第88話 最後の試練

シュレーベン城地下

 『秘密の王道』最奥――



「……云うまでもないが、すでに相応の刻は経っている。仮に陽が昇っていたとしても驚かぬほどにはな。――次が最後の試練になると、本気で思われるのだな、姫?」

「私はそう考えます」


 前をゆく弦矢からの問いにエルネは自信を持って頷く。


「その根拠は『神意文字ルーン』で記された【最後】の文字――これに尽きますが、他にも“試練”を立案・建設する立場になって考えれば、悪戯に長すぎる施設は無用の長物と思うのです」

「じゃが挑む者が多い場合、ふるいに掛ける・・・・・・・という考え方もある」


 それも一理あると認めた上で、しかしエルネはその意見を否定する。


「地上ならばともかく、地下にある施設をそこまで労力や費用を費やして大規模化するのは割に合いません」

「確かに。難易度を高めることで調整すればよいことだな」

「ええ。それに……ひとつ思い当たる節がありまして」


 エルネは先ほど目にしたお気に入りの書物を思い浮かべる。


「例の『不退転』の一節に、ジルベストが“成人の儀で学んだことを思い出した”と述べているシーンがあります。

 他の祖先にまつわる書物にも散見されるのですが、どうやら我が大公家には、公に披露していない秘された行事があるようです」

「それがこの“試練”だと――?」

「おそらく。ただ、私でさえ耳にしたことがありません。もしやすると、すでに途絶えた儀式・・・・・・なのかもしれませんが――」


 それでもこうして施設は残っている。

 そして肝心なのは、これだけの施設を維持管理していくために、当然、専用通路が別に設けられているであろうということだ。

 そうして地下に張り巡らされたルートが、今や大公家秘伝の隠し通路として使われることになったのでは――そんな風にエルネは考えていた。

 もちろん、事実は定かでない。


「大公家の者が挑む以上、命を落とす凶悪な仕掛けを施すわけにもいきません。精神的に苦しめたり智恵を試す試練が多いのもそのせいではないでしょうか」


 だから、試練の数も厳選した少数に絞られているはずだと。試練に挑む定員数もおそらく一人であると想像できるから、気力体力の限度を考えても部屋数をそう多く設定するには無理がある――エルネの説明に弦矢達も異論はないようだ。


「まあ、次が最後にしても、やはり一筋縄ではいかぬだろう。そして今度もまた、姫が突破の鍵となるということだ」

「私が……」

「左様。仮に“闇の間”、“天秤の間”、“蔵書の間”そう名付けようか。それら三つの難関を乗り越えるたび――少しづつではあるが、“試練”を与える者からの“問いかけ”が強まっているように思えぬか?」

「これを造った人からの……」


 弦矢の云わんとすることをエルネは真剣に考え込む。

 振り返ってみれば、この試練では単純な気力体力だけでなく、冷静さや観察眼、大公家史に対する知識量など様々な能力が必要とされてきた。

 逆に言えば、挑む者の能力がどれだけであるかが明るみにされたことになる。

 その内面さえも。

 だからこそ、エルネも少しは自分と向き合え、ルストランの別の面も見ようと目を開き、一皮むけたと自信を持てるのだ。

 そしてもっと、自分を磨いてやろうと挑戦する気概が、今こうして胸に湧いている。


「……それが試練を与える者の狙い? 試練を通し問いかけ続けることで、大公家としての心構えをより強く育もうと――」

「それをとくと・・・心得ておくべきであろう。これより先、試練の総仕上げに相応しい何かが、あって然るべきだからな」


 無論、その見立てが正しいかどうかは分からない。それでも、弦矢からの助言をエルネはありがたく受け止める。


「しかと、胸に留め置きます」


 正直、地上がどうなっているか気にはなる。しかし、試練を越えねば先がないのもまた事実。今は目の前のことに集中すべき時なのだ。

 次で最後。

 逸る気持ちを抑え、エルネは両足に力を込めた。


 ◇◇◇


 通路奥には、もはや馴染みとなった感のある金属扉があった。心得た弦矢が扉を押し込み、エルネ達は慎重におそらくは最後であろう部屋を訪れる。

 頬に感じるひやりとした空気。

 心持ち、地下ならではの圧迫感が薄れたような。

 はっきりと言い切れないのは、明かりが心許なく部屋の全体像を把握できないためだ。

 “蔵書の間”と同様、扉を開くと共に『魔導具』による明かりが灯ったのだが、光源が石床側に集中しているせいで、その光が天井まで届かないのが原因であった。それだけ天井の高さがあるとも言えるだろう。

 無論、確認できたことはある。


「あれは始祖様? ジルベスト様の像も……」


 エルネが気付いたのは、まるで見えない通路が続いているように、両脇に置かれた彫像が一定間隔で部屋奥まで列を為す光景だ。そこに見知った像があるのに気づく。


「これって、歴代の大公像……?」


 正直、エルネには有名処のご先祖様しか分からない。だが、奥から順に初代、二代目……と並べられているような感じはする。


「そこに何やら書かれておるな」


 弦矢に指摘されるまでもなく、エルネにもその石碑然としたものは見えていた。

 今いる彼女たちの立ち位置は金属扉をくぐった通路の中。正確にはまだ部屋に入室していないのが現状だ。

 問題の石碑は、この通路が終わった部屋の入口中央に丁度良い高さの椅子みたいに設置されていた。ただ、もう少し歩まねば石碑の文字は読み取れない。

 必然的に三人は歩を進め、エルネが顔を近づける。何かで汚れがひどくそうしないと文字が読み取れないためだ。並べられた像も汚れが酷かった。振り返れば“蔵書の間”も埃臭く、こうした点から考えてみても、この施設が以前から放置されていたことが窺える。


