第37話 不安と祈りの第16階層
次の週末、ダンジョン攻略の約束の時間に、ひいなは遅刻した。
「やー、ごめんねぇ」
ダンジョンのロビーに駆け込んだひいなを、花乃華と美鈴は気遣わしげな顔で出迎えた。
「ひいな、平気なの? お財布落としたって一大事じゃん」
「いろいろ大変なんじゃないですか? 手続きとか」
「ん、大丈夫だいじょうぶ」
外出用の財布をなくしたのに気づいたのは今朝、お昼を食べにいこうとしたときだった。
昨夜は同僚との飲み会で二軒はしごし、そのまま部屋に帰って寝てしまった。記憶は曖昧で、支払いをどう済ませたかも覚えていない。店や会社にも届いていなかったという。
最初はさすがにあわてたが、やがて冷静になった。カード会社に連絡し、最寄りの交番に届けを出したら、それで終わり。現金をそんなに持ち歩くたちではないから、意外なほど損失は少なかった。
銀行で当座の金を下ろし、近所の鞄屋で新しい財布を購入していたら、約束の時間にちょっと遅れてしまった。
叱られるかと思ったら、むしろふたりに心配されて、ひいなは逆に戸惑う。そこまで非常事態ではないのに。
「もしあれなら、今日は中止してもいいんだよ。ひいなのメンタルがぶれると、こっちが困るし」
花乃華は気遣わしげに言う。ひいなの魔法の威力は感情に左右されるから、気持ちが弱まると魔法も弱体化してしまう。それを気にしているのだろう。
「平気だってば。このくらいでへこたれやしないよぉ」
「……ひいなのメンタルのツボはいまいちよくわからないのよね。すぐ悄げるかと思ったら、こういうときは変にタフだし」
「大人だからねぇ」
「そういう問題……?」
花乃華は釈然としない様子で首をひねっている。
「ひいなさんがそう言ってるんだから、大丈夫なんだよ。もっと信頼しよう」
美鈴が、花乃華にそんなことを言っている。花乃華は「うん……」とひとりごつようにうなずいた。
ひいなはカウンターの方に歩み寄り、マクリーに話しかける。
「そういうわけだから、マクリー。今日の収穫は、いつもの口座に入れないでね。ていうか、この際だから専用口座作っちゃおうか?」
話しかけられたマクリーは、つかのま、ぼんやりとひいなの方を見つめ返すだけ。少し口を開けたまま、いつになく気の抜けた顔だ。
「マクリー?」
もう一度ひいなが呼ぶと、上の空だったマクリーははたと我に返って、うなずいた。
「……あ、ああ、うん。それがいいかもしれない。探索から戻るまでに、手続きしておくよ」
「よろしくね」
「第16階層の例のゲートは、すでに使用可能にしてあるよ。今日はそこから入るといい」
「わかった」
なんだかんだで、仕事はちゃんとしてくれているようだった。そういう点では、ひいなもマクリーを信頼している。
振り返って、美鈴と花乃華に呼びかける。
「それじゃ、行こうか」
「了解」
うなずく花乃華。その隣で、美鈴は神妙な表情をしている。
そう、ひいなの財布なんか余録にすぎない。
今日の主役は美鈴なのだから。
第16階層に充満する、むせかえるような植物の匂いに、ひいなは鼻の頭がひくつくのを感じる。
縦横無尽に繁殖する植物群の様相は、前回の探索そのままだ。この1週間で姿を変えているはずなのだが、見た目には区別が付かない。
壁を呑み込むように広がる蔓草や、天井まで突き通すような大樹。そのどこからクリーチャーが出現するか分からない。油断のならない階層だ。
「行きましょう」
その階層に、真っ先に足を踏み出していくのは、美鈴だった。彼女の歩調は、前回よりもいくぶん早く、気が急いているように感じられる。後から追いかけるひいなや花乃華の様子を、確かめもしない。
花乃華は、美鈴の背中を見ながら、小声でひいなに話しかける。
「……気をつけててね」
「美鈴ちゃんのこと?」
「今日の美鈴、焦ってる」
それは、今の美鈴を見れば、一目瞭然だった。
一見すれば、美鈴はラベンダー色の魔力を前方に張り巡らし、警戒しているように見える。しかし、早足で歩き、左右に目を向けもせず、ただまっすぐに突き進んでいく様子は、いささか彼女らしくない。
通路に横たわる根太を飛び越えて、彼女はちょっとふらつく。足下がおろそかになっているみたいだった。
美鈴から目を離さないよう、ふたりは並んで歩を進める。
「今日こそクリプティを見つける、って、そう思ってるはず」
「かんたんに探り当てられるとは思わないけどねぇ」
前回の探索で魔法少女たちが遭遇したのは、パナケアの敵・メノンタールの幹部だった「孤立の種」のクリプティ……正確には、その力だけが抽出された凶暴なクリーチャーだ。
パナケアとの戦いで心を浄化されたはずの、クリプティ。その魂は、素材となって、いまだにダンジョンのどこかに存在している可能性がある。
しかし、第16階層の深層は、美鈴さえも踏み込んだことのない領域だろう。
捜し物に躍起になって、警戒をおろそかにすれば、足下をすくわれる。
「気をつけてないと、事故るかもねぇ」
ひいなの言葉に、花乃華は肩をすくめた。
「それよりも……少し怖いんだよね」
「怖い?」
「美鈴が、なんだか、このダンジョンに呑み込まれちゃいそうで」
前方を歩む美鈴の姿は、ダンジョンの中で、ふんわりと紫色に浮き上がっている。木々に覆われた第16階層は明かりに乏しくて、ちょっと離れると人の姿はおぼろげになる。美鈴の背中は、今にも、樹皮の乾いた色に溶け込んでしまいそうに見えた。
「クリプティを追って、どこかに消えちゃいそうで」
弱気な声を発する花乃華を、ひいなは、横目で一瞥する。
前を見つめる瞳は、思い詰めたように動かない。美鈴から目を離せない、とでも言いたげだ。口元は不安そうに、わずかに開いている。のどもとが、かすかな緊張で震えていた。
花乃華のか弱い表情は、ひいなの胸をざわつかせる。
自分じゃない誰かのことを、こんな顔で見つめるなんて。
悔しいような、寂しいような。
一方で、花乃華の弱い箇所を見つけるたびに、ほっとしている自分もいる。
彼女は完全無欠でもなければ、冷酷非情でもない。
「大丈夫、だいじょうぶ」
ぽん、と、ひいなは花乃華の背中を叩く。かくん、と、花乃華はせき込むみたいに背中を丸めた。前のめりになった頭をくるりとこちらに振り向け、睨む。
ひいなは、微笑みかける。
「いっしょに助けよう、美鈴ちゃんのこと」
花乃華ひとりでも、ひいなひとりでもない、ふたりで。
一瞬、花乃華はきょとんとした。その表情が、すぐに笑みに変わる。
「そうだね。仲間だもんね、わたしたち」
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