした。

「最後の数字が間違ってる……」

 お姉さん、思わず苦笑。

 そりゃ、つながらんわね。オンライン予約をする際、電話番号をタイピングミスしたのに気づかないキミが悪い。

 

 ボートツアーがキャンセルになったので、その日の予定が半日空白になってしまった。キーラーゴの観光スポットは「海」だけだ。天気も悪いし、このまま次の宿泊地キーウェストに向けて出発するしかないか……などと憮然とした表情のまま考えているのであろう相方の横で、「はあああ、残念。トロピカル・ストーム、タイミング悪すぎやし」と思いつつ、カウンターの上にあったキーズの地図を覗き込んでいる私に、お姉さんが申し訳なさそうに声を掛けてきた。

「ごめんなさいね、せっかく来てくれたのに」

 ほんまにねえ、バージニアから遥々やって来たのにキャンセルはないわねえ、と心の声が出そうになるのをぐっとこらえて、アメリカで生き残るための究極の武器である『わざとらしいニッコリ笑顔』を浮かべてみせた。

「いえいえ……ところで、このあたりでビーチエントリーの出来るシュノーケリング・ポイントってありますか?」

 驚いた顔の相方が、こちらを凝視している。

 ダテにキミよりダイビング歴が長いワケじゃあないんよ。沖が駄目でも、ビーチがあるやん……と心の中でほくそ笑む私の前で、お姉さんが地図の上に指を滑らせる。

「キーズの海岸線は石灰岩とマングローブで覆われているから、ビーチは人工なんだけど、ほとんどがホテルや個人の所有なのよね……観光客が入れるビーチは、この州立公園くらいね」


 お姉さんが指差したのは、ジョン・ペネカンプ・コーラル・リーフ州立公園(John Pennekamp Coral Reef State Park)。私達が「絶対に外せない」と選んだポイントのサンゴ礁「ドライ・ロックス( Key Largo Dry Rocks)」は、この公園のすぐ東側だ。ドライ・ロックスのインナーリーフ(=サンゴ礁に囲まれたビーチ側の海)には、地球上で最も多くの人が訪れる海中スポットがある。「深淵のキリスト(Christ of the Abyss)」と呼ばれるブロンズ像だ。

 驚くなかれ、世界には「なぜこれが海の中に?」というものが結構ある。和歌山や沖縄の海底には郵便ポスト(プラスチック製の専用はがきを投函すれば、ちゃんと郵送してもらえるスグレモノ)があるし、七夕の時期には短冊の掛かった笹飾りが海中でゆらゆらと揺れている。メキシコやスペインの海底には水中美術館が存在する。

 キーラーゴの海にひっそりとたたずむキリスト像。深さ約7.6メートルの海底から祈りを捧げるかのように水面みなもに向かって手を差し伸ばす姿は、うれいと神秘に満ちた美しさだ。約2.6メートルの彫像は海水の透明度が高ければ水面からでも良く見えるので、人気のシュノーケリング・ポイントとなっている。興味のある方は「Christ of the Abyss Florida」でググって頂きたい。画像検索がおススメ。


 残念ながら、お目当ての像がある場所は、ビーチから泳いで行ける距離ではないらしい。

「でもね、この公園のビーチの一つに、マングローブ林のトンネルを抜けて行く水路があるの。シュノーケリングにはおススメよ」

 生まれも育ちもキーラーゴと言うお姉さんの言葉に、相方の「脳内本日の予定表」の空白部分が、すとん、と埋められたようだ。

 詳しい情報を得ようと相方がお姉さんと話し込んでいる間に、いつしか雨は止んでいた。どんよりと垂れこめていた雨雲はすっかり姿を消し、頭上には青空が広がっている。トロピカル・ストームが近づいているとは思えない空模様に「フロリダの天気予報は当てにならない」と実感した。



 ジョン・ペネカンプ・コーラル・リーフ州立公園は、アメリカ初の「水中を楽しむ」ための公園だ。

 約240平方キロメートルの水域では、普段着のままウミガメやバラクーダなどの海洋生物を観察することが出来るグラスボート・ツアーが大人気。整備された園内にはカヤックやカヌー、パドルボードのレンタル、スクーバダイビングやシュノーケリングのボートツアーなど、様々なマリンアクティビティが用意されている。ダイビングやシュノーケルの器材はレンタルも出来るので、水着と日焼け止めさえあれば誰でも気軽に楽しめる。入園料は車一台につき8ドル(アクティビティは別料金)。設備の整った公園としては妥当な金額だ。


 駐車場に車を停め、案内所の前に置かれた園内マップを確認する。そこから見える場所にあるビーチは多くの観光客でにぎわっていた。園内に二つあるビーチのうち、大きい方の「キャノン・ビーチ(Cannon Beach)」だ。お姉さんから聞いたマングローブ林の水路があるもう一つのビーチは、駐車場から少し歩いた先の奥まった場所にあるようだ。


