【第7章】逆襲の英雄軍

第68話 一角獣の僧兵

ヨーヴァル商会騒動より後日

公都『キルグスタン』

 『南街区』場末の酒場――



「大事なお仕事だってことは分かってるの。私だって子供達の面倒をみなきゃいけないし、お互い様よねって――」


 乾した葡萄酒でほんのりと耳まで赤みを増し、目元のホクロがより艶っぽく見える頃合いで。

 卓に肘つき掌へしなだれるように頭を乗せた女が、切なげに熱い吐息を洩らす。


「だけど、久しぶりに二人きりで外食してる時に、他の女に目がいく・・・・・・・・っておかしくない?」

「確かに」


 そう相づちを打った男はそこで苦笑を浮かべ「でも」と少し困り顔で異を唱える。


「“男”とはどうしようもない生き物でね。目の前にどれほど素敵な女性がいても、別の魅力的な女性が目に映ってしまうと、本能的に――そう無意識のうちに――ちょいと・・・・心が動かされてしまうものなんだ」

少しだけ・・・・? テーブル傍をすれ違った女の胸元をガン見・・・してたのに? 目線どころか首まで一緒に・・・・・・動いてりゃ誰だって気付くわよ。当然相手の女もね――忘れないわよ、あの横顔――自分の旦那が軽蔑の目を向けられている女房の気持ち、分かるかしら?」

「……」

「あれじゃ、私のじゃ物足りない・・・・・・・・・って言われたようなものよ!」


 それは嘲笑った女か節操のない旦那にか、果たして誰に対しての怒りであったのか。

 手持ち無沙汰にしていた片方の手で卓上に軽く爪を立て、色っぽい柳眉を吊り上げ睨み付けてくる女に、男は瞳に深い憐憫を湛えて、包み込むように受け止める。


 傷ついたんだね、と。


 目移り・・・した旦那の無神経さよりも、気付いてくれ・・・・・・ない・・鈍感さに。

 いつもより濃いめの紅を引き、少しだけ胸元の広い服を着る貴女の気も知らないで。

 女の心情を慈しみを以て読み解くようにひとつひとつをさりげなく目で追う男に、気付いた女の胸の内でどのような変化が起こったのかは分からない。

 ふと肩の力を抜き、一時の興奮と酒気でほんのりと頬を染めた貌を俯かせ、それでもそっと上目遣いに、自分の変化・・・・・を察してくれる男を見つめてくる。


私の・・って――そんなに魅力ない?」


 少し前屈みになりながら。ただでさえ広い胸元がさらに開き、卓上に乗せられた胸が重量感豊かにわんで・・・、生唾モノの迫力だ。

 自然と鼻息も荒くなってしまう。

 生娘にはない人妻の熟れた色香にほだされて、男も表情だけは辛うじてクールを装い「とっても魅力的ですっ」と語気強めに太鼓判を押す以外の返事はない。


「そうかしら……?」


 女が身をよじるに合わせて、まるで恥ずかしむように豊かな胸が形を変える。その悶絶的な仕草に「そうだともっ」と男はもはや興奮を隠しきれず思いの丈を口走らせる。


「オレだったら、しっかり掴んで・・・・・・・放さないっ・・・・・

「――あら」

「フフ――」


 照れながらも妖しく目元をゆるませる女に、小鼻がぷっくり膨らんでいるものの、あくまでクールを取り繕い涼やかに唇の端を上げてみせる男。

 冷静に考えれば失笑ものの台詞でも、容易く燃え上がることもある。

 なぜなら、ここは場末の酒場であり、一時の享楽を得ようとする大人達が集う場所だから。

 当然男と女が出逢えば、求め合い、その先へ進むこともあるだろう。例えば夫婦生活に倦んだ人妻と女性への好奇心をこじらせた男僧の出遭いともなれば。

 互いに人肌の温もりを欲していると察すれば、もはや胸奥に溜まった情熱リビドーを抑え付けられるはずもない。

 “会話”は二人の呼吸を合わせるための舌を湿らせる程度の“食前酒”。

 故に心の機が熟せば、酒の肴も慎ましやかな卓上を二人の手がどちらからともなく延びてゆき、出逢い、妖しく絡まりあう寸前で――


「よいしょ」

「――あン」


 横合いから誰かが尻振り割り込んできて、女を強引に脇へと押しやった。悩ましげな声は押し潰された胸が上げた不平苦情であったのか。だが、戸惑うのは突然横入りされた女ばかりではない。


