殺して曼珠沙華
千住
金
1.八月二十日
大学の中庭で女性が廻っていた。
両腕を大きく広げ、のびやかな表情は子供のようにも見える。緑の万華鏡みたいな木漏れ日を浴び、赤いスカートをなびかせる。木陰を背景に白いシャツ。黒混じりの金髪が揺れる。
ハイコントラスト。
その眩しさに僕は目を細め、瞼に流れた汗を拭う。
気付けば立ち止まって女性を眺めていた。
地上に人気がないとはいえ、中庭はビルに囲まれている。ふと見上げれば、あちこちの窓からも女性に視線が注がれていた。
しかし当の本人はそんなもの全く気にする様子がない。まるで草原の真ん中に居るが如く、晴れ晴れと廻り続ける。長い手足。指先、髪の先、靴の先まで軽やかだ。酷暑を忘れさせる清涼。
何かに似たその姿。そして。
不意に女性が回転を止めた。音も立てずに踵が揃う。慣性に捩じれるフレアスカート。
女性は僕を見ていた。目が合うと微笑んだ。僕は慌てて目を逸らす。
ハンドバッグを持ち上げる気配。葉擦れに混じる靴音。
じろじろ見ていたことを怒られるだろうか。僕は静かに立ち去ろうとする。
と、僕の肩が、強く掴まれた。
「やっと私を見つけてくれた!」
不思議なイントネーション。どこの訛りだろう。思わず顔を上げる。
すぐそこでカフェオレみたいな薄茶の瞳が笑んでいた。長身だ。百七十センチある僕と目の高さが変わらない。はっきりした目鼻立ちが僕を捕える。
「やっと繋がりができた。この日をどんなに待ちわびたかしら! 私の命の恩人、ごきげんいかが?」
命の恩人?
「ひ、人違いじゃあないですか?」
声が引っくり返った。
人違いだと思います、が安直なところだ。僕はこの女性を知らないし、助けた記憶もない。そもそも人助けをする性格じゃない。しかし女性は高らかに笑い飛ばした。
「
確かにそれもそうだが。
逸らした目が、窓ガラスに映る僕を捕えた。がりがりの痩身。ひび割れた唇と手。真夏なのに長袖シャツ。そして顔。半分が火傷に覆われた顔。
それにしたって目の前の彼女を僕は知らない。必死に記憶を探るが、全く身に覚えがない。
そんな僕の様子を気にする素振りもなく、女性は言った。
「せっかくだし今夜食事にでもいかない?」
「え、ええと、今夜は学科の呑み会で」
動揺する僕の手から通帳が滑り落ちた。僕より先にぱっと女性が屈む。通帳を拾い、数字を見やる。
「ほとんど空っぽじゃない」
その通りだが、指摘するのはあまりに不躾だろう。閉口する僕の肩を離し、女性は鞄に手を入れた。
「生活、大変だとは聞いていたけれど……。はい」
女性が通帳と何かを重ねて渡す。
「えっ?」
思わず声を上げる。渡されたのは万札だった。女性は微笑みかける。
「持っていって。今夜あそぶのでしょう?」
「いえ、待ってください。そんな急に、見ず知らずの人に」
「だから見ず知らずじゃないわ。貴男は私の恩人なんだから。ね」
ね。と言われても。
女性はさり気なく万札と共に僕の手を握っている。ハンドクリームで塗り固めた手が恥ずかしく、僕は腕をひっこめた。
まるで万札を受け取ったようになってしまった。押し返したいが、どうにも手が吸いついて離れない。よもや子供銀行券ではないかと視線が何度も模様をなぞる。しかし、滑らかな厚口の手触りは、レジのバイトで日々数えている本物の金だ。
「食事はまたあらためて誘うわ。それじゃ」
「あの」
立ち去りかけの女性が振り向く。見られ慣れた、人慣れした所作。
「あの、やはり頂くわけには」
「少しでごめんなさいね。今はカードしかなくて。あとでまた」
少し? また? 呆気に取られている間に女性は行ってしまった。
赤いスカートが、ヒールの音が遠ざかる。追って返さねば。追いついてこの万札を返さねば。良心が叫ぶのに、僕の足は地に張りついて動かなかった。
頭の整理がつかないまま、惰性でATMコーナーに行った。
この万札を使ってしまえば今夜の呑み代などおろさなくて良いのだ。ATMの前に来てからやっと理解し、でも他人の金を口座や財布に入れてしまうのもはばかられ、僕は万札を握ったままATMそばの壁にもたれていた。
買えなかったあれこれが脳裏をよぎる。まず初回購入特典つきのライトノベル。壊れたお玉。底の擦り切れた靴。しばらく行けていない病院。
清潔で洒落た大学生たちが行き交う。僕は波打った襟ぐりを指先で伸ばす。変に緊張したせいか、汗で全身が痒い。夏の陽を避け、僕は建物の陰に入った。
熱を持った風が壁際を抜けていく。まだ落ち着きを取り戻せない。
「陽石くん? どうしたの?」
聞き慣れた声に目を向ける。千葉さん、学科の同級生だ。穏やかなフリルのワンピースを見ながら、僕は溜め息する。
「少し変なことになって」
千葉さんは首を傾げた。丁寧にカールした髪が揺れる。
「千葉さんは今夜の横呑み、来ます?」
「行かないよ。バイト入ってるの」
「そうですか……」
赤い女性のことを千葉さんに話したかったが、来ないのでは仕方ない。頭の整理がついていず、今ここでは話せそうにない。
それでなくても千葉さんが呑みに来ないのは残念だった。僕が自然に話せる相手なんて、それこそ千葉さんくらいしかいないのに。
「何かあったみたいだね。今度聞かせて」
「ありがとうございます」
千葉さんは淡く微笑み、手を振り去っていった。
僕は仕方なく、あるいは覚悟を決め、万札を財布にしまった。これには手を付けないまま返そう。あとでまた、とあの女性も言っていたし。
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