 アメリカのビーチには更衣室もロッカーもないのが当たり前。トイレの中にカーテンで仕切られた「簡易脱衣所」があれば良い方なので、ビーチに出掛ける前に水着に着替え、その上から脱ぎ着の楽な服を着ておこう。

 海に慣れたサーファーやダイバーは、駐車場で躊躇ちゅうちょなく水着姿になり、ウェットスーツや装備を着込み、必要な器材を抱えて海に向かう。

 相方が車のトランクからダイビング・バッグを引っぱり出し、シュノーケリング器材を取り出している横で、私は人目も気にせずTシャツを脱ぎ始める。ビキニの上に長袖ラッシュガードを着て、サーフパンツを脱いで足首までのラッシュガードトレンカを履き、ビーチサンダルからダイビングブーツへと履き替えると、車の窓に写る自分の姿を見ながら露出している部分に日焼け止めを塗り込んでいく。

「いつもながら、その脱ぎっぷりの良さには感心するよ」

 呆れた顔でそう言いながら、相方も同じような恰好に着替えると、貴重品は防水ケースに入れてサーフパンツのポケットの中へ。泳いでいる間に必要ないものは、車のグローブボックスかトランクの中へ。アメリカの車上荒らしの発生率はハンパなく高いので、車の窓から見える場所には絶対に荷物を残しておかないこと。アメリカで生活する上での鉄則だ。


 トロピカル・ストームが近づいているとは思えないほど強い日差しと暑さの中、シュノーケリング器材を手に5分ほど歩いた先に、人影もまばらなビーチがあった。猫の額ほどの小さな砂浜の両岸にマングローブの林が広がっている。海に入って泳いでいるのは小学生くらいの子供が数人。水際に、オムツ姿の子供の水遊びに付き合う父親の姿があった。

 水温を確かめようと、器材を相方に預けて海の中に入ってみる。真夏のフロリダの太陽に焼かれてじんわりと汗ばんだ身体に、ほどよい冷たさの海水が心地良い。が、海底の泥が巻き上がって水の中はかなり濁っていた。沖合に迫ったストームの影響で「うねり(=波長が長くスピードの速い波。水深が浅くなる海岸付近に達すると高波の原因ともなる)」が発生しているのだろう。腕を前に伸ばしてみたら、指先が全く見えない。透明度は50センチといったところか。

 水底は絨毯じゅうたんを敷き詰めたように水草が生えている。魚影は多いが、「味噌汁」のように濁った海の中では、黒い影がちょろちょろと動いているようにしか見えない。


「水温高めで気持ち良いよ。海の中はなーんにも見えへん状態やけどね」

 ビーチに戻って相方に報告すると、やっぱりな、と言いたげな表情を浮かべる。

「せっかくここまで来たんやし、とりあえず泳ぐ?」

 相方はそれには答えず、シュノーケリング器材を地面に置いて私の手を取り、マングローブの生い茂る岸辺まで連れて行くと、そこに立っている看板を指差した。

「はい、これ読んで」

 緑色の文字で書かれた看板には、かぱっと口を開けたワニの姿が描かれている。


Alligators:泳ぐなら、 Swimワニに with Caution注意してよね


「げっ! アリゲーターは淡水にしかいないって言ってたやん! ここ、海やし!」

 思わず声を荒げる私を前に、相方はいたって冷静。さすが、フロリダ生まれのフロリダ育ち。子供の頃から、水辺で日向ぼっこするワニの姿をイヤと言うほど目にしているだけのことはある。

「マングローブ林があるからだよ」

 看板を見つめたまま、相方が苦笑いする。

「河とか沼から出て、マングローブのある水域に入ってくるヤツもいるんだ。木陰に隠れて獲物を待ち構えるのにちょうど良いんだよ。けど、アリゲーターは塩分の高い海水には適応していないから長居はしない。多分、クロコダイルの方だろうな」

「いや、そっちの方が危険やし!」


 海岸線に沿ったマングローブ林の根元に潜み、視界の悪い濁った海でシュノーケリングを楽しむおバカな人間達を「ご馳走がやって来た!」とばかりに、かぱっと大きな口を開けて待ち構えるクロコダイル……考えただけで鳥肌が立った。

 泳いでいる子供達はこの看板に気づかなかったのか。あるいはクロコダイルの恐ろしさを知らないだけなのか。

 相方がこの看板に気づいたのは、海に入った私が岸に戻る直前だったらしい。フロリダ州民であれば、汽水域(=淡水と海水が混在した水域)は常にワニの危険があるので絶対に近づくな、と幼い頃から叩き込まれている。相方よ、もっと早く気づいて欲しかった。ワイフがワニの餌になったらシャレにならんでしょーが。



 はるばるキーラーゴまでやって来た。なのに、エメラルドグリーンの海を前にして、トロピカル・ストームとワニの脅威にさらされ、心待ちにしていたシュノーケリングもままならない。

 このまま、お魚になって泳ぐことなどキレイさっぱりあきらめて、完全撤退すべきなのか?


(2018年11月8日 公開)

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