7.八月二十二日、午後
安蘭は僕を学食に連れこもうとしたが、女の子と二人で居る所を見られるのが嫌で拒否した。明らかに僕が浮いてしまうのでお洒落なカフェも却下した。
ファミレスの隅、早々とパスタを食べ終え、ドリンクバーのジュースを吸い続ける僕。安蘭は果物てんこ盛りなパンケーキをナイフで裂いている。さっきまで何度も電話を受けて忙しなく外に出ていた。芸術家って案外忙しいものなんだな。
「体調はどう?」
「今日は大丈夫です」
「そう、良かった」
安蘭が華やかに微笑む。些細な相槌に過ぎないはずの台詞を、まるで本心のように言う。その態度にまだ慣れなかった。態度なのか演技なのかも判別できていない。
僕は話題を逸らす。僕にとって初対面同然の安蘭に質問事項は尽きない。
「クラークさんの出身はどちらなんですか?」
「ずっと言おうと思っていたけれど安蘭で良いわ。そっちの名前はあまり表に出したくないの」
苺を割りながら奇妙な要求をする安蘭。真意は計りかねるが、反抗するほどの事でもない。僕は頷いた。
「出身はカリフォルニアね」
「アメリカ人なんですか?」
「うーん、わかんない」
考える時間を作るように、苺の欠片が口へ運ばれる。僕はまずい質問をしたと勘付いていた。フォークが不自然にパンケーキを寄せたり返したりしている。
「両親はカリフォルニアで働いているだけの日本人だった。けれど、私と父は血液型が合わなかった。離婚になって、どちらも私を引き取らなくて、施設に送られた。別に珍しい話じゃないでしょ」
最後の一言で何を護ろうとしたのだろうか。彼女がパンケーキの端を裂く。僕もまた気まずさを飲み下すべく、グラスに口をつけた。
安蘭と呼ばせたいのも、自分の生まれに疑問を持っているからなのだろうか。思い返せば自己紹介の時も彼女は自分の姓を名乗らなかった。
彼女は矛先を逸らすように問う。
「貴男のご両親はどんな人なの?」
「……。あまり仲良くないんです」
噛み合わない返答をした。僕から距離を置くように過ごしていた両親の性格を、僕はよく知らない。他に答えようがなかった。実家の記憶が、内容を伴わず冷たさだけ蘇る。
「そう」
彼女は短く答えて会話を切り上げた。
気まずい沈黙。僕のグラスで氷が崩れ、透明な音がした。入店ジングルがやけに大きく聞こえる。
安蘭の携帯が震えた。
「ごめんなさい。電話に出てくるわ」
席を立つ彼女の後ろ姿を見送る。ピンヒールの上で真直ぐ伸びた背筋、薄いストールに包まれた細い肩。そこには何が圧しかかっているのだろう。自動ドア越し、電話を受ける安蘭を眺める。安蘭は嬉しそうに笑っていた。よい報せでも受けたのだろうか。真っ赤なフレアスカートが夏風に靡いている。
やがてご機嫌な安蘭が席に戻ってきた。紅茶を一口含み、微笑みのまま言う。
「両親のこと聞いてごめんなさいね。遠くに健在なのは知っていたからつい」
興信所を使って、ですね。僕も野菜ジュースを飲んでから応える。
「いえ、大丈夫です」
「貴男のこともっと知りたいわ。今度はもっとよく調べさせるね」
いくら金で他人を使役しようと、僕の心に入れはしないのに。皮肉を込めて吐き捨てる。
「興信所じゃ調べられないこともありますよ」
安蘭はバッグから財布を取り出し、僕の手を掴んだ。
「そういう交渉じゃないです」
ちょっと残念そうに財布をしまう安蘭。そっちより先に握った手を離してほしい。
「言い忘れていたけれど、両親に捨てられたからって不幸だった訳じゃないわ」
唐突な語り口に僕は相槌を打ちそびれる。
「私は幸せだったわ。施設では仲のいい兄弟がたくさんできたし、私の才能に気付いて親になりたがる人もたくさんいて、私の為に施設の職員たちも必死に審査してくれた。私が引き取られる時みんな泣いた。だから同情はいらないの。生みの親の話をしたくないだけ」
すっと心に氷の膜が降りるのを感じた。勝手に彼女は孤独だと勘違いし、僅かだけ感じていた親しみが、同情が、その温もりが去って行く。僕は握られた手を引き抜き、自分の膝に戻した。
そんな僕に気付かず、彼女は身の上話を続ける。
「私を引き取ったのは日本人の芸術家なの。
欠片の謙遜もなく言い切る。業界では余程有名なのだろう。僕は芸術に無縁の人生を送ってきた。多分すごい事なのだろうが、残念ながら感嘆できない。
「浄さんから芸術の英才教育を受けて育ったわ。才能だけでやっていける時代じゃないからって、息子の
「夫?」
思わず聞き返す。無意識に彼女の左手を盗み見た。指輪はない。安蘭はさも当然のように繰り返す。
「うん。夫。
透明な感謝が突き刺さる。燻っていた期待は揉み消された。ざわつきを、これは最初から仕事だった、仕事だったんだと宥め宥める。
気付けばグラスを握る手に力がこもっていた。女性に好意を向けられ、無意識に期待していた。自分への失望が痛い。グラスに映りこむ醜く歪んだ顔。そうだ、最初からそんなはずなかったのだ。
「安蘭さん、申し訳ないのですが」
声色の棘に気が付いていた。角を立てぬようにと決めていたのに、ヒビの入ったプライドを守ろうと、僕は彼女に敵意を向ける。
「僕はバイトと学業に忙しいんです。残念ながら安蘭さんと長い時間を過ごすのは大きな負担です。何度も奢らせたり大金を貰ったり、しかも安蘭さんは人妻だ、他人から爛れた関係に見られるかも知れない。止めましょう。契約金は、少し使ってしまいましたが、お返しします」
僕は財布から三万五千円を出して机に滑らせた。裏腹な感情がいくつもぶつかり合い、胸が軋んでいた。
安蘭は机の紙幣を押し戻す。
「契約金なんて口実よ。貴男を助けたくてあげたの。使って」
正直お金は欲しいし、そう言われては受け取るしかない。迷いながらも紙幣を財布に戻す。
ああ情けない。僕はなんて情けない。
安蘭は僕を真っ直ぐ見詰めて言う。
「貴男の邪魔にならない時間と頻度で構わないわ。お金を渡されるのが嫌なら口座に振り込む」
だからそういう問題じゃないんだって。肩から力が抜ける。討論しても仕方なさそうだ。僕は曖昧に濁した。
安蘭は凛と僕を見ていた。その鮮烈は欠片も揺るがなかった。
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