うす紫のバラの下

 青い月のひかりも届かぬ奥深くぬばたまの闇より出でた人影が足早に柱廊を横切った。


「あら王子、そんなに急いでどこへ」


 天使か悪魔か白いワンピース姿の可憐な少女は亡霊のように儚い。


「礼拝堂へ」

「あんな招待状気にしてるの。きっと誰かがオフィーリアのふりをしてるだけ。相手しちゃだめよ。どこにねずみが潜んでいるかわからないもの」


 王子にまとわりつくようについてくる少女の足元はおぼろげに月の光を遮ることがない。


「はは。よく言うよ。The devil hath power

To assume a pleasing shape」

「なあに王子」

「悪魔は相手の気に入る容姿で現れると聞くが。キミもあやかしの類いでは。そうやってオフィーリアの姿で僕を惑わして」

「まあ酷いわ王子。私あなたに刺されて本当に悲しかったんですから」


 少女が裾を翻すと白いワンピースは脇腹を中心に真っ赤に染まった。


「いっそ血まみれのままでいましょうか。殿下が私のことを一瞬たりとも忘れられないように」

「悪かったよ」

「ふふ。王子大好きよ。Remember me」


 カツンカツンと足音を響かせながら王子はそれとなく少女の足元を盗み見た。

 大きな鎌を振りかざした死神にも似たシルエットが足音を立てぬ少女の背後に細く長く伸びていた。


「大好き、ね。もちろん僕も覚えているよ。忘れたりなんかするものか。Remember thee」


 王子はもう一度ふっと冷たく笑うと夜空を見上げた。教会の尖塔に月が懸かろうとしていた。


「ああ、今宵の月はいつにもまして鮮やかだ。ほんとうに、真っ青」



  ◇



 天井に輝く円形のステンドグラスを見つめながらチアキは思った。月の光を纏って五彩に浮かび上がるうす紫のバラはなんて美しいんだろう。まるで影絵の世界に現れた一輪のバラのようだ。いや歯車か。やっぱり車輪かな。

 とりとめのないことを考えては結局チアキの心はうす紫のバラに舞い戻るのだった。


「見惚れてるとこ悪いんだけど」


 食い入るようにバラ窓を見つめるチアキの肩をポンと叩くと少年は可笑しそうに肩を揺らした。


「王子が来る前に少しばかり筋書きの確認を」

「あ、うん。え、なんで笑ってるの」

「いや何でもないよ。じゃあちょっと耳かして」


 どうして人は天を見上げるとき口がぽっかり空くのかなとしょうもないことを少年が考えていたことなどチアキは知る由もなかった。


「じゃあ、そんな手筈で」

「出来るかな。そもそも来るかどうかも」

「いや来るでしょ。あんなことがあってオフィーリアから招待状が来たら。芝居好きの王子だし」

「でも」

「大丈夫大丈夫」


 少年は励ますようにチアキの肩をバシバシと叩いた。


「そういうわけで、ハムレット王子が復讐を誓ったきっかけは自称・先王の亡霊から叔父の残忍非道な殺人の話を聞いたから。Revenge his foul and most unnatural murder」

「でもふつう亡霊の話をそのまま信じて復讐まで誓うかな。無念を晴らせ復讐しろ私のことを忘れるななんて息子に言う?」

「まあそこはメランコリアと評されるハムレット王子だから。ある程度は疑ってたんでしょ。気が狂ったふりまでして油断させて証拠を掴もうとするほどには。結局確証が得られず劇中劇でひと芝居打つことにしたわけだけど」

「あ、ねずみとりのこと」

「そう。先王殺しそっくりの劇を役者たちに演じさせて真犯人の反応を見てみようという」

「えっと。先王の死については噂があったんだよね。中庭で昼寝してたところを毒蛇に咬まれて……あれ、なんだっけ」


 チアキは記憶をなぞるように顎先を指でトントンと叩いた。


「あってるあってる。それで先王の亡霊曰く、その毒蛇はいまや王妃まで奪い王冠をかぶっているぞと。The serpent that did sting thy father's life Now wears his crown」

「うわー」

「王冠をかぶった毒蛇つまり叔父のクローディアスはねずみとりを観て思惑通りの反応を見せた。ついには芝居を途中でやめさせるほど」

「怪しすぎる」

「O my prophetic soul! My uncle! やはりあの叔父が、というのがハムレットの率直な気持ちだったろうね。そもそも流れとしては先王が亡くなったら息子のハムレット王子に王位が継承されるはずだったんだから。そりゃ言いたくもなるよ。The time is out of joint: O cursed spite, That ever I was born to set it right! この世の関節がはずれてしまった。なんてこと、それを正すために生まれてきたなんて!」

「いるよねたまに毒蛇みたいな人。おかげで何度人間不信になったことか」

「ははは。いろんな人がいるからね。でも優しくて信頼に足るような人も少しだけど確実にいるから」

「そこは沢山いるって言ってほしかった」

「そんな嘘をついて人をたぶらかすような真似僕にはできないよ」


 白々しく胸の前で両手を小刻みに振っているのはムリムリとでも言ってるつもりだろうか。内心呟きながらチアキは黙って少年を見つめた。


「そんな熱い眼差しを向けられても」

「いや違うから」

「でもまあ難しいとこだよね。Love all, trust a few, Do wrong to none」

「えーと、ハムレットの台詞?」

「いやこれはシェイクスピアでも別の作品。すべてを愛し、少なきを信じ、何人にも悪をなすことなかれ」


 チアキはお喋りするうちに確信したことがあった。どうやらこの礼拝堂に来てから朧気だった記憶が徐々によみがえっているような気がすると。


「じゃあ最後に約束」


 少年はおもむろに小指を差し出して言った。


「約束?」

「うん、sub rosa」

「スブロサ?」

「うん。ラテン語にそういう言葉があって。薔薇の下で交わされた秘密は守られるって意味。シェイクスピアもたしかラテン語は一通り身につけてたはずだからよしとしよう」

「よしと言われても」

「“All's Well That Ends Well”」

「え?」

「さっきの台詞の作品『終わり良ければすべてよし』だった」


 うす紫のバラの下少年たちはゆびきりをした。まるで秘する花のごとく五彩のバラは天井で神秘的に煌めいた。

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