魔法使いの戦い
自らの身に起きた異常事態が幻想の魔法によるものであることを、
足元には大量の水がある。ここは湖、あるいは池か。
事前に情報を得ていた井の頭池のことを連想するが、恐らくそれは間違いではないのだろう。
空間が揺れるような、何かが作動するような感覚と共に周囲の空気が歪み始める。
厳重に組み上げられた封印が、かなりの速度でその半径を狭めてくる。
風湖は固有魔法の見えざる手を発動すると、自分に最も近い膜を無造作に掴み取った。高密度の魔力で形成された封印にあっさりと穴が開き、風船が
風湖は自分の小さな体を押し潰さんばかりの勢いで迫ってくる封印の一つ一つを、同じようにして次々と解体していった。
やがて最後の一枚を突き破ると、止まっていた時間が動き出したかのように清涼な空気が流れ込んできた。
二つの見えざる手のうち、一つは自らの体を浮かせるために使っている。しかし封印の解体は片手だけで十分な余裕を持って完了した。
簡単過ぎる、と風湖は思った。
幻想の魔法使いが自分たちを封印するために数週間もかけて作り出したのが、あの程度の魔法だったというのだろうか?
「おいおい、簡単に破られちまったじゃねーか」
魔法使いでなければ聞き取れないであろう微かな声を捕えると、風湖はすぐさま後退して、池の水際に積まれた岩の上に降り立った。
「……見ろ、お前が馬鹿みたいにでかい声で騒ぐから勘付かれた」
「あたしのせいかよ!? そんな声でかくなかっただろー!?」
「だから騒ぐなと言うのに……もういい、バレたからにはやるしかないぞ」
対岸から二つの人影が空へ飛び上がった。
一人は金髪の女子高生、もう一人は着流しを着た大男。光の魔法使いと撃滅の魔法使いである。
「ヒカリと撃滅じゃないっすか。ちょっと聞きたいんすけど、ここって井の頭池で合ってるっすか?」
「ん? おお、そうだよ。つーかお前普通に喋れんの? 洗脳されてるって聞いてたんだけど」
「やめろヒカリ。余計なことを言うな」
「んだようるせーなー」
「洗脳されてないっすよ。っていっても多分信じられないと思うっすけど」
「そりゃまあそうか」
井の頭池から荻窪まではそれほど遠くはない。できることなら今すぐ荻窪へ戻りたい、ショウの元へ駆け付けたい、と風湖は思っていた。
自分たち二人が荻窪へ行くことを想定していたからこそ、幻想の魔法使いはあんな仕掛けを作っていたのだろう。自分だけがこの場所に飛ばされたのは果たして偶然か、それとも意図的なものなのか。
ショウ自身から聞いた、この世界とよく似た別の世界の話を思い出してしまい、ますます不安が掻き立てられる。
◇
「あいつ、なんで飛ばないんだろうな」
ぼそりと、ヒカリは撃滅の魔法使いにだけ聞こえるように呟いた。
そういう気遣いができるならどうして最初からやらないのかと思いつつ、撃滅の魔法使いは「確かに」と頷く。
空を飛ぶためには五行の魔法か、あるいは別の何らかの魔法を用いる必要がある。
戦闘中に飛行魔法を常時使用し続けることはそれなりの負担となるが、それを補って余りあるほど、敵の頭上を確保することの優先度は高かった。
例えば相手が害獣であればその効果は
「空手は五行の魔法が使えないからな。普段どうやって飛んでいるのかは分からないが、恐らくその辺りが関係しているのだろう」
「よく分かんねーな……つまりこの状況はどうなんだよ?」
「俺たちにとっては有利だ。空手の魔法には何らかの制限があると見ていい」
「ふーん。じゃあさっさとやっちまおうぜ」
ヒカリが腰に下げた刀を鞘から抜き放つ。