「これは“るーん”とやらではないな」

「えー……」


 エルネが読み聞かせようとしたその時だった。

 上方でざわりと何かの気配が蠢くのを感じ、同時にギィ、キュイと甲高く奇怪な鳴き声がして、エルネは顔を強張らせた。


「何だ……?」

「何かおりまするっ」


 さすがに二人の侍は違う反応を見せている。腰を落とし、剣の柄に手を掛け、あるいは棍を構えて何かに備えている。

 キュイキュイとの鳴き声は天井の広い範囲から聞こえてきて、その気持ち悪さとも相まって、誰もが固唾を呑んでその場に固着した。

 だが、それ以上の変化はなく、ざわめきが落ち着いてくるとそれきり気配が途絶えてしまう。

 天井へ目を凝らしたままの弦矢が問いかけた。


「どうだ――?」


 ざわり。

 即座にぴりつく二人の侍。


「……間違いなく」


 月齊が「勘違いでない」と明瞭に請け合えば、またざわりと気配がさざめき・・・・、そのたびに侍達が反応する。その堪らない緊張感にエルネは歯を食い縛って耐えるのみ。


 一体何だっていうの――?


 どうせ何かが起きるなら、さっさと起きてしまってほしいくらい。

 いちいち声を上げるたびにビクつくなんて――


「――え?」


 あることに気づき、エルネは思わず声を上げていた。ハッとして咄嗟に謝ったのはどうしようもない。問題は、それが“何か”を刺激したということだ。




「あ、ごめんなさい!」

 ざわざわ……バタタタッ



 沸き立つ無数の羽ばたき。

 その羽音が心なしかわんわん・・・・とあたりに響き渡り、音の発現地点を惑わせる。

 そうこうするうちに、肌を逆撫でする鳴き声と共に無数の羽ばたきが天井から降り注がれてきた!


「むぅっ」

「姫を護れっ」


 叫びと共にエルネの肩が強い力で上から押し込まれ、抗うこともできずにしゃがみこむ。


「姫はそのままでっ」


 それが弦矢の声と気付いたからでなく、ただ驚きと恐怖のままにエルネは頭を抱えてうずくまった。

 豪雨で水かさが増した河川の激流を思わす羽ばたきの騒音が周囲を包み込む。

 鋭い何かに肌を切り裂かれる痛みよりも、鼓膜が割れんばかりの騒音におののき混乱し、エルネは両耳を塞いで目をきつく閉じていた。

 何かが空を切る音。

 「ギッ」という苦鳴。

 だが、そうした争いの音を掻き消すほどの羽ばたき音と鳴き声の嵐。

 その正体はコウモリだ。コウモリの群れが襲い掛かってきたことはエルネも直感的に察していた。


「くっ、この数……」


 誰かの辛苦も不気味な音の嵐に呑み込まれ、しかし幸運にも、それほど間を置かず音の嵐は波が引くように引いてゆき、あっという間に静まり返っていた。

 一時の興奮から醒めたように。

 これが捕食行為であったなら、途中でやめることなどしないだろう。

 敵意や悪意があっても同じ事。

 ただ、何かに反応しただけ――そう捉えるのが自然なようだ。

 今や気配は絶えている。

 嵐のごとき騒乱が過ぎ去ったと感じ取り、エルネは耳にあてがっていた手を恐る恐る離す。

 二人の乱れた呼吸音だけが耳につき、そこでようやくエルネは安堵すると共に自分がすべきことに気付いてすぐさま立ち上がった。

 まずは手近の弦矢に身を寄せ小声で囁く。


「そのままお静かに。おそらくですが、あのコウモリ達は音に反応しているのでは――」


 弦矢の顔がわずかに自分へ向けられる。半信半疑なのも当然だと思ったが、エルネの予想に反して弦矢は小さく頷いた。どうやら彼も気付いていたらしい。

 月齊の方を見れば、彼も何言うでもなく、無言のまま二人の出方を待っているような気がする。

 ならばとエルネは石碑を指差した。

 そこに読み取った文面を小声で伝える。


「“口は災いの元・・・・・・。しかして、勇気を持って踏み出す者だけが、事を為す”」


 エルネが唇の前に人差し指を立てると、弦矢は承知したと頷いてくれた。ただ、眉根を寄せるその顔は何かを訝しんでいる。


(どうされました……?)


 窺うように弦矢の顔を覗き込めば、彼は低い声で疑念を口にした。


「……ここと先ほどの“るーん”で手掛かりがふたつある」


 それをどう解釈し、あるいは組み合わせればよいかということらしい。

 とりあえず、弦矢の案で三人は一度部屋を出ることにした。


「ここなら音は洩れまい」


 金属扉をできるかぎり閉めた後、弦矢がようやく口を開いた。エルネもほっとしたせいか自然と息をつく。どうやら自分で感じてた以上に緊張で身体が強張っていたらしい。それに比べて当然と云うべきか、月齊は泰然と佇み二人の会話を聞く姿勢を保っている。そこで初めて、エルネには気付いたことがあった。


「キズが……っ」


 よく見れば、弦矢の顔に幾つかの切り傷があり、衣服にも切り傷やほつれが見て取れた。コウモリの群れに襲われながら彼が奮戦した証だ。付けられた切り傷の鋭さに、今頃じんわりと血が滲んできたものもあるのだろう。