「む?」


 迫力の双丘がふたつに増えて・・・、大いに目移りした男がどちらを相手にすべきか真剣に迷いを見せる。

 熟れた果実の豊潤さか、はたまた瑞々しい果実の甘酸っぱさか。

 偶然、旅先で出会った一期一会の料理メニューに悩む若き美食家のごとく。

 むう、これは無理だ。

 どちらも一長一短、秀でた良さがあり魅力を持っている。選ぶにはもう少し薫りを確かめ、できればひとくち・・・・――


「おい、ロンデル。さっきから誰を・・相手にしてるんだよ?」


 新手の双丘から刺々しい声が紛れもない僧服に身を包む男――ロンデルに投げつけられた。その知っ・・た声・・を耳にした途端、ロンデルが色惚けでゆるんだ口をへの字に結び、雪解け水を引っかけられたようにすっかり冷めた顔になる。そうなれば、気取った女たらしにしか見えなかった相貌が、実に聖職者らしく深沈たる面差しに変わるのだから不思議なものだ。

 ああ、なんということか。

 あれほど胡散臭く見えた服装やいかがわしい・・・・・・大人の遊びに使われるとしか思えなかった手持ちの品さえも、今や立派な聖具の品格を放ち始めているではないか。

 傍らに立て掛けた、馬と思しき鉄首を頭頂部に戴く特殊な聖鎚メイスは、知る人ぞ知るとある寺院の僧侶である証。

 それと類似する角の生えた馬頭が僧服の背にも刺繍され、首に提げた聖印セイント・メダルも“捻れ角”を中軸に神意文字を刻んだ円縁で囲いし尊い細工物。

 これで世の理に触れるを許された“神韻を発する言霊”でも口にすれば、誰もが彼に崇敬の眼差しを向けるだろう。――その残念な性癖・嗜好を知ることがなければ。

 あるいは一時だけでも忘れてくれていれば。


「……」

「……」


 すっかり僧侶の趣を取り戻したロンデルを彼以上に冷ややかな顔で睨めつける新手の女は、頭の後ろに手を回し、椅子にふんぞり返りながら茶番の解散を宣する。


「悪いけど、こいつが興味あンのはおっぱい・・・・だけだ。欲しいなら、別の男を見つけるンだね」

「でも――」

「それにね」


 人妻の抗議を遮り、声の調子をがらりと変えて。


「無理に浮気したって、傷つくのは旦那じゃない・・・・・・

「……」

 

 場末の酒場で独りうろつくご婦人は決して珍しい存在ではない。まして新手の女の母親も似た境遇の女であったとなればなおさらのこと。

 未練がましい人妻へ、やけに優しさのこもる声で応じたのには彼女の色んな想いが込められていたのだが、古い付き合いの仲間でない限り、他人が気づけるはずもない。


 とはいえ、女を知るのは女だけ――。


 互いに知らぬ仲であったとしても、女同士で気づけること、通じるものがあるだろう。

 短い沈黙の後、女は媚態をその身より打ち消し、真顔になって「ほぅ」と嘆息した。

 少し困ったような顔を見せ、「そうね」と非難と謝意の混じり合った何とも言えぬ目線を返してそのまま立ち去ってしまう。先ほどの親密さが嘘だったかのようにロンデルの方を一度として振り返ることはなく。

 「ここ、いいかしら?」そうとっとと別の男へ声を掛け、ちゃっかり隣に座り込んでいる。

 当然、面白くないのは“一夜の恋”を目の前にして、きれいにぶち壊されたロンデルだ。クールを気取った胸内でどれほどの欲望と興奮を懸命に抑え込んでいたか余人には分かるまい。だからこそ、この世の終わりみたいな悲愴な声で。


「……貴重な情報源だぞ?」

何の・・情報だ? オマエおっぱいしか見てなかっただろうが」


 抗議の声を店外まで蹴り飛ばし、そこで挑発するように笑みを新手の女が浮かべる。ほぅれほれ・・・・・と。卓上に右腕を乗せ、右肩越しに睨み付ける姿勢で幼馴染みのたわわな胸が窮屈そうに歪むのを、しかし、ロンデルは一瞥もくれずにそっぽを向いた。


「……ミンシアはオレを誤解してる」

「ならこっちを見な」

「女性の胸なら何でもいいと思ってるだろ」

「つまり“おっぱいが目当て”なのは確かなわけだ」

「……こほん」


 「こりゃいかん」とロンデルが仕切り直しに咳払いをする。あくまでそっぽを向いたままで。その視線の先には、隣席に座る隻眼のごつい親父が、骨付き肉にかぶりつきながら、睨み殺す勢いでガンを飛ばしてきていた。たまたま視線が絡み合ってしまい、退くに退けなくなった格好だ。