磨かれた刀身がぎらりと威嚇するように輝いた。
「あのー、自分、急いで荻窪まで戻りたいんすけど……」
「そうはいかんな。俺たちの役目はお前を捕らえることだ。大人しく縄につくなら手荒なことはしないが」
「はあ、そうっすか。じゃあ仕方ないっすね」
ぶわりと風湖の周囲に風が逆巻いたかと思うと、淡い魔力の輝きが螺旋状の形を取って出現する。
それは一瞬で風湖の鎖骨を砕き脇腹まで貫くと、足元の岩に鋭い穴を
それとほぼ同時。
魔法が風湖の体に到達したかどうかを確認する前に、撃滅の魔法使いは不可視の衝撃を上半身に受けて吹き飛んでいた。
十分に加速した鉄球をその身に受けたかのような衝撃に、意識が飛びかける。
「おいオッサン!」
ホワイトアウトしかけている視界に強制的に光の像が結ばれ、強引に意識を引き戻される。
「ぐ……目がチカチカする……もっとマシなやり方はできないのか」
「助けてもらっといて文句言うなよ」
「……! ヒカリ、防御しろ!」
同時にその場から離脱し、展開されたデコイの隙間に潜り込む。
次の瞬間、強い衝撃を受けて、いくつかの光の虚像が破壊された。
「なんだなんだ!? どうしてあたしの魔法がぶっ壊されてるんだよ!?」
「ヒカリ、今あいつの攻撃が見えたか?」
「あんたに見えないならあたしが見えるわけねーだろ!」
「まずいな、完全に不可視の攻撃だ。お前はとにかく虚像を展開し続けろ。幸い、あいつも片っ端からめくら撃ちするしか手がないらしい」
「どこが幸いだよチクショウ、そのうち当たるかも知れねーってことじゃねーか!」
「その前に俺が止める」
虚像を貼り付かせながら常に移動しつつ、二人は器用に会話する。
ヒカリが展開する虚像の数が、破壊されるそれと拮抗しているうちに、撃滅の魔法使いは一瞬だけ動きを止めて魔法を放った。
◇
撃滅の魔法の予兆を察知して、風湖は斜めに飛び
一瞬後には地面にいくつもの穴が
攻撃が止んだのを好機と見たか、撃滅の魔法が次々と放たれ、あっという間に防戦一方となった。
上空から飛来する一直線の攻撃は避けるに難くないが、それが次々に襲いかかってくるとなれば話は別だ。見えざる手を使っても普通に防御したのでは貫通されてしまうため、一々握り潰さなければならない。
このままではジリ貧だと判断した風湖は、見えざる手を積極的に防御に使うことをやめた。致命傷になり得る攻撃だけを防ぐために片手を待機させ、敵の魔法の角度や頻度から動きのパターンに当たりをつけていく。
最低限の回避行動では攻撃を
しかし――
◇
「なんだ……!?」
撃滅の魔法使いは攻撃の手を緩めないように努力しつつも、内心の動揺を隠し切れずにいた。
空手の魔法使いは五行の魔法が使えない。つまり傷を回復することができないということだ。それならば、致命傷にならずともダメージを与え続ければ、相手はそのうち戦闘の続行自体が不可能になる。
そう考えて彼は甘い狙いの攻撃を繰り返していた。
狙いが甘いとは言っても、一度に何発も撃てるという魔法の特性もあって、事実、いくつもの無視できないダメージを相手に与えていた……はずだった。
しかしそれが、一瞬で消えた。
いや、それでも確かにダメージは与えられている。今こうしている間にもいくつかの魔法は相手の体に到達し……その度に、傷が跡形もなく消えてしまうのだ。
実は五行の魔法が使えることを隠していたのかと一瞬考えたが、それでは辻褄が合わないことがあった。着ている服までもが修復されているのだ。
(一体どうなっているんだ? あいつの固有魔法は念動力ではないのか?)