 エルネの驚く様子に、その視線の先にある自分の頬を弦矢が何気なく指で触れる。


「……」

「今、手当てをっ」

「かすり傷だ」

「でも――」


 指先についたわずかな血を見ても、その黒瞳に少しの動揺を見せることもなく、弦矢が腰のベルトポーチをまさぐりだすエルネをやわらかく制す。


「姫、本当に大丈夫じゃ。派手に見えるだけで、実際はなきに等しい傷だ。それよりまず、話し合っておこう」


 今し方、互いに見聞きしたことを忘れぬうちに整理すべきだと。弦矢にそう諭されればエルネも折れざるを得ない。ただせめて、伝えておきたいことがあった。


「……ありがとうございます」

「?」

「……護っていただいて」


 エルネの大げさとも言える言動が、負い目・・・にあったと気付いたのだろう。弦矢は「少しはいいところを見せられたようじゃな」と目元を綻ばせた。


「――それで、どうするかだが」


 あらためて、弦矢が部屋の攻略について水を向けてくる。今までなら、それを尋ねる側のエルネであったが、今回は自ら進んで話しの口火を切っていく。


「どうやらあのコウモリは“音”に反応するようです。その事は石碑にも記されておりますが、もうひとつ重要なことが記されています」

「勇気を持って事を為せ――そのような文であったか」

「ええ」


 だからエルネは提案する。


「ここは思い切って、奥まで参りましょう。先ほどの様子では足音や囁き声にはコウモリ達も反応しませんでした。慎重に進めば出口に辿り着くことは可能です」

「じゃが、そのような安易な仕掛けとは思えぬが」


 これまでの凝った仕掛けを考えれば、弦矢が異を唱えるのも当然だ。もちろん、エルネにとっては織り込み済みの話しである。


「当然、石床に音が鳴る仕掛けくらい施してあるでしょう。あるいは並べられた彫像に罠があっても不思議ではありません。それでも私たちは進むしかないのです。いえ、私は進まねば・・・・・・なりません・・・・・。なぜなら――」


 “蔵書の間”で読み解いた『神意文字ルーン』がエルネの脳裏に蘇る。

 【最後】、【あなた】、【正体】の単語で問いかけるのは。


「――私が“大公家の者”だからです」


 問いかけられている。

 自分が何者であるかを。


 これまでも、心身を追い詰める試練を科してきたことで、罠に対する感度が過敏にさせられていた。

 だからこそ、“コウモリの群れ”という小道具・・・は、疲弊しきった挑戦者をパニックに陥れるには最高の演出であったろう。

 平常心を失い、一度疑心暗鬼に陥れば、部屋に踏み込むことをどうしても躊躇ってしまう。そうなれば、もはや一歩も前には進めまい。

 つまりこの試練は再度、挑む者の資質を問いかけているのだ。

 自分が何者であるかを――。


「進むにしても、念のため、壁際に進んでみては如何かと」


 これまで黙して聞き役に徹していた月齊が、罠の回避策を提案してくるも、エルネはこれを却下する。


「それも一案。ですが、そこにこそ罠があるかもしれません。あるいは、重要な何かを見落とすことになるかも」

「姫はあの像に“何かの意味”があると考えているのだな」


 意図を察した弦矢のフォローに、しかし、月齊はなおも食い下がる。


「とはいえ、姫が期待するものでなく“罠”であることも考えられます。そうした懸念は、先に姫ご自身が申されたこと」

「確かに懸念はあります。ですが、だからといって避けるべきとは考えておりません」


 語気を強めるでもなく、エルネの口からするりと零れた言葉には、なぜか説得力があった。

 揺るぎない碧眼には“道”が見えているからだ。


「これまでの試練は、すべてこのためにあったのでしょう。惑い、躊躇い、いらぬ小細工・・・・・・に走らせるために。

 ここで問われているのは、大公家に相応しくあらんとする姿。もし、諏訪家の当主として・・・・・・・・・招かれた敵地を歩むとなれば――ゲンヤ様なら、どうされますか?」


 ふいに振られた話に、弦矢はまじまじとエルネを見返してくる。エルネの意図がどこにあるか、何を己に云わせたいのか――若さに似ぬ思慮を巡らせ、しばし――「ふむ」と何かに納得したように弦矢は咽奥を低く唸らせた。


「――なるほど。それが姫の答えか・・・・・・・・

「はい。それが私の歩む道です・・・・・・・・・・


 自分でも驚くほど、気負いのない言葉を口にしていた。

 声に出すことで、より実感が湧く。

 自分はこの道を進むのだと。


「それでも念のため、確認させていただこう。露払いは――」

「いりません」


 自分の選んだ道は大きな危険を孕んでいる。

 出した答えが“正しい”とは限らないためだ。

 侍達が案じているのもその一点。

 それを承知しながら、微塵の恐怖もないエルネの返事に「――若」と何かを訴えるのは月齊だ。容認できぬというのだろう。だが。


「いや、儂は姫を信じる」


 こちらも清々しいほど迷いのない答え。

 虚を突かれたような月齊は、口を半開きにしたまま凝り固まってしまう。

 まがりなりにも他国の姫を――こうも安易に危険に晒させるなど、月齊の思考が跳んでしまうのも当然だ。


 分かっているのか二人には。

 物事に想定外は付き物だ。

 即ち、罠が危険であるほどに、いつでも命を落とす――あるいは取り返しの付かぬ怪我を負う可能性はあるものだ。


 そうした思いから、すぐさま我に返るも、彼も当主の性格は熟知している。だからこそ、苦しげに呻くのだろう。


「……わずかでもおかしな気配・・・・・・を察したら、問答無用で姫を御守りします。そうでなければ、納得できませぬっ」

「ありがとうございます、ゲッサイ殿」

「ずいぶんと入れ込みようだな・・・・・・・・、月齊」


 そんな風に、当主に揶揄されて盲目の侍は仏頂面になる。


「私はただ……」


 ミケランがどうのとモゴモゴ呟くが、結局は年端もいかぬ少女の身を案じてくれるだけの異人の優しさに、エルネはあらためて感謝を伝え「判断はお任せします」と委ねることにした。

