The Bard of Avon
人混みに流されるまま歩いていると、なにやら広場の中央近くから金属弦を弾くような音色が聞こえてきた。
「あ、ちょっとそこのオフィーリア!」
間近から男性の声がして、いったい女性を大声で呼び止めるのは誰だろうと見てみれば、口髭をはやした紳士のような人がこちらに向かって手をヒラヒラとさせていた。
丈の長いジャケットは縦に二つ並んだボタンがキッチリと留められ、脇には小さな竪琴を抱え、口髭を軽く撫で付けている姿は粗野とは真逆のどこか洗練された知性を感じさせた。
オフィーリアなる女性を探そうと思わず振り返ろうとする僕に、男性は少し大きめな声で呼び掛けた。
「君だよ、君」
どう考えてみても僕がオフィーリアじゃないことは確かなのだけれど、先ほどからこの男性と視線がバッチリと合っているのだから余計に意味がわからない。
「え……もしかして僕に向かって喋ってます?」
「そうですとも」
知的な紳士は笑顔で頷いた。
「えっと……冗談でしょう?」
返事をしても男性は無言で熱い視線を送ってくるだけだった。
「あの僕……オフィーリアじゃありませんけど」
「いやいや――」
ノンノンと人差し指を小意気に振って笑いかけると男性は僕の胸ポケットを指差した。
「その薔薇の花。君、あの芝居小屋へ行くんでしょう?」
どうしてわかったんだろうという驚きよりも、どちらかと言えばただただ不信感が募っただけだった。
「あそこではいつも薔薇を貰った人がオフィーリア役を演じるんだよ。だから今宵のオフィーリアは君」
「いやあの、僕は少し覗いてみようかなってだけで……そもそもさっきから人のことオフィーリアオフィーリアって、何なんですか」
「戯曲『ハムレット』に登場するヒロイン。君にその気があろうとなかろうと今宵のオフィーリアを演じるのは結局君になるだろうね。そういう筋書きだから」
筋書きって言われても……。さっきからこの人は何を言ってるんだろう。そもそも僕演劇なんてものはやったことも観たこともないんだけど。そう言えばここは夢の中だったっけ? それにしても夢の中でも強引すぎる。よし、あまり相手するのはやめておこう。
「ちょっと待った!」
またもや引き止められて僕は思わず憤慨した。
「もう、何なんですか」
「一つだけ。同じ人間に生まれたよしみでこれから舞台に立つ君に忠告させてよ」
男性は熱い視線で僕を覗き込んで言った。
「たとえば誰かが君の小舟に乗り込んできたとして、その声に耳を傾けるだけならまだいい。でも最後の最後、君の舟の操縦席だけは手渡しちゃいけないよ」
どこか詩的な言い回しばかりするこの人の言葉は相変わらず冗談にしては何のことかよくわからなかったけれど、うって変わって真剣な眼差しに僕は思わず戸惑ってしまった。
「奴らは一度ショーが始まったら命尽きるまで決して手を出さない」
男性は遠くに見える芝居小屋と思われる建物を指差した。
「奴らはあの〝天国〟と呼ばれる天井近くの観客席からただ毎晩ショーを眺めるだけだ。たとえ君がどんな悲劇の中にあってもショーを止めたり直接助けてはくれない。まぁ間接的にはあるかもしれないが。なかにはそれを見守ってるんだと言うやつもいる。だけど私に言わせれば――」
とうに〝一つだけ〟の域を越えているなぁと思ったけれど、どこか自信と傲慢さを併せ持つ言葉の続きがなんとなく気になって、僕はそのまま黙っていた。
「あそこには良心なんてものは何もない。あるのは少しばかりの神経とむせかえるような狂気。善悪も正義も道徳も、あらゆる人間の情によるものさしはあそこでは何の役にも立たんでしょう。古の劇作家がgod-like reasonと呼んだその神のような理性の他には何もね」
そこまで一気にまくし立てると、男性は天を見上げてどことなく切なそうな顔をした。
「結局のところ、私は自分の人生を愛しているんですよ。たとえ酷い最後を遂げた悲劇であってもね。私は悲劇を愛している。それでも心のどこかで期待せずにいられないのですよ。そんな筋書きや運命などはねのける、胸のすくような喜劇をね」
そう言ってどこか詩的な紳士は爽やかに笑った。
「ところで君は悲劇をお望みで? あるいは喜劇?」
いや、僕にはいったい何のことかよくわかりませんと返事を濁して早々に立ち去ろうとしたけれど、なんとなくその人のことが気になって別れる前に一言だけ尋ねた。あなたは一体誰なんですか? と。
「私? 私は……そうだな、a bard。どこにでもいるただの吟遊詩人ですよ」
別れ際、吟遊詩人はもう一度爽やかに微笑むと小さな竪琴を弾きはじめた。
強引さとは無縁のその素朴で透明感のある音色は郷愁を誘い、あてもなく歩き続ける人々を優しく包んでは闇夜に儚く散った。
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