ピアニスト(2007/11作)

 ピアニストが突然ピアノを辞めた。本当の理由は誰にもわからなかった。

「引退するには若すぎる」と、誰もが口を揃えて彼を引き止めようとした。すでに名声と富を手に入れているとはいえ、彼はまだ30代であり、新人の時代を過ぎて、ようやく安定期に入ったばかりだった。ある雑誌のインタビューで引退の理由を訊かれると、彼は、「ピアノを弾く気がしない」とだけ答えた。このコメントを見た彼のファンや音楽家たちは、ショックと困惑の声を漏らした。

 彼の公式ホームページ上において、ある女性ファンは、「10年間ずっと、貴方のことを想い続けてきました。朝起きると貴方のポスターにおはようと言い。夜寝るときは貴方のピアノに耳を澄ませました。それなのに、突然引退するなんてあんまりです。私の時間を返して下さい」とコメントを残し、彼に絶望感を訴えた。同ホームページには、「辞めないで欲しい」といった声も数多く寄せられており、引退を思いとどまらせるための署名活動まで行われている。さらに音楽界からは、彼に対して厳しい声が上がっていた。某音楽雑誌上の対談では、高名な老音楽家がピアニストの引退騒動にふれ、「最近の若い人はよく解りません。何かあるとすぐ辞めたがる。彼は自由な芸術家のつもりなのでしょうが、とんでもない勘違いだ。彼にはプロ意識がないのでしょうか? 最近こういう輩が多くて困る」と発言し、音楽界、ひいては社会全体に見られる若者の身勝手な行動を憂いた。

 当然、彼の引退の理由にも注目が集まった。指を動かす神経に障害が出た、という説から、愛犬の死にショックを受けたというものまで様々な噂が飛び交った。彼のマネージャーは大手テレビ局の取材に応じ、全ての噂話を否定した上で、「長い付き合いだが、彼の気持ちがわからない。情けないことだと思う。でも彼は、身体的にも精神的にも問題はない。だから尚更わからないんだ」と語り、苦悩の表情を浮かべた。非公開のコメントだが、彼を診察した精神科医は彼のマネージャーに対し、「私ども精神科医の仕事は患者の苦しみを取り除くことであって、本人の気持ちを変えることではありません。彼には苦しんでいる様子が見受けられない。彼はただ、自分を変えようとしているだけなのではないですか?」と語った。マネージャーや関係者たちは、ついに彼の復帰をあきらめた。


 騒動が一段落着いたところで、彼はこっそり旅に出た。街から街へ、国から国へと、ただあてもなく旅をした。初めはセレブらしく飛行機はファーストクラスの席に座り、宿は高級ホテルに宿泊した。それに加えて歓楽街で豪遊三昧を繰り返したため、数ヶ月で資金の半分以上が吹き飛んだ。彼は仕方なく飛行機と宿をミドルクラスに変え、金のかかる遊びを控えることにした。それでも1年後には、資金がさらに半分に減ってしまった。

 その後も彼は鉄道や長距離バスを利用して旅を続けた。できるだけ宿には泊まらず、常に移動し続けることを求めるようになった。移動中は車窓から見える景色をただずっと眺めていた。いつまでたっても代わり映えのしない荒涼とした景色を、何日も飽きることなく眺め続けたこともあった。遠い地平線を眺めていると、しだいに遠近感が失われていき、空と大地の境界線が溶けて彼の中へと流れ込んでいった。そしていつしか彼は景色と溶け合い、景色そのものになっていった。


 彼はある街に辿り着いたのだが、そこでついに資金が底を尽いてしまい、それ以上旅を続けることが不可能になってしまった。異国で路上生活を余儀なくされた彼は、空腹に耐えられず、ゴミ箱に捨てられた残飯をあさって飢えをしのいでいた。そんな野良犬のような日々を送っていると、あるとき路上生活をしている男に声を掛けられた。まだ日が浅い彼を見て憐れに思ったのか、男は彼を仲間に紹介した。

 彼の路上生活も板についてきたある日、彼は仲間と一緒に酒を飲んでいた。仲間の一人がどこからか拾ってきたラジオのスイッチを入れると、音楽が流れてきて、仲間たちはしばらくの間その音楽に耳を澄ませていた。しかし彼は突然ハッとして、酔いが覚めた。このモーツァルトのピアノ曲は、数年前に彼のピアノ演奏を録音したものだったのだ。彼は仲間たちにそのことを話したが信じてもらえず、笑い者にされただけだった。

 その後、彼は何とかして昔の知り合いに連絡を取り、帰国のための資金を調達した。無事帰国した彼は、みごとにピアニストとしての再起を果たした。彼は演奏旅行であの街を訪れ、かつての路上生活の仲間を探し出した。そして彼らを演奏会に招待し、彼が正真正銘のピアニストであることを証明してみせた。


 それから数日後、彼を乗せた飛行機が墜落した。墜落現場は、かつて彼が旅をした景色と似た、どこまでも地平線の続く荒涼とした場所だった。何日もかけて捜索が行われたが、彼の亡骸はついに見つけることができなかった。

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