理解が追いつかない事態に思考を割かれ、撃滅の魔法使いは一定の間隔で移動し続けることを失念してしまっていた。
「おいオッサン! なに止まってんだよ!」
ヒカリの声にハッと我に返ると、慌ててその場から離脱する。
背中に冷たい風が吹き付けた。ほんの一瞬の間を置いて、たった今まで自分がいた場所のデコイが跡形もなく吹き飛ばされたのだ。
「あっぶねーなおい……」
「ヒカリ!」
撃滅の魔法使いが危うく攻撃を避けたことに安堵していたヒカリは、自分が大声を上げたことで敵に位置を補足されたことに気付かなかった。
その直後。
ヒカリの意識が、視界が、一瞬にして真っ黒に塗り潰される。
耳の奥で何かが潰れるような鈍い音が響いたが、それが何を意味しているのか、彼女には思考する暇さえなかった。
回復魔法を使える魔法使い同士での戦いにおいては、相手の肉体に多少のダメージを与えたところで大きなアドバンテージにはならない。最も重要なのは、相手の意識を奪うことだ。
ヒカリが受けたダメージは決して致命傷ではなかった。首の骨が折れようとも、肺が破裂しようとも、僅かな意識さえ残っていれば回復魔法ですぐに修復することができるからだ。
しかし頭部へ
彼女の意識が途絶えたことで、展開されていたデコイが全て消滅する。
一対一の戦いであれば彼女はこれで敗北し、さらにこのまま意識が戻らなければ、受けた傷によって生命にすら危険が及んでいただろう。
だが、彼女は一人ではなかった。
撃滅の魔法使いは剥き出しとなった己の身に向かってくる敵の攻撃を予感しながら、防御するのではなく逆にこれまでより鋭い撃滅の魔法を放つことで
言葉よりも速く。ぶつかる視線だけでヒカリは全てを理解し、撃滅の魔法使いの腕に身を任せたまま再び大量の虚像を展開した。
「これで貸し借りなしだな」
「あたしは二度助けた。あんたは一度目だろ。貸し一だよ、ばか」
「細かい奴だ」
「あんた意外と大雑把なんだな……」
「なんだ、知らなかったのか?」
「知りたくもねえ」
軽口を叩き合いながらも、今度は油断なく回避行動を取りながら撃滅の魔法使いは再び攻撃に移っていった。
段々と相手からの反撃の頻度が高まり、うっかりするとまた狙い撃ちされそうになるが、まだどうにか会話するだけの余裕はある。
「……おいオッサン」
「なんだ」
「あんたさっきから手ぇ抜いてねーか」
「……魔法使いを殺すことはできんからな」
「なに
「あいつはお前を殺さなかった」
「死にかけたっつーの」
「殺す気なら今頃二人とも挽き肉のようになっていただろう」
「だからあんたも手を抜くって? ……あんたひょっとして、悦楽のことまだ引きずってんのかよ」
「なぜ今その話が出てくる。……あれは仕方のないことだった。あの魔法を放っておけば魔法使いにも人類にも害となることは明白だった。だから殺すしかなかった。俺がその役目を引き受けたのは適正があったからだ」
「同じことだろ。空手を逃したら多分、幻想のところに行くぜ。幻想がやられちまったらこっちの形勢は一気に不利になる。悔しいけどあたしたちの力じゃ空手を生きたまま捕まえるのは難しそうだ。それならもう、やるしかねーだろ」
「焦るな。まだ何か方法があるはずだ」
「あんたがやりたくねーって言うなら、あたしがやってやるよ」
「ヒカリ!」
ヒカリは大量のデコイを引き連れて、敵の元へと急降下していった。
近付けば近付くほどデコイが破壊される速度が一気に跳ね上がるが、奇跡的に本体の元へ攻撃が届く前に、ヒカリは攻撃範囲内に目標の姿を捉えた。
◇
ここで相手が接近戦を挑んでくることは、風湖にも想定外だった。