 「どうしてこうなった」と眉をひそめるロンデルに、「生意気な」と勘違いした隻眼の親父が眼光に力を込めるから、状況は悪化の一途を辿っている。


「……とにかく、気になる情報を掴んだ。彼女たちの井戸端会議に最近姿を見せないご婦人がいるらしい」

「そんなのたまたまだろ。病気という線もある」

「ご婦人が姿を見せなくなってからすでに数日――もちろん、家人も行方を捜してる」

「!」

「どうだ? 少しは聞く気になったか」

「……わかったよ」


 折れたのには無論理由がある。彼らは孫娘を捜して欲しいという老婆からの依頼クエストを受注していた探索者のパーティであり、だからこそ、類似の事件には関連性が疑われるために反応せざるを得なかった。

 経験上、誘拐した荷物・・を裁くのは三日以内――被害者の縁故がいない別の大都市に連れて行かれるのが常套手段だ。他の事案だとしてもあまり時間的猶予がないのだけは共通するところ。

 だから女は不満を飲み込み折れるしかない。自分の他愛のない感情より同性の身が案じられるために。なのに、そんな女の気も知らないで、ぴしりときつくたしなめる者がいた。


「ミンシアは軽い女」

「あ?」


 ぼそりと陰気な少女の声が、無意味な戦いを繰り広げている隻眼親父とは反対側のテーブルから掛けられた。

 そこにひとりちょこん・・・・と座っているのは、弓筒を背負う軽装の探索者らしき者。その足下に大型犬をはべらせて、酒ではなかろうコップを小さな両手で包んで顔を寄せている。

 まるでミルクを舐める子犬のように。

 その顔は深草模様の頭巾を目深にかぶって見ることは叶わないが、姿形からして声の主であることは間違いあるまい。事実、ミンシアと戦いから脱したロンデルが注視する中、言葉を続けたのだから絶体だ。


「ミンシアは、幼馴染みロンデルが相手だと、すぐに妥協する」

「ちょ、何言ってんだよリンデル!」

「リン」

「え?」

「私の名。リンデルだと変態の兄を持ってると思われる」


 陰鬱に、いやいやする弓士少女にミンシアは呆れた声を上げる。


「だってほんとの・・・・兄妹だろ」

「ちがう」

「ちがうって……」

「変態は兄じゃないし、兄は変態じゃない」


 だから兄じゃないと頑なに「変態」を繰り返す少女にロンデルが淡々と抗議する。「オレがいることわかってるよな?」


「分かってるからリンデルがグレてるんだろ?」

「だからリン。私に“デル”はない」


 「“デル”は変態」などと世の“デル付き姓名”を持つ者を敵にしかねない偏見に満ちた暴言を吐き、それを聞いた実兄ロンデルが「馬鹿な。同じタネで同じお腹で育ったんだぞ」などと切実に訴え、喧々囂々、愚にも付かない不毛な口論を続けることしばし。

 このままでは埒があかないと思ったらしいロンデルが「それで? そっちはどんな収穫があったんだよ」と会話の流れを豪腕過ぎる力強さで有無を言わさず修正する。


「そうだね。あんたら兄妹の問題に、あたしが口出すことでもないか」

「おい」

「ああ、悪ィ。幼女も少女もご婦人も、女が攫われるのは今に始まったことじゃないからね。『裏街』じゃちょくちょく起きてるようだよ。ただ……」


 言いよどむミンシアが猫のような黒目がちな瞳を左右に彷徨わせて。


「売りに出すか情婦にするか、その手の店か組織の者によって某かの噂が流れるものだけど……本当に何にもないんだよ」


 まるで消えたように・・・・・・

 『陰者シャドウ・フット』の職に就き、『陰技シャドウスキル』の遣い手としてレベルの高いミンシアが情報を掴み損ねるとも思えない。ならば本当に痕跡を残さぬ事件・・・・・・・・が起きていると捉えるべきだ。