 これで攻略方針についてはエルネの案で定まった。

 決まれば行動に移すのみ。


「では参りましょう、お二方」


 エルネ達は再び“静寂の間”とも呼ぶべき部屋へ踏み入るのだった。


 ◇◇◇


 石碑の前で立ち止まると、エルネは天井へ視線を向けた。

 月のない夜空を見上げるように黒く塗りつぶされた上方に何かの影を捉えることはできない。だが、あのコウモリ達が群れを成し潜んでいるのは確かだ。

 数十匹どころでないたくさんのコウモリが、天井裏にびっしりと逆さ吊りでぶら下がっている――想像するだけで身の毛もよだつ光景に、エルネは慌てて視線を反らした。


 こわくない――


 始祖様の冒険譚で語られていたコウモリは、人や獣の生き血を求める恐るべき『吸血コウモリ』であったが、このコウモリにそこまでの獰猛さがないことは先ほどの体験で知っている。

 それでも念のため、全員の止血や血を拭うくらいの手当ては済ませていた。“音”だけに誘発されるとも限らないため、その点も抜かりなく、きちんと対策をしておいたのだ。


 そこまでやったんだもの。大丈夫――


 エルネは自分に言い聞かせる。

 ただ、先に視線を向けてしまうと、盲目の侍や若き当主の背中を目にすることはなく、それだけでやけに広々く感じてしまうことにはた・・と気付く。

 そうして自然と心臓の鼓動が高くなってしまうのだ。

 この、どうしようもない心許なさ。

 危険と承知している場へ踏み込むのに、自ら先頭に立つことの恐怖をエルネは初めて実感し、これまで自分がどれだけ護られていたのかを痛切に思い知る。


(でもだからこそ、私が先頭に立ち、正道を体現してみせることに意味がある――)


 そう、勇気を示すのだ。

 自分が何者であるかを。


 エルネは軽く息を吐き、慎重に一歩を踏み出した。

 小さな足音が、やけにエルネの耳につく。

 一瞬息を止め、視線をちらと上方へ向けるが当然反応はない。そのままかすかな恐怖を胸奥に押し込んで、エルネは二歩目を踏み出した。


 三歩、四歩……


 イケる。問題ない。

 やはりコウモリ達が反応するには一定の音量が必要で、歩く分には支障が無い。そうして確かな手応えを掴んでしまえば、歩くリズムも整えられる。

 エルネは石碑を迂回して、歴代大公達の像を両側に見据える位置取りで進路を固定した。


 ――よし。


 歩み出してすぐ、エルネは思わず拳を握る。

 罠が発動する様子はない。

 それはエルネの出した答えが正しかったことを意味する。


 即ち――ただ、部屋の中央を踏破する・・・・・・・・・・こと。


 それが大公家の王道。

 いや、エルネの掲げる正道だ。

 すでに数メートル進んだが、いまだ罠の発動は見られない。このまま最後まで踏破できれば、エルネの示した道が試練場の創造者に認められたことになる。

 少なくとも、自分はそう受け止める。

 誇らしい気持ちだ。

 少しだけでも、始祖様に近づけたような。

 今、自分は“自分の道”を歩いているのだ――。

 足下に視線を向けることなく顔を上げ、毅然と歩むエルネのすぐ後ろには月齊がついている。彼の操る九節棍とやらは、多少ならば離れた敵にも攻撃できるとのこと。その利点を活かすべきだと、本人たっての申し出に、エルネを近くで守護する役目が与えられたわけである。

 なので最後尾は弦矢が遺漏なく務めており、二人の万全なバックアップのおかげで、エルネも安心して周囲を観察する心のゆとりが持てていた。


(ユルベスト……ヴォルグスト……)


 間近で見ても、やはりエルネの知らない大公像であったが、台座に彫られていたこともあり、辛うじて名前だけは知ることができた。

 大きくお腹が出た像もあれば、禿頭を再現された像もある。こうした作品は美化されるのが常であるが、施設の創造者はリアリティにこだわるタイプであったらしい。当然ながら、その意向に横槍を入れさせず貫き通せる権力もあったことになる。


(そういえば、誰がこの施設を造ったのかな……)


 おそらく汚れはコウモリの糞。

 今は薄汚れているものの、白く滑らかな部分がのぞけるところを見るに、元はきれいな石膏像であったことが窺える。

 奥に従い、様変わりする衣服のデザインや飾り立てられた装飾品は精緻に施され、美術品としても素晴らしい出来映えに仕上げられていた。

 他の部屋でもそうであったが、こうした小道具への細やかな気配りを感じ取れば、自然と創造者への興味も湧こうというものだ。


(……ポーズだって同じ型がひとつもない)


 両腕を大きく広げる者。

 耳に手をあてがう者。

 口を開け、片腕を天に突き上げる者――。


 いずれも躍動感に溢れ、情熱的なポージング。

 芸術肌の創造者の下で、どれだけの才ある石工達が集められ、懸命に道具を振るい、渾身の作品を生み出してきたのか。当時の工房での熱気が今も伝わってくるような迫力が、すべての像から感じ取れた。


(やっぱり、創造者の人となり・・・・が反映されたりするのかな……)


