3.八月二十一日、昼

 飲み会の夜更かしが全身を軋ませていた。バイトからシームレスに講義へ転がり込む。教員のしゃがれ声だけが響く講堂は居眠りに最適だった。僕は最後尾の席でずっと船をこいでいた。嫌な夢を見ていたように思う。溺れるような、光を失うような、それでいて乾ききるような。

 やがてチャイムに起こされる。全身嫌な汗にまみれていた。目眩がする。二日酔いでもないのに吐き気が酷い。

 講義室の外へ流れる人波を感じながら、しばらく机に突っ伏していた。バイトまでこのまま休んでいたかったが、よその学科の学生たちが次々入ってきた。僕はふらつきながら席を空ける。

 講義棟を離れ、ビルとビルの間、舗装すらされていない裏道に来た。安っぽいベンチに体を投げ出す。プラスチックの冷たさが全身を舐める。ここは苔むした地面と花を終えた夏椿があるだけだ。夏の日光は届かず、人目も無い。僕は呻きながら腕で目を覆っていた。

「うう、う」

 何分くらい瞼を閉じているだろう。目眩は一向に収まる気配を見せず、むしろ酷くなっている。汗も止まった。動悸ばかりが胸を打って苦しい。深呼吸したいが、上手く息ができない。喉から呻きが漏れる。苦しい。動けない。このままでは……。

陽石ひいしさん」

 不意に、弾むような声がした。僕は重い瞼を上げる。楽しそうなカフェオレ色が目に飛び込んだ。

 昨日の赤い服の女性が、僕を覗き込んでいた。微笑み。視線を合わせたままビニール袋を掲げる。赤いストールがずれ、ノースリーブの肩が露わになった。

「飲みもの買ってきたよ」

 僕が唸りながら体を起こすと、彼女は当然のように隣に座った。スポーツドリンクが渡される。つめたい。手に力が入らず苦戦していると、蓋を開けてくれた。遠慮も忘れ口をつける。

 ああ、僕は喉が渇いていたんだ。喉を流れる甘さに打ち震えるようだ。ドリンクが体の芯から僕を冷やす。指先まで満たさんとばかりに、僕は500mlペットを一気に飲み終えた。止めていた息をぐばぁと吐きだす。

「やっぱり熱中症だったのね。まだあるよ」

 ご丁寧に別なメーカーのドリンクを、開封して差し出してきた。僕は相槌も返事もせずに受け取った。息継ぎをしながら飲み干していく。二本目のボトルが空になるまで僕は喋る事が出来なかった。

「すみません。ありがとうございました」

 肩で息をしながら言う。彼女は答えた。

「役に立てて嬉しいわ」

 その台詞に欠片の偽りもないような、誇らしげな表情をしている。

「講義室で具合の悪そうな貴男を見つけて、追いかけてきたのよ」

 追跡されていた薄ら寒さや、講義をボイコットさせてしまった罪悪感は、もうこの際気にしない事としよう。下手したらあのまま死んでいたのだから。

 女性は僕を覗き込んで訊ねた。

「この後どうするの?」

「講義は諦めて、バイトまで休もうかと」

 多少良くはなったが体が重い。しかしバイトは行かないと。すると彼女は声を張る。

「ダメよ、そんな体調でアルバイトなんて! 調理場は暑いでしょ」

 確かに今日のバイトはファミレスの厨房だ。湯煎の作業が多い。この体調で塩素臭い湯気を延々浴びるのか。言われてみれば、考えるだけで目眩が酷くなる。思案する僕の前で女性はブランド物の財布を振った。

「アルバイトなんて休みなさい。貴男の時間、私が買い取るわ。一緒に滋養のある食事をしましょう」

 彼女は僕の手を取り、その中に万札を押し込んだ。

 そういう問題ではない。そういう問題じゃないんだってば。しかしどうしても拒絶の言葉が出てこない。この手は既に万札をしっかり握ってしまっていた。火照った体に彼女の冷たい手が心地よい。

 どうしよう。

 手指の薬は汗で流れ落ちていた。困惑を隠さない僕に向け、彼女は言った。

「大丈夫。奢るわ」

 僕は再び声を詰まらせた。問題はそこではない。しかし財布の中は緑の紙幣一枚だ。それは、非常に、ありがたい。

 万札の感触。僕は気取られぬよう小さく溜め息する。休む理由ができたと思おう。腹を下したとでも言えば無理に出勤させようとはしないはずだ。

「じゃあ、その、人違いの件も含めてそのとき話し合いましょう……」

「だから人違いじゃあないってば」

 彼女が講義の終わる時間を告げ、待ち合わせの場所を提案する。僕はそれを了承した。

 ついに食事の約束を結んでしまった。

「それじゃあ今晩またね、陽石さん!」

 笑顔で手を振りながら歩き去るヒール。僕は力なく手を振り返す。真紅のストールが空気を孕む。その後ろ姿を見ながら、僕は小さく呟いた。

「なんで名前知ってるんだよ」

 陽石ひいし ゆえ。それが僕の名前だった。

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