 問題は、むしろそうした件数がそれなりにあり、しかも最近だけでなく以前から起きているらしいということだ。


「へえ、そいつは興味深い話しだね」

「それならリンも掴んだ」


 興味深げな実兄に反応したのか、変わらず陰気な声で少女弓士も自分の成果を主張する。


「『西街区』でも、女給メイドが退職願いを出さずに突然いなくなったり、下級貴族の五女が置き手紙もなく姿をくらましたとか」


 取るに足らない存在であり、また、事件自体を恥と捉える者も多くて表沙汰になってないものがあると少女弓士は告げる。


「……あんたよくそんな富裕層のネタを仕入れてこれたね」

「そう? 大したことはしてない」


 生育途上の胸を反らし、満更でもない自負を声に感じさせる。その得意げな心情が表に出ちゃってる妹に、だが、兄は別の不安を感じたようだ。


「“大したこと”でないって……何をしたんだ?」

仲良くした・・・・・だけ」

「「え?」」


 ミンシアまでも大きな目をさらに大きく見開いて、椅子をガタつかせながら慌てたように少女弓士の下へ駆け寄ってゆく。


「おいおい、仲良くって――」

「か、隠れん坊か? まさか鬼ごっこ――?!」


 鼻息荒く(?)興奮気味に並べ立てるロンデルを「黙れ童貞」とミンシアが遮って、少女弓士にその豊かな胸を押しつけんばかりにぐいぐいと詰め寄る。


「いいか、リンデル。誰と、どんな仲良くとやらをしたのか、お姉さんに、ゆっくりでいいから聞かせるんだ、な?」

「“デル”いらない。リン」


 「それにお姉さんでもない」モゴモガと巨乳に溺れかかる少女弓士を「この、可愛くない妹め」「可愛いけど妹じゃない」「あーもう、わかったから、さっさと教えな」と焦れたミンシアが細い肩を揺さぶる。

 ようやくマシュマロ地獄から解放された少女弓士は「巨乳許すまじ」と呪詛を込めながらも目線を左上に向け、記憶を手繰る。


「聞き込みしていた店主が服をプレゼントすると云ってくれて」

「服?」

「そう。いらないから弓をくれと云ったら武具屋に連れて行かれて。そのあと馬車での帰り道、手を見たいと云われ、その次は足を――」

「はあ?」

「ま、まさか舐められたのか・・・・・・・?!」


 わけわからんと困惑するミンシアとは対照的に、瞬時に状況を理解したらしい上擦った声はロンデルのもの。その肩にごつい手を置き、隻眼親父まで鼻の穴を膨らませて耳を澄ませているのは仲直りでもできたのだろうか。そのどうでもいい疑念は置いといて。


見られた・・・・だけ」

「見る?」

「白い手袋をして、宝石を扱うように、それ以上に恭しく私の足を持ち上げて、とても丁寧に見ていただけ。ちょっと気持ち悪かったけど」


 一体どんな状況だ?

 そこに一滴のエロスも感じさせないが、嗜好の深奥はかぎりなく深く昏く――そして果てなく広い。

 どう反応すべきか戸惑うばかりのミンシアとは異なり、やはり適切な(?)反応を示すのは変態を自認する男達だけだ。


「――そ、そうか」


 一瞬呼吸するのも忘れていたのか、たっぷりと息を吐き出すロンデルが大きく胸を撫で下ろす。そこになぜか幾ばくかの“がっかり感”があるのに気付いて、ミンシアが雪原を思わす冷貌で変態の幼馴染みを冷視する。


 ごごんっ


 とりあえず、一発ぶん殴っておくのは紛れもない“正義”だ。二発分響いたのは隣の隻眼親父も含まれるためだ。


「「……ぐおおっ」」


 頭を押さえてうずくまる男達を「猛省しとけ」と放っておき、ミンシアが少女弓士の細い肩を掴んだ手に力を込める。


「いいか、リン。世の中には色んなタイプの変態がいる」

「分かってる」


 「たんこぶができた」と頭頂部を押さえる実の兄を少女弓士はしっかと見やる。そのどこかスレた感じに、窘めたり抑え付けようとしても反発されるだけだと容易に察せられる。

 ならばミンシアはどう声をかけるのか?