 あるいは、大公の地位にある者の像だからこそ、自然とエネルギーに満ちあふれた表現になってしまうのか。

 緊張感を失ったわけではない。

 それだけ適度なゆとりがエルネに生まれていたということだ。


 ふぅ――……


 ようやく部屋の中央を過ぎたあたりでエルネは足を止めた。

 慎重な足取りのせいで、どうしても歩みは遅くなる。思った以上に神経がすり減る作業に、一息つきたくなるのも当然だ。

 顎や首回りの強張りをほぐすように、エルネは軽く首を回し腕を振り、深呼吸を数度繰り返した。


「姫様」


 低い呼び声に振り向けば、月齊が革袋を差し出してきた。念のため弦矢達とエルネ達の二組にひとつづつ持たせていた水袋だ。それを月齊が持っていたらしい。


 あ・り・が・と


 声を出さず桃色の唇を動かしエルネは感謝を示して水を受け取る。

 滑らかな白い咽を反らし、エルネはゆっくりと水を口に含んだ。

 まだ多少冷えている水が咽を潤し、胃の腑に染み渡るのは格別であった。思った以上に、体が水分を欲していたようだ。それだけ緊張を強いられ続けていたのは確かだ。


「ふぅ……」


 もう一度、無意識に息をつく。

 さて、ここまでは問題なかったが。

 このまますんなり終わらせてくれるのか。

 これが創造者の求める回答だからこそ、無事にクリアさせてくれるものと信じたいところだが。

 エルネだけでない皆の思いは、ある意味では叶えられたと言えるだろう。

 それからトラブルに見舞われることもなく、三人は部屋奥にあった金属扉まで辿り着くことができたのだから。

 だが肝心の扉が開かれることはなかったのである。


「そんな……他に回答が……?」


 そんなことだと思っていた――。

 心のどこかにあった「やはり」という落胆やそこから生まれる憤りが沸き上がる一方で、そうはいっても「自信があったのに」という悔しさが混じり合い、混乱した挙げ句、エルネは呆然と立ち尽くす。


「…………っ」


 誰かが呼んでいる。

 だがそちらに集中していられない。

 浮かんでくることがあるとすれば、それは「なんで――」、「どうして――」という自問自答であり、それらが頭の中でぐるぐる巡るだけ。

 悔しさよりも強い疑念が先に立つ。


「他にどんな回答が――」


 自分では渾身の回答であっただけに、エルネの気力はどうしても萎えそうになる。何とか上擦りそうになる声を抑えただけでも良しとするべきだ。


「いや、“姫の答え”は間違ってはいない」


 何を気休めを。

 一瞬反発を覚えるエルネに、弦矢がある一点を指し示す。無論、声はひそめたままで。


「あそこの“出っ張り”が分かるか……?」

「石床の……?」


 示された辺りの石床が一枚、確かに浮いているように見えなくもない。だが、ずいぶんと些細な点で元々そうであったと云われれば、それまでの違いしかない。

 だが、他にも近くに三箇所ほどの“浮き床”を発見するに至り、エルネの力ない瞳に光が蘇る。


「こうして軽く見渡しだけで、今、儂らが歩いてきた道以外に罠を散見することができる。姫の思い・・・・が――示した道が正しかったことの証左であろう」

「ですが、肝心の扉が開かなくては……」


 あくまでも目的は叔父様の下に辿り着くこと。

 エルネが眉をしかめれば、弦矢はさらに考えを推し進める。コウモリ達を刺激しないように、慎重に声を潜めて。


「確かにその通り。故に、手掛かりの読み解き方が、まだ足りぬのかもしれん」

「他にも意味があると……?」

「最後の試練なら、難解であっても不思議はない。色々考えてみるより他はあるまい? さればもう一度、手掛かりを整理してみよう」


 弦矢に促され、エルネは少し気持ちを落ち着けてから、あらためて得られた手掛かりを頭の中で整理してみる。


 先ずは、『神意文字』で記された――

  “汝は誰か”の問いかけ。


 次に、石碑に記された――

  “口は災いの元・・・・・・

   しかして、勇気を持って踏み出す者だけが、

   事を為す”の文。


 ふたつを組み合わせることで、何かの意味が生まれるのか? 


(そういえば、像に仕掛けなどもなかったような)


 “蔵書の間”でのフィオネーゼ像のような仕掛けも疑ったが、今回は見つけられない。台座に彫られた代々大公の名前にも気になる部分は見つけられず。

「像の配置……像の示す何か……手? それとも視線?」


 フィオネーゼ像は“蔵書の間”と同じ仕草。いや、“掌印”の正しきポーズを取っており、ジルベストは右の掌を胸に当て、秘めた覚悟を思わせ、毅然と前を見据えている。

 大地に掌を当てがい、祈りを捧げるような仕草の像もあれば、胸前に拳を掲げて見せた猛々しい仕草の像もある。

 すべての像を満遍なく観察したが、手指や視線に意図的なものは感じられない。あらためて、それぞれが大公らしい威風や厳格さあるいは敬虔さを感じさせることだ。

 これ以上、どこに何の意味が隠されているというのか。


「汝は何者か……勇気を示せ……問いかけられているのは、私の正道……いえ・・


 厳密には、大公に相応しきこと。


「私が……大公であること……?」


 軽い衝撃がエルネを揺り動かす。

 そうか。

 そうかもしれない。

 自分は大公の座には就かない――その思いが解釈を誤らせていた。だが、この試練で試されているのは、“資質を有しているか”であり、問われているのは“大公となることの自覚”なのだ。

 そうと気付けば、閃くものがある。

 確かに何かが・・・分かったような気がした。

 

「――さすがだな、姫。何かに気付かれたか」

「……正直、自信はありません」


 エルネの変化を弦矢は気付いたらしい。

 だが、応じるエルネの語気に力強さはない。自分でも半信半疑であり、それ以上に、試すのに危険を伴うからだ。

 弦矢の頬傷に視線を向ける。

 案じるようなエルネの視線を弦矢も気付いたらしい。


「信じるといった」

「ゲンヤ様……」

「何をするつもりか知らんが、姫の好きにして構わぬ。謎かけは姫に任せ、儂らはそなたを護る役――互いに己が役目を果たせばよい」

「――はい」

 

