5.八月二十一日、夜、安蘭

「ええっと、クラークさん」

「あれ? そっちの名前知ってるんだ」

 彼女がきょとんと眼を見開く。

 そっち、とは? 疑念を先に出すか回答を先に出すか迷い、後者を選ぶ。

「さっき店員さんがそう呼んで……」

「観察眼が鋭いのね。流石だわ」

 耳から拾った情報に、観察眼とはこれいかに。しかし女性はとても嬉しそうだ。何が良かったのか分からない。

 想定外の反応が続き、僕は圧倒されていた。このままだとペースに呑まれてしまう。思考が明瞭なうちに。流されないうちに。

 僕は咳払いして本題を切り出す。

「クラークさん。申し訳ないのですが、僕は貴女と話した覚えがないのです。僕に恩を感じてらっしゃるようですが、やはり人違いでは……」

「え? だって話したことはないもの」

 やはりストーカーか。

 ノックと共に従業員が二つの皿を運んできた。前菜。前菜のある食事なんて初めてかもしれない。従業員は静かに皿を置く。

「フォアグラのブリュレと夏野菜のサラダでございます」

 僕は動揺を押し殺す。フォアグラ。世界三大珍味のひとつ。普通に暮らせば一生触れることもなかった食材が目の前にある。

 女性がシルバーを取り、僕も鏡のようにそれに倣う。

「食べられないモノがあったら遠慮なく残してね」

「あ、はい、ありがとうございます」

 斜め二十一度の気遣い。女性は朗らかに笑う。

「命あっての物種だもの。貴男のおかげで生きて取れた賞金の食事、貴男が自分で買ったのと同じよ。恐縮しないで好きなようにして」

「賞金?」

 彼女はじっと僕を見た。本当に理解できないの? と問うように。

 僕は目を泳がせ、心当たりを必死に探す。そもそも面識のない人間のバックグラウンドなど、分かるはずもない。

「そっか。御父様を知らない人か」

 合点が行ったとばかりに呟き、彼女はハンドバックを開けた。取り出すは金属の名刺ケース。繊細な彫金がされている。彼女はそこから一枚つまみ上げ、両手で差し出した。僕はバイトの面接よろしく頭を下げながら受け取る。

「私は安蘭アラン。大学生をしながらアーティストをしているの」

 言いながら僕の背後を指さす。僕はぎくりと振り返る。

 壁に大きな絵がかけられていた。机の上に謎の金属片が乗っている絵だ。純白のテーブルクロスの上から、光降る窓に向かいのびやかに手を伸ばす、しなやかな銀。妙な形の金属なのだが、舞台の上の踊り子みたく、さも当然という風情で乗っている。

 そして、立派な木の額縁の傍、画面の左隅には赤い絵の具で『Allan』とサインが走っていた。


 沈黙の中、安蘭の話を整理する。

 安蘭は幼い頃からアーティストとして活動していたが、ここ数年伸び悩んでいた。教養を深める為この大学の語学科に入ってみたものの、相変わらず鳴かず飛ばず悩んでいた。そんな最中、散歩中に僕を見かけ、命を救われたのだそうだ。一番重要なこの件が支離滅裂でよく分からなかった。わざと支離滅裂に話した感じもした。そして僕を題材にした造形が大きな展覧会で賞を取った。また僕を見ながら作品を作りたいから、これからもどうかモデルになって欲しい、と。

「あの、モデルとは具体的には……」

「こうして会って食事やお話しをさせてくれればいいわ。仲良くなりたいの。貴男の輝きを私に分けて」

 僕は口ごもっていた。こうも露骨に興味を向けられるのなんて初めてだ。そもそも僕はモデルになるほど美しくなどない。

 思わず視線を落とす。スプーンに映る、痣に覆われた顔。ぼろぼろの肌。僕は輝いてなどいない。

 まるで最高のモデルに出会えたかのような、彼女の笑顔が怖かった。

 それに結局、いつ僕が彼女を助けたのか分かっていない。微笑みの裏に何があるのだろう。出来ることなら関わりたくない。

 僕の固い表情を見、安蘭は言った。

「お金ならあげるわ」

 何を勘違いしたのかそう言った。

 でも、そうだ。金を貰えるならそれは仕事だ。

 金は足りてない。一日二食、下手をすれば一食だ。冷房もできるだけ使わないようにしている。

 デザートのアイス最後の一口を掬いながら、酷く荒れた自分の手が目に入った。ハンドクリームは落ち切っている。しばらく行ってない病院、無くなって久しい薬。買えなかった本のあれこれ。

 それに仕事なら何があっても傷つかずに済みそうな気がした。葛藤を妥協でミルクレープのように押し潰していく。

 僕は頭を垂れた。

「バイトの合間に呼んでください。『お仕事として』食事やお茶におつきあいします」

「ありがとう! 嬉しいわ」

 仕事を強調したのに、彼女は本当に嬉しそうだ。

 僕は精神に壁を立てる。一緒に喜んだら無防備になってしまう。彼女の表情から注意を逸らそうと、僕はスプーンを口に含んだ。ラズベリーの酸が口を鼻を満たしては散る。

 僕が食べ終わったのを見ると、彼女は財布を取り出した。

「じゃあ、契約金ということで」

 無造作に紙幣を引き抜き、二つ折りにして僕に差し出す。目の前で数えるのは失礼だろうか。僕は紙幣をそのままポケットに押し込んだ。中で折り目が開く感触があった。

 様子を見に来た従業員に、彼女は会計を命ずる。クレジットカードの裏に紙幣が一枚忍ばせてあるのが見えた。それがチップだと分かるのにしばらくかかった。

「お家に帰ったらで良いから、名刺のアドレスにメールしておいてね。会いたくなったら返信するから」

「分かりました。大まかなバイトの予定を書いてメールいたします」

「その必要はないわ。調べれば分かるから」

 僕は何と応えれば良いか分からなかった。惑う視線を名刺に落とす。三ヵ国語で彼女の名が書いてあった。日本語では『酒匂サカワ 安蘭アラン』。英語も『Allan Sakawa』クラークではない。

 店の前で彼女に見送られ、自転車に乗って帰路に就いた。

 ぬるい夜風を切って乱暴なまでにペダルを漕いだ。一刻も早くこの奇妙な空間から抜け出したかった。


 安アパートの墓室に転がり込む。鍵とチェーンを掛けると、やっと自分の世界に戻れた気がした。

「ああああ」

 呻きと共に大きく溜め息を吐く。ベッド、ごわごわなシーツの上に転がる。

 疲れていた。なぜ疲れたのか考えられないほど。あの異様な空間に精神力を吸われた気がした。

 脇腹にこそばゆさが触れる。さっき貰った金だ。戯れにそれを広げてみる。

 嘘だろ。

 一万円札が、七枚。この金額が屁でもないなんて、彼女が獲得した賞金は一体いくらだったのだろう。

 踏み込んだ世界を想うともなく怯えながら、延々紙幣を眺めていた。険しい顔の福沢諭吉が「お前はこれでいいのか」と問うているように見えた。

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