「その変態共も、あんたに無害な者もいればそうでない者もいる。そしてそれは必ず暴力を使って害を為そうとするわけじゃあない」

「“搦め手”がある」

「そうだ。あんたを信用させ、不快にさせない手練手管を駆使して、己の欲望を心ゆくまで満たす――一見無害で問題ないように思えるが、決してそういうわけじゃない」


 そここそが肝腎だと、ミンシアはゆっくり首を振る。二度三度と印象づけるように。あるいは何かをはっきりと拒絶・否定するように。


「変態共のそれ・・は厭らしい猛毒だ。気付かぬうちにあたし達の身を侵す。いつの間にか、男の子と触れあえなくなる。歪んだ関係をそれが正常だと勘違いさせられてしまう。あんたが気付かないところで、確実に身や心、魂までが穢されてしまうこともあるってのを知っていてほしい」

「……」

「まあ、口で言っても、わかるもんじゃないがね」


 自嘲気味に艶やかな唇を歪めるミンシアを少女弓士はどう思っているのか。

 頭巾の暗がりでその表情は読みにくいが、ミンシアの年齢以上に艶のある女の匂いに、何かを感じとっても不思議ではない年齢であり知性も世慣れた経験も少女にはある。

 答えは短い返事にこめられていた。


「――ありがと」

「ああ」


 それ以上は口説かない。

 後はそばで力になってやるだけだ。それが姉であり――リンデルには否定されたが――仲間なのだから。

 ミンシアが落ち着いた足取りで自席に戻ると、すでにこちらも落ち着きを取り戻したロンデルと隻眼親父の変態コンビが、なぜか二人で酒を酌み交わしていた。

 杯を傾けながら神妙な顔でロンデルが独白する。


「考えてみれば、デル・・にはマリーがいる。邪なことをしようとすれば彼女が噛み殺してくれるだろう」

「あんたわざと間違えてない?」


 自爆したロンデルが少女弓士とミンシアに睨まれている中、足下ではもそり・・・と動いた大型犬が「わぁふ」と欠伸のような自己主張を発する。

 「任せておけ」かそれとも「忘れてなくてよかった」と云いたいのだろうか。


「……さっきからお前らの話しを聞いてると、このまちで――通常のと違った形で――女を攫う事件が起きてるってことになるな」

「君もそう思うか?」

「ああ。こりゃ『協会ギルド』に報告しておく必要があるんじゃねえか? 警備兵じゃ本気にしないだろうからな」


 さりげなく会話の仲間に入っている隻眼親父をミンシアも諦めたのかいつものことなのか、取り立てて追い出そうとすることはなく、通りがかりの給仕にエールなぞを注文している。


「だが折角の依頼クエストが台無しになる可能性もある」


 ロンデルが渋るのは、はじめの依頼が難易度変更と共に取り消され、請け負う者も含めて再設定リスタートされる場合があるからだ。

 こういうケースでは、旨味が大きく損なわれる場合が多々あるというのは誰もが知っている。


「仕方ないんじゃない? 身の丈を越えた依頼だったらかえって危険だよ。誰かの力を借りるなり、相応しいレベルの連中に任せるのはむしろ推奨されるべきだね」


 第一、と最後までしゃべる前に少女弓士が口にする。


「適正難易度を明らかにした功績として、最低報酬は確保できる」


 昔の『協会ギルド』にそこまでの余力は無かったらしいが、近年では、事案の審査不手際として『協会ギルド』で最低保障をしてくれるのだ。算定基準は厳しいもののある程度の損失を埋められるだけでも痛みは大いに和らぐ。


「そうだな。今回ならマイナスは考えられないから、無理をしないのが得策か」

「なら決まりね」

「異議無し」

「オレも文句はねえ」


 隻眼親父が骨付き肉を卓上に叩きつけ、面白くなってきたとロンデルを睨む。


「どうせ、再設定した依頼に乗っかるつもりなんだろ?」

「当然だ。俺たち『一角獣ユニコーン』がか弱き女性の窮地を見過ごすことはない」

「“か弱き男性”もね」


 ミンシアが馴れた感じでツッコめば、ロンデルは眉間にしわ寄せ「それではユニコーンじゃない」といつもの不満を垂れる。


「だったら“処女”に限定しないとおかしい」

「それじゃ差別だろう!」

「あんたの女性おっぱい限定もね」

「がっはっは、馬鹿なパーティだな」


 「お前部外者だろ、どっか行けや」という女性陣による非難の目に動じもせず、隻眼親父は腹の底から笑い飛ばす。

 「まあ俺は“尻”が好みだが」と聞かれもしない嗜好を何気にぶちまけ、ロンデルの僧侶とは思えぬ鍛え抜かれた背をばしりと叩いた。


「俺が入って二対二・・・――悪かねえだろ」

「――なるほど」

「「いや、入れないから!!」」


 勝手にパーティへもぐりこまんとする隻眼親父に

全力阻止で団結する女性陣。「胸がないのがな」と独自の視点で残念がるロンデルが名前を聞いてなかったと隻眼親父に問えば。


「あ? 俺か? ガルフだ・・・・、よろしくな大将」


         *****


刻は少し前後する

ヴァル・バ・ドゥレの森

    『羽倉城』中庭――



 や!