 頷くと、エルネは躊躇いを切り捨てた。

 覚悟を決めるたびに崩され、またあらたに覚悟を決め直す。同じ事を懲りずに繰り返す自分に自嘲しながら、今回もまた、弦矢に感謝しつつエルネは前へ進む。


「石碑に記された言葉は、勇気を持って出口まで進むことだけを示したわけではないようです」


 これから自分が何をするのか、その理由を併せてエルネは二人に伝える。


「ヒントは歴代の大公像がその身を以て示してくれています。それは試練に挑む私が為さねばならぬこと――つまり、もうひとつの勇気・・・・・・・・を示す行為・・・・・にあります」

「それは……?」

「それは、ここにいる大公達のように“宣誓すること”です」


 エルネが「いきますよ」と悪戯っぽく微笑んで大きく息を吸い、両手で軽く拳を握りしめた。自然と顔を上向けて。



「我が名は13代目大公ドイネスト・フォン・ユルグ・スタンが一子、エルネーゼ・フォン・ユルグ・スタンである!!!!」



 広大な部屋中に響き渡る声で、エルネは精一杯に宣言していた。

 さすがに“大公を継ぐ者”として名乗り上げるわけにいかない。だが、大公家の気構えを胸に、そしてルストランとの対面に向けた気構えを込めるならば、堂々と名乗り上げることができる。

 その腹の底から放たれた思いは、部屋を震わせ、想像以上に谺し、反響する。先ほどもそうであったが、部屋全体にそうした仕掛けが施してあるらしい。


  ユルグ・スタンである――


        スタンである――


             である――……



 エルネの宣言が残響となって耳に残る中、当然ながらコウモリ達の反応は劇的で、ぶわりと黒い一群が天井から剥がれ落ちるように飛び交った。


(来る――っ)


 叫びを押し殺す弦矢達が、先ほど以上に険しい目付きで身構える。決死の表情は、あまりの刺激の強さに、今度の襲撃が簡単に引かぬだろうと予測されるからだ。

 だが彼らはエルネを信じた。

 責める視線など一瞥もくれずに、ただ、漆黒の一群を見据えるのみ。

 だからこそ、宣言を終えるや否や、エルネは出口たる金属扉を睨み付けた。祈るような気持ちで、開いてくれと把手を凝視する。

 反応はない。

 暴れ狂うようなコウモリの羽ばたきが奔流となって近づいてくる。

 二人の侍の緊張感がエルネの肌に突き刺さる。

 ぞわぞわと背筋に悪寒が走ってエルネは口を押さえた。悲鳴が洩れるのを寸でで食い止める。


 まだ――?

 まだに決まってる。


 ろくに時間など経っていない。それでも焦るエルネの体感が、勝手に時間の経過を早めている。

 侍達がジリジリと後退る。扉の方へ。反射的にエルネも歩み出す。



 ガチリ――



 きた。

 続けてゆるやかに、金属扉が三分の一だけ開かれる。


「開いたわ――っ」


 こみ上げた喜びを抑えきれず、エルネは為すがまま腹の底から叫んでいた。自分でも驚くほどの勢いでダッシュして、夢中で扉に飛びつき振り返る。


「――っきゃ」

「すまんっ」


 呼ぶまでもなかった。

 ぶつかるようにして弦矢に抱きつかれ、そのまま奥へとエルネは押し込まれた。間髪置かずに月齊が駆け込んで、見事なスピンを決めるや把手を掴んで引っ張った。

 上半身を仰け反らせ全体重をかけて重々しい金属扉を大急ぎで閉じにかかる。

 扉の外に迫る甲高い鳴き声と羽ばたきの音。

 「ふんっ」と両腕に力を込め、両膝を突っ張らせて閉じようとする月齊。

 だが、そうした彼の孤軍奮闘ぶりをエルネは詳細に把握できなかった。弦矢の胸に抱きつくような格好のまま、気付けば通路の壁に挟まれていたからだ。

 ゴン、という重苦しい音と共に、狂奔した羽音の嵐がぴたりと遮られる。


「……まの、ふぇんや、ひゃま……?」

「……ああ、すまん」


 弦矢の胸に顔を埋めたまま、エルネがおそるおそる声を掛けると、ようやく気付いた弦矢がエルネを離してくれた。きつく抱きしめられていただけに、エルネは空気を求めて少しだけ喘ぐ。

 なぜか苦しさよりも汗の臭いが気になって。

 乱れた前髪を手ぐしで直し、何となく身繕いするエルネに気遣ってくれたのか、弦矢は顔を背け、少し身を離して距離をおいてくれた。そんな態度にかえってエルネは気恥ずかしくなってくる。


(細身なのに、結構引き締まってた……)


 いや。

 そうじゃないっ。

 エルネは思わず首を振る。

 なに考えてる? 自分は、と。


「これで、抜けましたね――っ」


 気持ちを切り替えるべく、エルネは慌てて話を切り出す。心なしか上気する頬を意識しないよう注意して。


「うむ……そうだな。姫のおかげで救われた」


 エルネの努力を知らぬげに弦矢が一言でダメにする。


「いえ、そんな――弦矢様がいなければ」


 咄嗟に出た言葉がやぶ蛇だ。

 少しオーバーに腕を振るエルネに「私の活躍も思い出してくれると有り難く」と月齊が珍しくアピールしてきて、さらにエルネを慌てさせた。


「も、もちろんです。ゲッサイ殿にも大変感謝しております、本当に!」

「いえ、こちらこそ失礼を」


 どうやらわざと・・・であったらしい。

 ならばそれもわざと・・・であったろう――月齊が慇懃に返して、通路の奥へと歩き出す。


いい雰囲気・・・・・になるのは、事を終えてからで頼みますぞ、ご両人」

「む?」

「やっ――」


 それは、と手を伸ばし訴えかけたエルネは黙然と去ってゆく月齊の背を虚しく見送った。

 広げた掌を力なく萎ませ、伸ばした腕を弱々しく下げてしまう。何だかどさくさに紛れて浮かれてしまったことを自覚してはいたからだ。

 当然ながら、男兄弟のいないエルネにとって若い男と触れ合う機会はあまりない。もちろん、社交場でダンスに誘われることはあるのだが、先ほどの触れ合いはまったく別物で――いけない、いけないっ。