ヒカリが前に出れば、同士討ちを避けるために撃滅の魔法使いは魔法を使えなくなる。ヒカリが防御に徹していたからこそ、風湖はあれほどの苦戦を強いられていたのだ。その防御役が自ら突っ込んでくるとは。これは罠なのか、それとも連携が取れていないだけなのか。
一瞬の動揺を見抜いたかのように、ヒカリは腰に下げている刀の
いつの間に刀身を鞘に収めていたのか。抜刀術は攻撃のタイミングや軌道を読みにくくさせる。気を抜けば一瞬で首が飛ぶ。しかし幸いなことに、ヒカリが扱うそれはどうやら付け焼き刃のようだった。一つ一つの動作が遅く、ぎこちない。
あえて注意を引くためにデコイに抜刀の動きをさせていたのだと気付くと同時に、背中から冷たい感覚が胸を貫いた。
刀が振り切られるより先に、風湖は前方へ跳んだ。ずるりと体から刃が抜け、赤い血が糸を引く。
◇
相手の思い切った判断力のおかげで体を切断するまでには至らなかったが、確かに心臓付近を貫いた手応えをヒカリは感じていた。
空手の魔法使いは回復魔法を使えない。さらに名付きの害獣由来の刀によってつけられた傷は、まるで呪いのように回復を阻むのだ。
この好機に追撃しようと刀を構えたヒカリは、くるりとこちらを振り返った空手の魔法使いの姿を見て足を止めた。
傷が消えている。血の跡すらない。
あるはずのものがない。その奇妙な現象にぞくりと嫌な予感を覚え、ヒカリは本能的にその場から離脱しようと飛び上がった。
◇
今日、この魔法を使うのは何度目だろう、と風湖は思った。
回復魔法を使えなくなった彼女が、受けたダメージをケアするにはどうすればいいか考え抜いた末に辿り着いたのは、攻撃されたという事実そのものを消してしまうことだった。
彼女の固有魔法である見えざる手は、概念すら握り潰して空にする。
攻撃された、ダメージを受けたという事実を消し飛ばしてしまうことで、因果による世界の修復力は時を
言わば世界を騙すという大きな規模の魔法なだけに、それを行使するにはいくつかの制限があった。
まず、この魔法は自分にしか使えない。誰かの傷を癒やしたり、壊れたものを直したりすることはできない。そして世界の歴史が固着してしまう前、時間で言えば傷を受けてから約一分ほどの間にしか使えない。
それでも、どれほど深い傷を受けても一瞬でなかったことにできるこの魔法は非常に強力だった。
そのあまりの便利さ故に、この魔法を使い続けていたら、いつか世界を騙し続けてきた代償を支払わされる日が来るのではないか、と風湖は思っていた。心のどこかでそれを恐れていた。できることなら、なるべくこの魔法は使わないようにしようと考えていた。
ところが今日は、これまでに経験したことがないほどこの魔法に頼り切っている。
害獣との戦いとは一線を画す、魔法使い同士の戦い。これほどまでに消耗するものなのかと、風湖は改めて実感していた。
これ以上この魔法を使わずに済むように、一刻も早く戦いを終わらせなければならない。
「逃さないっすよ」
脱兎のごとく空に飛び上がったヒカリの体を見えざる手が掴み取り、凄まじい勢いで地面に叩きつける。
後は殺さない程度に追撃を加え、意識を奪った状態で手元に置いておけば、撃滅の魔法使いも不用意に魔法を乱射することはできなくなるはずだ。
と、そこまで考えた所で、風湖は首筋に違和感を覚えて反射的に屈み込んだ。
直後に頭上を切り裂く軌跡はヒカリが持つ刀と同質の
魔力を極限まで抑えて身を隠していた撃滅の魔法使いが、いつの間にか至近距離に近付いていたのだ。
これまでの戦い方から見て、撃滅の魔法使いは決して近距離戦闘は仕掛けてこないだろうという先入観が風湖にはあった。
だが、魔法を使わずとも、その特殊な刃は魔法使いの肉体を容易く切り裂くことができる。名付きの害獣から作られた刀と短刀を持つ彼らだけに可能なその奇襲戦術は、またもや風湖の意表を突いた。
