9.八月二十六日、夜

 コンビニとファミレスのバイトを梯子し、体調が良かったので残業もした。

 夜中日付が変わる頃に職場を出た。インターチェンジ手前、周りは工場ばかりなのに、今日はやけに明るい。仰げば満月が煌煌としていた。街灯が無意味にすら感じ、月夜に提灯の意味を見る。

 夜半の静寂も相まって、僕は機嫌よく墓へのペダルを漕いでいた。風もなく、本当に静かな宵だ。僕以外の人間など存在しなく思える。心地良い。

 アパートに続く通り、遠目から、駐車場に光る真っ赤な車が見えていた。

 僕のアパートの住人はほとんどが貧乏学生もしくは低賃金労働者だ。駐車場を契約している者など居ない。誰か知人でも泊めているのだろうか。それにしても違和感が拭えない。

 駐車場に近付くと違和感の正体を知った。赤いそれは、丁寧に管理された高級車だった。猛々しい馬のロゴ。庶民がいくら背伸びしたって買える代物ではない。

 思わず自転車を降り、磨かれたボディに見惚れる。曲線と直線の交錯美。表面は月光を弛まず反射する。眩しいくらいだ。

 と、不意に助手席のドアが開いた。車以上の赤を纏った女性が飛び出す。

「陽石さぁん!」

 裏返った声と共に、安蘭が僕に縋りついた。思わず自転車から手を放す。錆びかけのボディがアスファルトに叩きつけられた。

 耳元で、う、ぐす、と小さく鼻をすする音。首に落ちる冷たい雫。

 安蘭は泣いていた。

 安蘭が泣いている。女の子が、自分を抱いて泣いている。持て余した両腕が硬直していた。どうすれば良いか分からず、ただ立ちすくむ。

 車の運転席が開いた。出てきたのはジャケット姿の青年だった。

「安蘭、三十分で迎えに来るよ」

 青年が言うと安蘭は頷いた。顔のすぐ横で揺れる髪の香り。甘い。

 青年は僕を一瞥すると運転席に戻って行った。刺すような、殺意さえ見える視線だった。

 車は微かなエンジン音を立て、眠る街に走り去った。

 駐車場に二人になってなお僕は固まっていた。

 安蘭は延々僕を抱き締めたまま泣いている。その声がだんだん低くなり、唸りに、そして啜り泣きに変わるまで僕はただ突っ立っていた。初めて間近に嗅ぐ女の子の柔らかな香りと夜の匂いが、目の前で混ざるのを見ていた。誰かが起きて僕らを見に来ませんようにと祈っていた。

「ごめんね」

 かすれた声で安蘭が囁いた。迷惑極まりないのは確かだが、触れる距離で泣かれれば僕だって同情する。

「どうしたの?」

 耳元で問うには少し声が大きすぎたかもしれない。加減が分からない。

 安蘭は時々しゃくりあげながら、泣いた理由を説明した。業界用語に解説を求めながら聞くには、どうやら、クライアントに提出した新作を却下されたらしい。求めていたのはこんな物ではない、と。

「やっぱり貴男がないと良い作品できないよ! お願い、会わせて」

 僕の背を掴む手に力がこもる。胸と胸が触れ合う。微かな柔らかさに動悸がしてきた。どうしようもなく彷徨わせた目に飛び込む半月。その眩さに目を細める。

 安蘭は淡く囁いた。

「見捨てないで……」

 震える語尾に何かが疼いた。

 奥歯を掻くような嫌悪感。喉を焼く不快感。脳裏に過る影。おぞぞと深くから這い上がる、理由の分からない憎悪。

 安蘭を突き飛ばしたい。

 と、不意に視界が明るくなった。車のヘッドライトに照らされ、僕は腕で目を覆う。照らされるのがあと数秒遅かったら、僕は何をしていたか分からない。

 駐車場に高級車が滑りこむ。

 安蘭は僕の肩から顔を上げた。目が真っ赤だった。

 惜しむように僕の胸に指を這わせる。僕は身震いした。快と不快の綯い交ぜになった震えだ。自傷に似ていた。

 安蘭が助手席に戻っていくのを、生気を吸われたようにただ見ていた。

 安蘭が引っ込むと運転席から先程の青年が出てきた。僕の前に来て一礼。

「初めまして。安蘭の『夫で』マネージャーの酒匂と申します」

 名刺を出す酒匂青年。条件反射で情けなく頭を垂れながら両手で受け取る。

 紙片に印字された名を見た。酒匂 洸。お茶の時に彼女が話していた名前。公私共にパートナーである事を強烈に主張しながら、業務用の微笑みで、笑わない瞳を僕に向け、酒匂青年は言う。

「安蘭がご迷惑をおかけして申し訳ありません。しかしインスピレーションを得るために陽石様がどうしても必要だと申しておりまして、どうか今後も安蘭と仲良くして頂けませんでしょうか」

 言いながら懐から封筒を出してきた。その厚さを見、僕は反射的に首を横に振る。

「お金は要りません、僕はあまり」

「勘違いするなよ」

 慇懃な態度から一変。威嚇が僕を突いた。

 怯え、僕は言葉を飲み込む。顔は相変わらず微笑みを貼りつけているが、雰囲気だけで充分僕をすくみ上らせる。

「ビジネスなのを忘れるなと言っているんだ。お前は安蘭に金で買われた接待者だ。醜悪なガキに安蘭を逢わせるなど虫唾が走るが、安蘭の芸術にはお前が必要で、俺にはもうどうしようもない。仕方ない。しかし、安蘭の純潔に手を出したら」

 封筒の白が一閃。僕の横面を叩いた。

 乾いた音が駐車場の静けさを破る。頬を裂く痛み。

 突然すぎて受け身も何も取れなかった。

 地面にくずおれると、足元に封筒が落ちた。萎縮しながら見上げる。

 酒匂青年は背中越しに捨て台詞を吐いた。

「汚い」

 事実だ。僕は汚い。僕は醜い。何度も何度もたくさんの人に無言で態度で言われてきた。言葉で指摘された所で、なんともない。なんともない。なんともない。

 僕は目を伏せる。

 そのままエンジン音が遠のくのを待った。早い心臓の音が、荒い呼吸の音が、静まるのもそのまま待った。夜明け前の冷たい静寂がこの耳に満ちるまでひたすら耐えていた。

 ゆっくり瞼を開く。

 少ししなった封筒が横たわっていた。純白に、名刺と同じ幾何学図形がプレスされている。月影に浮かぶそれが、酒匂の字を崩した物だと気が付いた。

 僕は封筒を拾い上げる。数ミリ厚のそれをデニムのポケットに捻じ込む。安蘭、金。どちらだろうと拒絶すれば頬の痛みでは済まされないだろう。酒匂青年は僕の目を醒まさせた。

 僕には最初から選択肢など無かったのだ。

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