 勝手に煩悶しているエルネを置き去りにして、月齊に続き弦矢までも無言のまま立ち去ってしまう。いつもなら何か声を掛けてくれそうなものなのだが、そうした疑念をエルネが抱く余裕もなく。

 やがてぽそりと。



「……これは、不可抗力です……」



 エルネのすがるような呟きは誰にも届くことはなかった――。


 ◇◇◇


 ちょっとした気恥ずかしいトラブルのせいで、三人が最後の試練を乗り越えた感動を互いに分かち合うことはなかった。

 おかげでしばらくは無言のまま通路を歩く。

 やがて通路は螺旋を描く上りになり、それもすぐに人工的な階段状のものへと切り替わる頃には、三人の心境に変化が訪れていた。


「……今、儂らはどの辺りにいるのだろうな」


 誰にともなく口にした弦矢の疑念に、同様のことを考えていたエルネも疑念を口にする。


「歩いてきた距離はいいとして……高さに違和感がありますね」

「うむ。あまり下った覚えはないのに、妙に上りすぎのような感じがする」

「ただ、それでは地上に出てしまいます」


 逆にそうならないということは?

 自然とエルネは答えを口にしていた。


「もしかすると……最西端の“城館の丘”あたりであれば、理屈が合いますね」


 シュレーベン城の造りは、庭園・訓練場・厩舎に住み込み用の宿舎などが設けられている“城壁内エリア”と元々湖の畔にあった丘に城館を建てた“城館の丘”と呼ばれる二種構成になっている。

 丘の湖岸側は二十メートルほどの断崖となっており、その地中を上っているのだろうとエルネは当たりを付けたのだ。


「では、この階段の行き着くところに思い当たる節はおありかな?」

「そうですね……」


 いつの間に自然と会話ができていることを意識することもなく、エルネは小首を傾げ、幾つかの予想を挙げてみる。


「うまくすれば、私が脱出する時に利用した道に合流できるかもしれません。あるいは秘密の儀式ですから、私の知らない部屋に繋がるのかも。でも“成人の儀”から連想する最も可能性のある場所は、離れにある『礼拝堂』だと思います」

「ああ……“陸の孤島”と云っていたやつだな?」

「はい」


 途端に弦矢の表情が暗く曇る。

 エルネの事前説明で世間話程度に聞かされていたからだろう。

 『陸の孤島』というのは、丘全体が大きさの異なる歪な双子山の形状をしている中で、丘の大半を城館が占める形で築いたのに対して、小さい丘にくだんの『礼拝堂』をひとつきり、ぽつんと築いたことを差していた。

 往来し易くするために立派な渡り廊下で繋げているのだが、外からの侵入に警戒し見張りが常設されていた。それが弦矢を不安にさせる原因であった。


「陽が昇らぬうちなら、闇に紛れて距離を稼げたかもしれぬが……」

「少なくとも、陽は差しているでしょう」


 エルネもさすがに楽観せぬよう早々に切り捨てる。

 つまり、見つからずに城内潜入すること自体が絶望的ということだ。


「せめて弓か扇間がいれば……」

「まだ推測に過ぎません」


 無い物ねだりをする弦矢にエルネは励ますように言う。ただ、それこそ楽観視する台詞であることをエルネは苦々しく感じる。

 すべては単なる憶測だ。

 そんなものに踊らされて、まごまごしているわけにもいかない。絶望するなら、結果を見てからだ。放心するのも喚き散らすのも、結果を見るまでは、前に進むだけだ。

 そしてこの頑張りは、絶体に裏切られることはない。

 勝手な自信が、エルネの目線をただ前へと向けさせる。


「さあ、分かってるわよね? こっからが本番なんだってことが」


 エルネは元気いっぱいに、弦矢達を叱咤する。

 果たして、上り切った先の扉を開いて、さらに先の重い石蓋をずらして開放されれば、厳かな空気がエルネ達を迎えてくれた。

 そこに立ち上がって初めて、弦矢と月齊の二人掛かりでずらした石蓋が公国の紋章を象ったものだと気付く。それが部屋奥の中央に位置しており、右を向けば始祖フィオネーゼ像が、左を向けば陽光神『アル・ラグル』の像が鎮座していることも知った。この何かを奉り、厳粛な空気に包まれた感じは――


