月がとっても青いから

 螺旋階段のさきにあったのは、いちめんの花畑でした。


「なんて……なんて……美しいんでしょう……」


 甘い香りにさそわれて、花畑にはそれはそれは美しい青い蝶がたくさん飛んでいました。

 青い月にてらされたすみれ色の花々はよくみれば、白い花びらをまとっておじぎでもするように可憐にかしいでいます。まるで今宵限りの命であることを知っているかのようです。

 きっと声も出さずに夢中で見つめている私を見たら、あなたはこう言って笑うのでしょうね。『そんなに見たかったなら早く言ってくれればよかったのに』と。

 なごりおしいのは、最後にあなたの美しい瞳が見られないだろうということ。そんなことしてしまったら、また私は泣き出してしまってきっと言いたいことも言えないままでしょう。


「どうして世界はこんなに美しいのでしょう……」


 この胸の痛みを、いったい何と呼べばいいのでしょう。私にはわかりません。でもきっとかすり傷のようなものでしょう。いずれ消えてなくなるときがくるかもしれません。

 でもなぜでしょう。かすり傷のはずなのにさっきから拭っても拭っても涙が止まらないのです。


「どうして……」


 このままずっとこうしていられたらいいのに。いっそこのままあなたと一緒にどこか遠くへ行ってしまいたい。あの青い月まで行けたら、誰も追っては来られないでしょうか。どうしてせっかく出会えたのにまた別れなければいけないのでしょう。

 それでも今は思うのです。こんな役やりたくないとすら思ったこの命。いまは宝ものを見つけたときのようにうれしくてしょうがないのです。


 きっとあなたは知らないでしょう。私があなたに会えてどれだけ嬉しかったか。あなたのその真っ直ぐな優しさにどれだけ救われていたか。

 知っていましたよ。螺旋階段を駆け上がりながら私に息切れを気づかれないようにときどき笑ってはごまかしていたこと。私の最後が近いことを知っていながら知らないふりをしていてくれたこと。

 でも口には出しません。こんな長台詞、やっぱりあなたに聞かれたら恥ずかしいですから。


 これも天国からの計らいでしょうか。青い月に照らされて、すみれ色の花畑には私たちの影絵があらわれました。影絵は細く伸びて、まるで何かの影絵芝居を観ているようです。

 これなら最後のお別れも泣き出さずに伝えられるかもしれない。私は最後に大好きな彼をうしろからぎゅっと抱きしめると、彼の胸ぽけっとからばらをそっと抜き出して、大きな背中を思いきり蹴りました。



  *



「うわッ」


 不意に背中を思いきり蹴られて、僕は思わず花畑につんのめった。


「急に何する――」

「振り向かないで!」


 スミレ色の花畑でカエルの影絵が息も絶え絶えに声を張り上げた。


「言ったでしょう。あの線を越えたら振り向いちゃ駄目だって。何が起こるか、わからないんですから……」

「でも――」

「最後くらい、格好つけさせてください」


 カエルの影絵は舞台の上の役者のように軽く会釈をすると、僕の背後から呟いた。


「さっきの話、信じます。私のことを知ってると」

「え……でもそんな曖昧なこと。そもそもいつのことかもはっきり思い出せないのに」

「時間など、問題ではありません。夢の世界に過去も未来もないでしょう。すべての瞬間は同時に存在している」


 カエルの影絵は天に向かって弧を描くようにスカーフを投げると、反対側の手で受け取った。


「前と後とを順に見て、物語を紡ぐ力を理性と呼ぶなら、時間とはまさにその神のような理性のなせるわざでしょう」


 カエルの影絵は天を仰いだ。


「ならば私はその時の流れに、未来への祈りを託しましょう。あなたに会えて本当に本当に、嬉しかったから」


 カエルの影絵は蝶ネクタイを直す仕草をして、役者のように朗々と喋り出した。

 

「此処は光と闇の集う場所。宇宙のどこを探したって此処ほど心惹かれる場所は二つとありません。生まれ変わり死に変わり、いのちを繋げて――」


 カエルの影絵はスカーフで円を描いた。


「貴方に出会えたこの命、私は愛してみせましょう。生と死は同じ道の両端なれば。この胸の痛みすら、私は愛してみせましょう……」


 カエルの影絵はいつの間に取り出したのか薔薇を愛おしそうに抱きしめた。


「けれど今はしばしのお別れ。名残惜しくも芝居の終わり。……Farewell……さようなら……さようなら……。ままならない現実に、未来への祈りを重ねて紡いで――」


 カエルの影絵は天に向けて腕を伸ばすと、ふたたびスカーフで弧を描きながら紳士のようにお辞儀をした。


「ごきげんよう」

 

 すると青い蝶が飛んできて、カエルの影絵の手の甲にとまった。


「ふふ、それもいいですね。では受け取ってください。私から……あなたへ…………」


 カエルの影絵は青い蝶を差し出すと、重力から解放されたようにふらっと傾いた。

 足元から崩れ落ちるカエルの影絵に、僕はたまらず振り向いてしまった。


 さっきまで誰かいたはずの場所に、スカーフと薔薇がストンと落ちた。

 すると青い蝶が飛んできて、僕の手の甲にとまった。

 不意に涙が込み上げて、僕は思わず呟いた。


「ありがとう」


 ただ込み上げる胸の痛みだけが、そこにいたはずの小さな愛しい影を感じさせた。


「誰か、いたはずなのに……」


 我に返って見わたすと、羽を休めていた青い蝶たちが一斉に夜空に舞い上がった。

 ほんのり青い燐光を纏ってどこまでもどこまでも、羽を休めた蝶たちは、夜空に螺旋を描きながら遥か遠くへ舞い上がっていった。

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