第四章

イマジナリーライン

「最近月がやたらきれいじゃない?」

「ほんとにねぇ。今日はスーパームーンなんですってよ」

「スーパームーン? なんだかよくわからないけれど。来年はきっとすてきな一年になりそうね。だってあんなに綺麗なんだもの」

「あら気が早い。でもほんとに、綺麗ねぇ。そう言えば今日あのカフェの前を通ったんですけれどね」

「あら、あの街のはずれの?」

「ええ、あそこのマスターその手の話に詳しいでしょう? それで通りついでにいろいろ聞いてみたんですよ。そしたらちょうどカフェのラジオから今夜は雲一つない晴天になるでしょうって。きっと新しい旅の始まりにはうってつけよ」

「あら、どこか旅へ出るの? いいわねぇ」

「いえ、どこへも行きやしませんけれど。ただ言ってみたかっただけですよ。だって旅へ出るには絶好の夜でしょう。昔から決まってるじゃない。出発は晴れの日がいいって。今夜はどんな願い事もきっと叶う気がするわ。だってあんなに、月が綺麗なんですもの」



  ◇



「……ここは……どこだろう……?」


 息も絶え絶えになって追いかけていた人影を見失い途方に暮れていると、暗闇の向こうから何やら陽気な声が聞こえてきた。


「ようこそおいでくださいました。此処は光と闇の集う場所。宇宙のどこを探したって此処ほど心惹かれる場所は二つとありません。夢は束の間、こころゆくまで、お楽しみください」


 どこか芝居がかったその声は、なんだかつくりもののように感じられた。

 

「――はい、入場料ですか? ああ、それでしたらご心配にはおよびません。あなたがたはすでにその資格をお持ちですから。ええ、確かにお持ちですよ。はい、いまなんと――資格ですか? そうですね、ちょっとばかりあなた様の夢を拝見させていただきたいのです。ええ、ほんの少しばかり。はい、拝見するだけ――」


 どうしよう……。僕は訳もなく焦り始めた。


「もし、そこのお方」

 

 気づけば僕はどこかの移動遊園地の前に立っていた。

 声の主の姿が見えずにキョロキョロしていると、何やら入場口らしきところから小さなカエルが身を乗り出して言った。


「こっちです、こっち」


 カエルが喋るなんて世も末だなと内心呟いて、ああそうかここは夢だったのかと今さらになって気づいたことに少し驚いたけれど、いまとなってはここが夢だろうが現実だろうがどうでもよかった。


「ようこそおいでくださいました」


 カエルは紳士のように深々とお辞儀した。


「ここより先は夢と狂気の入り混じる境界線も曖昧な幻想の世界。目まぐるしく回転する世界ではあなたの意志だけが頼りです。どうぞ、お気を確かにお進みください」

「あー……そうなんですか。じゃあ僕……やっぱりやめときます」


 引き返そうとする僕をカエルはなおも引きとめた。どうにも押しの強いカエルは苦手だ。


「おや、本当にいいんですか?」

「え、何ですか?」

「あなたはいま夢を見失っているようですから。此処で遊んでみるのも一興かと。思わぬところで夢に出くわすかもしれませんよ」

「いや、でも――」

「魔法の国の劇作家もこう言ってるじゃないですか。What is a man? と。人間とは何でしょうね。人生のすべてを眠って食べることだけに費やしたなら、確かに彼の言う通り獣と同じなのかもしれません。でもその欲すら失ってしまったら? あらゆる欲を失った獣はどうやって生きていったらいいんです? 私は彼らの狂気すら羨ましい」


 そう言って、カエルは活気溢れる移動遊園地を眺めた。

 闇夜に浮かび上がる遊園地は色とりどりのイルミネーションで彩られ、どこもかしこも夢と活気に溢れていた。――


「夢などなくたって堂々と地に足つけて歩けばいいんです。いずれ用があれば夢の方から勝手に近づいてくるでしょう。おっと、この線を越えたら決して振り返ってはなりませんよ。何が起こるかわかったもんじゃありませんからね」


 カエルは足元に横たわる果てしない一本の線を指差しながら言った。


「さあ、お急ぎください。日が暮れるまえに――」


 とそこまで言うとカエルは急に辺りをうかがうようにキョロキョロとして、ともだちに内緒話でもするようにひそひそ声で続けた。


「べつにここには日暮れもなにもありませんけれどね。ただそう言って見たかっただけなんです。どの星のみなさんも、日暮れの美しさというものを一度は見てみたいんだそうですよ。あなた方の星には移り変わるものがたくさんあるんでしょう? 私も一度でいいから、あの青くて丸い美しい星へ行ってみたいんです。みんなここは宇宙のさまざな夢が集まる最高の聖地だなんていいますけれど、ずっとずっとここにいる私にとってはどれもこれも、日常の一つにかわりないんですから」


 すぐ後ろから誰かの咳払いが聞こえて、小さなカエルはまた任された役を思い出したようだった。


「おっと、失礼しました。それではこころゆくまでお楽しみください。あ、そうそう。ひとつ言い忘れておりました」


 小さなカエルは蝶ネクタイを直しながら、まるで芝居小屋で朗々と喋りつづける役者のように続けた。 


「光と闇の出会うとこ、いつも光溢れる場所ばかりとは限りません。なにしろ入り混じっていますから……。どうぞ道を見失いませんように、しっかりと、前を向いてお進みください――あぁ、前がどっちかわからない? ご心配には及びません。あなた様の向いてる方が前ですよ」


 流されるまま入場してしまったものの、今はどことなく何かを期待している自分がいるのも事実だった。

 カエルはまた新しく訪れた客を夢の世界へ誘っていた。


「ようこそ。どうにもあなた様の夢はきまぐれなようですね。いやぁ夢はいいものですね。夜道を明るく照らしてくれますよ。それはもう眩しいくらいです。――さあ、急がないと日が暮れてしまいます。それでは、素敵な夢を」

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