「『礼拝堂』……か」

「それも朝の清々しい光に満ち溢れていますね」


 小憎らしいほどに、とはさすがにエルネも口にしなかったが、弦矢のきつくしかめられた眉と同様、苦々しさを声に込めていた。


 ――最悪の展開だ。


 この一件がなければ、例えばひと月も前のエルネなら、この澄んだ冷たい空気に心洗われ、堂内に差し込む陽光神の温もりに自然と笑み崩れていたに違いない。

 とっておきの紅茶を淹れさせ、朝食前だというのに干しぶどうを練り込んだクッキーを存分に味わう――至福のひと時を得るに相応しい、朝である・・・・


「けど、今はサイアク――」


 思わず地が出てしまう。

 弦矢達の前であろうと、エレガントになんかしていられない。それほど例えようもなく――悔しかったのだ。

 張っていた予防線に意味などなかった。

 受けたショックの大きさにエルネは唇をきつく噛みしめる。その反動に突き動かされたのか。

 エルネはまっすぐに『礼拝堂』を突き抜ける。

 両開きの大扉に近づき、むんずと手に余る把手を握りしめて両腕に力を込めた。

 ぎしり、と大扉が軋みを上げ――


「――待たれよ、姫」


 そこで肩を強く掴まれた。

 さすがに慌てたのだろう、弦矢が肩を掴んだまま「落ち着いてくれ、姫」と訴えてくる。


「放して下さいっ。これで落ち着けるわけないでしょう――」


 把手を握りしめたまま、エルネは扉の向こうを睨み付けたまま訴え返す。


「あんなに頑張ったのにっ――せっかくゲンヤ様が頑張って、せっかくゲッサイ殿も頑張って――みんなであんなに頑張ったのにっっ……こんな、こんなのって!!」


 騒いじゃダメだ。

 でも騒いだから、何だというのか。

 もう、どうせ潜入は失敗だ。

 誰にも知られずに、叔父様のところへ辿り着く手段はない。なくなったのだ。


「落ち着け、姫。まだ諦めては駄目だっ」

「何言ってるの? 今は朝で、どうやっても見つかるわ」

「いや、まだ手はある」


 その一言で、エルネは血の気が引くように我に返る。弦矢の言葉に嫌な予感を覚えて。


「どういう意味……?」

「どうもこうもそのままじゃ。儂も――」

「……へんな気遣いはしないでっ。私はちゃんと、現実を受け入れるわ。ゲンヤ様達の命を無駄にさせたりしない」


 珍しく語尾を濁らせる弦矢にエルネの嫌な予感が一層強まる。

 弦矢の黒瞳はどこまでも真剣で、だからこそいかなる覚悟を決めているのか、エルネの胸を不安という重苦しい感情でギリギリと締め付ける。

 二人が誓いを破る真似はしないだろう。

 それが分かるからこそ、エルネは冷静になって、弦矢が為そうとする無謀な行為を阻止にかかる。


「私は、まがりなりにも公女です。その私に警備兵が刃を向けることはありません。ですから――」

「姫がしっかりと考えておられるのは分かった。じゃが、それは最後に取っておこう」


 弦矢は最後まで云わせず、真摯に語りかけてくる。他に手はあるのだと。


「ゲンヤ様――」

「いいから聞いてくれっ」


 弦矢に掴まれた肩が熱を帯びる。それはゴツい掌から伝わる彼の“念いの強さ”に他ならない。


「よいか。急な話だが、実は儂には秘密の護衛がついておる」

「……?」

「今は地下道から潜入するとあって離れてもらったが、それでも儂らの動向は――少なくともこの試練場に入るまでは把握しておるはずじゃ」


 唐突に聞かされた話に、当然、エルネは困惑を禁じ得ない。異人の当主ともなれば、確かに護衛くらい付いて然るべきだ。それは分かるが、あまりに突然の話しで思考がついてゆけない。


「戸惑うのも当然。だが、肝心なのはここからだ。あくまで儂の予測にすぎぬが……おそらく一人調査に戻られたエンセイ殿と儂の護衛が接触しているものと思われる」

「……」

「分かるか? 少しでも調査する目を増やせば、例の抜け道が見つかる可能性は高い」

「!」


 そこまで云われて、エルネはようやく話しの先が見えてきた。

 エンセイが抜け道を見つけたなら、彼は知らせに追ってくるはずだ。そしてミケランと顔を合わせ、もはやエルネ達との合流が難しいことを知ったに違いない。


「……なら、エンセイ様は例の抜け道を使うはず」「儂もそう思う」


 そしてエルネ達とは違って、支障なく城館に潜り込み――そこで大きな問題が起きることに気付くだろう! エルネや弦矢がそうであったように。


「私たちの方が、大きく出遅れています」

「それに、どこにいるかも見当さえつかず、探しあぐねるな」


 うまく潜入できたところで身動きできず、立ち往生する。そうこうするうち、陽が昇り始め、ますます彼らは途方に暮れる。

 これは策の放棄か、あるいは続行の合図を待ち続けるのかを。


「姫はどちらだと思う?」

「ゲンヤ様は待機していると考えているのですね」


 意を汲んだエルネはそれで返事の代わりとする。


「でも、今も待機しているとして、どうやってエンセイ様達に合図を送ればいいのでしょう」

「ふむ。そこは『魔導具』とやらに期待したのだが、そう都合良くはいかぬか」

「世の中にはあるのですが、持ってきてはおりません」


 エルネは申し訳なく陳謝する。


「なら代わりの何かで……ここから、抜け道の先を見られぬか? 部屋の窓か、あるいは部屋を出た廊下の窓でもよい」


 可能性はだいぶ下がるが、合図を送れればこの状況を打開することができるかもしれない。なければエルネの案を実行するかどうかだ。

 どのみち、後戻りできない以上、何かの行動は取らざるを得ないのだ。

 何か使える道具はないのかと、三人で堂内を捜し始めようとしたところで、月齊の腕が振るわれ――ほぼ同時に弦矢の動きがぴたりと止められた。


「?」


 不審に思ったエルネも遅れて立ち止まれば、礼拝堂の別通路より、司祭服に身を包んだ壮年がふいに姿を現した。

 思わず息を呑んだのはエルネと壮年の二人きり。

 先に気付いていたはずの弦矢と月齊は対処に迷ったか、あるいは相手の出方を窺うように動きを止め、無言を貫く。


「「「「…………」」」」


 例えようのない沈黙が堂内を包み込む。

 思考停止した二人を論外として、この沈黙を打ち破る役目は自然と二人の侍に委ねられることになる――そのはずが、意外にも先に口を開いたのは司祭姿の壮年であった。

 

「貴女は――エルネ様?」


 そのままぽかんと口を開け、壮年の目は驚きに見開かれる。結局はもうしばらく言葉を失うことになるのであった。

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