リスタート

追想

「おい翔、なにをそんなチンタラ歩いとる」

「すみません……なんか緊張しちゃって」

「緊張することなんぞあるか。変な奴だなあ」


 放課後の空に、先輩の豪快な笑い声が響き渡った。

 その笑顔と笑い声は全ての悩みを吹き飛ばしてしまうかのようで、私もいつの間にか、つられて笑っていた。


「実は、他の人の家に遊びに行ったこと、ないんです」


 かなり恥ずかしかったけれど、私は正直に白状することにした。

 先輩の前で見栄を張っても仕方がない。


「んじゃ俺の家が記念すべき第一号か。つってもそんな大したもんでもないけどな」

「いえ、そんなこと! ……先輩の家に遊びに行けるの、すごく嬉しいです」


 その日は、初めて先輩の家にお邪魔することになった日だった。

 昼休みの会話の中でなんとなく、私がほとんど漫画を読んだことがないということを話すと、先輩は「それじゃ俺の漫画を貸してやる」と言ってくれた。

 しかし、今の家に漫画を持ち帰ったら、おじとおばにどんな難癖をつけられるか分かったものではない。私がそう説明すると先輩は、「そんなら俺の家で読んでいけばいい」と言った。

 青天の霹靂へきれきだった。

 私と先輩は毎日のように学校で顔を合わせてはいたけれど、お話をするのは休み時間や昼食の時間だけで、家に遊びに行くとかそういった発想がそもそも私の頭の中には存在していなかったのだ。

 私はその日、初めて先輩の部活を見学し、それから通学路の途中でこっそりと待ち合わせをして、先輩と二人きりで帰ることになった。

 先輩も、――普段から私を贔屓ひいきしていることを喧伝けんでんしているとは言え――大っぴらに名前を出すと私に迷惑がかかるかも知れないと気を使ってくれたらしい。

 この時点で私の心臓はかなり限界に近かった。なんというか、これではまるで放課後デート的なやつではないか。

 気になる男の人の家に行くというのはかなりのオトメぢからを消費するものであり、できれば十分に準備を整えた上で臨みたいというのが本音だったが、この機会を逃したらもう二度とないのではないかという危機感も合わさり、私の足は自然と亀の歩みになっていたのだった。


「ほれ、あれが俺の家。この辺じゃどれも似たり寄ったりだけどな」


 そうこうしているうちに、先輩の家に着いてしまっていた。

 重厚な黒い瓦屋根が特徴的な家だった。

 家の前には田んぼが広がり、蛙の鳴き声が聞こえていた。


 引き戸の玄関には鍵がかかっていなかった。

 三和土たたきに上がると、線香のような洗剤のような、いわゆる他人の家特有のにおいがして、それがなんだか嬉しかった。

 細い板張りの廊下に沿うようにして急な階段があり、それを上るとすぐに先輩の部屋があった。


「あ、おかえり太陽~」


 部屋のドアを開けると、女の人が先輩のベッドの上で本を読んでいた。


「ちょっ、姉ちゃん! また勝手に……!」

「どしたのー今日帰ってくるの早いじゃーん」

「おいやめ……今日は友だち連れてきてんだから! ひっつくなって!」

「友達?」


 先輩の後ろで小さくなっていた私と、先輩に抱きついてきた女の人――先輩のお姉さん――の目が合った。


「へえ、太陽が友達連れてくるなんて珍しいね。しかも野球部じゃないんだ?」


 お姉さんは私のぼさぼさ頭を見ながら言った。


「いいから出てけって! つーかなんでいつも俺の部屋にいるんだよ……プライバシーって言葉を知らんのか」

「はいはい、お邪魔なお姉ちゃんは出ていきますよ。……ところであなた、お名前はなんていうの?」

「あ、翔です」

「ふーん。私は雪美ゆきみ。太陽のお姉ちゃんです。よろしくね」

「どうも……」


 すれ違いざま、その眼鏡の奥に見えた瞳は、縄張りに入ってきた敵を監視するかのような冷たい光を放っていた……ような気がした。


「びっくりした……」

「すまんな、マイペースな姉で」

「いえ……お姉さん、大学生ですか? ずいぶん帰りが早いんですね」

「いや」


 と、そこで先輩の表情がわずかに曇った。


「……立ち話もなんじゃ、その辺に適当に座ってくれ」


 そこ、と先輩が指さしたのは、先輩のベッドの上だった。


「いえ、僕みたいなものは床の上で十分なので……」

「なにを遠慮しとる。ほれほれ」

「うわー」


 結局、私はベッドの上に、先輩は学習机の椅子に腰を落ち着ける形になった。


「姉は看護師でな……今年の春から隣町の病院に勤めとったんだが……」


 慣れない仕事、変則的な勤務時間に加えて、病院内での人間関係がお姉さんをじわじわと追い詰めていったのだという。

 身体と精神の両面から来る総合的な不調により、お姉さんは何度か休職と復職を繰り返した後、とうとう、明ける予定のない長期のお休みに入ってしまった。

 仕事や勤務時間については、時間が経つにつれて覚えたり慣れたりしていくものだろう。しかし人間関係は……どうにもならなかったらしい。

 ていに言えば、お姉さんは周囲の人たちから嫌がらせを受けていたのだという。


 私はその話を聞いた時、言い知れないショックを覚えた。

 私もついこの間まではひどいいじめを受けていたが、それはあくまでも子供のうちのこと、精神が未熟だからこそ起こることなのだと思っていた。

 しかし、現実はそうではなかったらしい。

 信じられないことに、大人もいじめをするのだ。

 いや、いじめというほど明確なものではないのかも知れないし、程度の問題もあるのだろうけど、どちらにしたって受ける側にとっては同じことだ。

 辛く、苦しい、終わりのない迷路。

 子供のうちならば、学校を卒業したり、遠くの場所に引っ越したり……といった逃げ道のようなものがまだ見えることもある。

 しかし大人になって、ようやく就職して、これから何年、何十年と働いていく、そんな職場でそれが起きてしまったら。

 その時、お姉さんはどこに逃げれば良かったのだろう? 仕事を辞める、収入が途絶える……それはどれほどの重さを持つ決断なのだろうか?

 まだ子供の私には想像もつかないことだったけど……ぼんやりと浮かぶ、袋小路になった真っ黒な迷路のようなイメージが、ただただ胸の奥を重くさせた。


「多分姉は……家族に、俺に依存しとる……気がする。大体いつも俺の部屋にいるんじゃ、あいつ。俺が学校の話をすると子供みたいに喜ぶ。しょっちゅう俺にちょっかいを出してきて、あんまり素っ気なくすると泣きそうになる。そんな姉ちゃんを見てると、俺は、本当にこれでいいんだろうかと考えちまう……」

「先輩は、優しいです。僕もその優しさに救われました。だからお姉さんもきっと」

「そうか……」


 私の言葉で、先輩は、ほんの少しだけ笑ってくれた。

 いつもの輝くような笑顔ではなかったけれど、それは私も初めて見る、どこかいつくしみを感じさせるような笑顔だった。


「……いや、すまんな! こんな話をするつもりじゃなかった。ほれ、今日は漫画の日だからな、どれでも好きな漫画を読め! おすすめは『進撃の巨人』じゃ!」

「ちょっ、先輩! こんなたくさん、いっぺんには読めませんって……!」


 その日は、そこでお姉さんの話は終わりになって、結局、私が帰るまでお姉さんが顔を出すことはなかった。


 その後も何度か先輩の家にお邪魔することはあったけれど、不思議とお姉さんと顔を合わせることはなく、次にその姿を見たのは、先輩のお通夜の日だった。

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