ならば逆にまとめて倒す好機だと拳を向ければ、彼と風湖の間には既に螺旋状の撃滅魔法が今まさに解き放たれようとしている。
一つ二つなら見えざる手で処理してしまえたが、その数は優に十を超えていた。
たまらず回避行動を取る間に、ヒカリと撃滅の魔法使いは抜け目なくその場から離脱してしまう。
◇
「これでお互い二度目だな」
「……チッ、どーも。だけどあたしの覚悟は分かっただろ。あんたがまだ温いこと言うってんなら、あたしは何度だって
「いいや、直接対峙して分かった。あいつは手を抜いて勝てる相手ではない。俺もいい加減、覚悟を決めるとしよう」
撃滅の魔法使いの、糸のように細い目が見開かれた。
光り輝く無数の剣が一瞬にして現れ、標的を包囲する。ずらりと空中に並ぶ魔法はいっそ
その撃滅の魔法は、先ほどまでのものとは一線を画していた。
魔法の威力そのものに大きな変化はない。元々撃滅の魔法はあらゆるものを貫通するからだ。では何が変わったのかと言えば、精度と密度だった。
これまでのように甘い狙いではなく、確実に急所を狙う。頭上からの攻撃だけでなく、前後左右からも魔法が襲いかかり、立体的に敵を追い詰める。そして、撃滅の魔法の弱点である一瞬の溜めを補うかのように、第二波、第三波が次から次へと終わりなく
逃げ回る空手の魔法使いを追尾して、豪雨のように魔法が降り注ぐ。終わらない魔法の爆撃は木々や岩石を原型を残さぬほど粉々に打ち砕き、地面という地面に無数の穴を穿った。
あっという間に辺り一面の地形が変わり、土煙がもうもうと立ち込める。
「ヒカリ、虚像を解除しろ。目視では限界だ。お前も魔力を探って照準を合わせろ」
「大丈夫かよ……!?」
「見ての通りだ」
「ヘッ……最初からやれっつーの」
相変わらずの憎まれ口を叩きながらも、ヒカリは内心では舌を巻いていた。
まさにあらゆるものを撃滅する、その名に恥じない魔法。彼女が撃滅の魔法使いの本気を目にするのはこれが初めてだった。
(このオッサンひょっとして、魔法使いの中で一番強いんじゃねーのか……?)
東京国の首都を護る投擲の魔法使いがどんな魔法や武器を撃ち出して来ようとも、五行を極めたヒューア・メロードがどれほど強大な魔法を放とうとも、この撃滅の魔法の前には等しく無意味なのではないかとヒカリは思った。
これならば、そもそも防御を考える必要すらない。
しかし、これほどの魔法に晒されながらも、空手の魔法使いは未だに逃げ回り続けていた。ヒカリは先ほど見た敵の不可解な傷の消失を思い出し、あいつも大概普通じゃない、とため息交じりに呟いた。
◇
(あれ……また飛んだ)
いよいよ本気を出してきた撃滅の魔法使いの猛烈な攻撃を
一度目は敵の猛攻が始まった直後。そして二度目は、ついさっき集中力が途切れた瞬間だったようだ。
意識が途絶えたということは、それは即ち、頭部を破壊されたということに他ならなかった。
例え人知を超えた力を持つ魔法使いであろうとも、頭を吹き飛ばされて意識を失えば、もう魔法を使うことはできない。回復魔法で自らの傷を治すこともできず、そのまま死に至る。……普通であれば。
しかし風湖は、概念にすら触れられる自らの魔法によって、自分の魂の一部を見えざる手の中に分割して埋め込んでいた。
この魔法を発動した状態で意識を失った場合、予め決められていた通りに見えざる手が自動的に動き、その原因をなかったことにする。
眷属の契約を結ぶ際に、眷属がその魂を分離させることにヒントを得て開発した、完全自動起動型の魔法である。
ただし、それが本当に使い物になるのかどうかまでは、実際に自分の頭が吹き飛ばされるまで彼女自身にも分からなかった。
(失敗してたら、とっくにあの世行きだった……)
二度、命を拾えたらしい。しかし三度目があるという保証はどこにもない。
これ以上敵の攻撃を無策で捌き続けるのは無理だと彼女は判断した。
かと言って反撃に転じれば、防御が薄くなったその瞬間に全身を余す所なく貫かれてしまう。肉片すら残らなかった場合、この魔法が果たして効果を発揮するのかどうかは微妙なところだ。
彼女に残された手は一つだった。
逆に言えば、たった一つだけ、彼女には切り札と言うべき手があった。
(できれば使いたくない、けど)
そうも言っていられない状況なのは明白だった。
風湖は意を決すると、見えざる手で自らの体を隙間なく包み込んだ。
ただし、普通に包み込んだのではない。手のひらを外側に向けて、両手を組んだのだ。
見えざる手とは言っても要は魔法である。実際の手と違ってその関節の可動域に限界はない。手のひらを外側に、手の甲を内側にして、自分を包むように防御を固めて魔法を発動させる。
握り込んだものを空にしてしまう見えざる手を、こうして裏返しにした状態で発動させた場合、何が起こるか。
風湖の認識では、自分以外の全てを、その手の中に握ったということになる。
魔法は術者の認識に強く左右される。魔法の力は願いの力。本人がそうだと信じ込むことができれば、その通りになるのが本来の魔法というものだ。
つまりこの場合は――
音、光、空気、魔力、その手に触れたありとあらゆるもの全てが消滅する、ということになる。
◇
「おい、オッサン……!」
「……ああ」
逃げ回っていた空手の魔法使いの魔力がついに消失した。
それはつまり、撃滅の魔法によって相手が死亡したことの証明に他ならなかった。
数分間に渡って魔法の掃射を受け続けた地上は、もはや見る影もなく荒れ果ててしまっている。その有り様を見れば、むしろ事ここに至るまで空手の魔法使いが逃げ続けられていたことの方が信じられないくらいだった。
「しっかしとんでもねー威力だな……これじゃさすがに跡形も残ってねーだろ……」
「まだ気を抜くな。お前も見ただろう、あいつの奇妙な回復力を。もしかしたらまだ生きているかも知れん」
「んな訳あるかよ。魔力だってひと欠片も残っちゃいねー……」
「……なんだ?」
「おい、あそこ、ちょっと妙じゃねーか? なんか……土煙が……」
「あの渦……小さな竜巻か……? それにこの風は……」
もうもうと立ち込めていた土煙が、渦を巻くように消えていくのを彼らは見た。
気付けば風が吹き始め、強く背を押している。
池の水がざあざあと流れる音が聞こえてきた。撃滅の魔法によって開けられた穴に水が落ちているにしては、やけに音が大きい。
やがて、その土煙が、その風が、その水が、ある一点に向かって吸い込まれているのを、彼らは知ることになった。
「なんだよ……あれ」
真っ黒な球体としか言いようのないものが、そこにはあった。
地面の土や岩や瓦礫、辺り一面に散らばった樹木の破片、そして池の水や空気までもが、その球体に吸い込まれては消えていく。
周囲にあるあらゆるものを呑み込み、まるで重力さえも吸い取っているかのように不気味に浮かぶその球体を前に、二人の魔法使いはしばし絶句していた。
「……空手の魔法以外に考えられん」
すぐさま再び臨戦態勢に入った撃滅の魔法使いが、再び嵐のような勢いで魔法を黒い球体に浴びせかける。
しかし彼の魔法は一発たりとも球体を貫くことはできず、その全てが他のあらゆる物質と同じように吸い込まれてしまった。
「俺の魔法で貫けないだと……!?」
「……オッサン、あれはヤバいぜ。見てみろよ……あの黒い球の周り、景色が歪んで見えるだろ。あの球は黒い色をしてるんじゃねーんだ。光を吸い込んじまってるから黒く見えるだけなんだ……」
引きつったような笑みを浮かべるヒカリを見て、撃滅の魔法使いの頬に一筋の汗が流れた。
「それによ、気付いてるか? あたしたち、どんどんあの球に近付いていってやがる。吸い寄せられてるんだよ」
「ヒカリ、逃げるぞ!」
「どこに逃げるってんだよ! あんなもん放っておいたら、そのうち全部を呑み込んじまうぞ! この世界全部をだ!」
「だからと言って、ただここにいても死ぬだけだ! 幻想の元へ行くぞ! 幻想の世界に逃げ込めば助かるはずだ!」
「んなもんさっきから呼んでるよ! けど反応がねーんだよ!」
「恐らく向こうも戦闘中なのだろう、急いで加勢するぞ。今はそれしかない!」
「~~~~~ッ! ちくしょう! 最悪だ! 訳わかんねぇ!」
◇
二人は無事に逃げてくれただろうか。
真っ暗な
あらゆるものを無差別に消し去るこの魔法ならば、確かに撃滅の魔法を防ぐことはできる。
しかし、可能な限り威力を抑えているとは言え、突如として地上に全てを呑み込む穴が出現した場合、一体どれほどの被害を及ぼすのか……彼女には想像がつかなかった。
加えて、この魔法は二つの見えざる手を同時に使うため、魔法を解除しない限り傷を治すことができない。
この魔法を発動する際に生じた隙は、彼女の体に大きな一つの穴と数カ所の無視できない傷をもたらしていた。
右手で押さえつけていても下腹部からはみ出る
一分以内に魔法を解除して傷を消さなければ間違いなく死に至る。だが、魔法を解除した瞬間に無防備な状態で撃滅の魔法を食らえば肉片も残らないだろう。
外の情報は全て遮断されている。魔力も、音も、光も届かない。
彼らは一分以上も攻撃を続けるだろうか? あるいは、うっかりこの魔法に触れて消滅してしまってはいないだろうか? ……そういえば、離れ離れになってしまったショウの安否が気がかりだ。今ごろ幻想の魔法使いと戦っているのだろうか? シールの魔法使いと除湿の魔法使いは今何をしているのだろう。ああ、お腹が痛い。息が苦しい。ひどい耳鳴りがする。もしかしたらこのまま自分は死ぬのかも知れない。死について思いを馳せる。両親の最期はどんな風だったのだろう。苦しんだだろうか、それとも安らかに逝けただろうか。お兄ちゃんは……
(……違う! 今考えるべきはそんなことじゃない!)
まだ数十秒しか経過していないにも関わらず、耳が痛いほどの静寂の中で頭だけが空転していたらしい。
まるで眠りに落ちる寸前のように思考が暴走しかけていたことに気付くと、風湖は右手で掴んだ腸を強く握り締め、その痛みで自分を奮い立たせた。
外がどうなっていようと、一分が経過する前に魔法を解除しなければならない。これは大前提だ。魔法を解除したらすぐに傷を治し、周囲の状況を確認する。あらゆる場面を想定しろ。それに対してどう行動するか、今のうちに考えておくべきことは山ほどある。
幸い、頭の片隅で数え続けている時間に乱れはなかった。
残り十五秒。五秒前に魔法を解除する。
十二……十一……
目の前を、水が流れ落ちていった。
たった今まで吸い込まれていた池の水が解放され、深い谷底へと落下していく。
すり鉢状に
全身の傷は既になかったことになった。どうやら攻撃が飛んでくる気配もない。
周囲の被害は思っていたほど酷くはなかった。これならあの二人もみすみす呑み込まれることもなく離脱できただろう。
風湖は念のため周囲を警戒しつつ、離れ離れになってしまったショウの元へ駆けつけるため、荻窪に向かって移動を開始した。
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