 たぁ!


 パシリと小気味いい音に短い悲鳴が重ねって、地面に短めの木刀が転がり落ちる。


「――痛ぁ」

「取りなされ、姫様」


 中断を許さぬ無情の声に、エルネは赤らんだ白い手首をさするのをやめ、唇を噛みしめながら取り落とした木刀を拾い上げた。

 汗で滲んだ首筋に年齢に不似合いな色香を纏わせつつ、鋭く尖らせた碧い瞳が男共の邪心を手痛く撥ね付ける。

 無論、対峙する剣士の眼差しは闘う事への欲求に染められており、色欲の入り込む余地など残されてはいないようであったが。


「今の“流し”はよかった」

「でもすぐに手首をやられたわ」

「それは儂の腕が良すぎるせいで、姫様に落ち度はありませぬ」


 恥ずかしげもなく自画自賛する剣士に、エルネは微妙な笑みで返す。

 剛馬と名乗る目の前の剣士は、人は悪くないし、過剰な気遣いもしないので付き合いやすい反面、少し手荒いところがある。

 だが、それはエルネが望んだこと。

 偉大な剣士エンセイ殿も仰っていた――手心を加えた分だけ剣は鈍る、と。


「……痛い分だけ延びる、てことよね」


 エルネの呟きに剛馬が肯定するがごとく太い笑みを浮かべる。ガタイの大きさと猪首に力攻め一本の無骨な剣士かと思えばその真逆、実に丁重で呑み込みやすい教えに、彼が選ばれた理由をエルネはすっかり納得していた。

 信じるに足る剣士が認めるのだ、ならばエルネに必要なのは腹を決めるだけ。


「いいわ、どんどん痛めつけてちょーだい」


 トッドやミケランがこの場にいれば、互いに別の・・意味で・・・受け止め青ざめるようなことを口にして、エルネは思い切り打ちかかっていった。


「えいっ」


 気持ちを込めて真っ向上段から振り下ろす。

 躱されても意識を途切らせず、続けて突きを放ってゆく。むしろこちらが本命。


「やぁ!!」


 二度、三度。

 ダメだったらすぐに上体を立て直して――

 そこで振り下ろされてきた剣にギョッとして、思わず剣を翳して受け止める。


「――きゃっ」


 剣が重なり、抗う間もなく容易く身体ごと弾かれる。

 尻餅をついて顔をしかめるエルネに剛馬が「だめだ」と苦言を浴びせてきた。


「“受け”たら必ずそうなる。女が剣を手にするというのなら、防御はこれすべて“流す”か“躱す”のふたつにひとつ」


 それほどに男と女では腕力かいなぢからに差があるのだと剛馬は幾度めかの説教を繰り返す。

 そこに相手が一国の姫であるという心遣いはない。ただ女子おなごであっても勝てる方策を懸命に模索し見出したものを――技の難易度が高いも承知で――実現できるよう厳しく指南するだけだ。

 それが“負け”も“分け”も良しとしない剛馬ならばこその理念が顕わになった指導方針。――とはいうものの。


「ま、頭では理解しておられるようで、馴染むまでの問題でござろうが……」


 むしろたった数日で、このように動ける方が驚きだと剛馬は感嘆する。多少の持ち上げ・・・・があったにしても嘘偽りのない本音だ。「儂の知る限り、さような姫様はおらん」と運動能力の高さを手放しで絶賛するのもまた。

 それが素直さがウリの剣士からとなればエルネも悪い気はしない。だから、途中で投げ出すこともなく夢中で続けてきたとも言えるだろう。それに――


 やってみると気持ちいい。


 公都での出来事や魔境での苦難から一時でも離れ、夢中で汗を流していると心も身体も軽くなる。

 決して忘れたいわけではない。

 ただ、息苦しさが身も心も重くして闘う気力を奪うのだけはいただけない・・・・・・と思っただけだ。それでは協力してくれる皆にも申し訳が立たないと。

 事実、城に到着早々倒れ込んでしまい、多大な迷惑をかけている。それも体力的な面はもとより心労も祟っていることは自分でもよく分かっている。

 故にここ数日は、色々自分なりに試してみたのだ。

 散策中に訪れた厨房で、打ち解けた飯炊き女達に無理を言って炊事の真似事をさせてもらい、年少の庭師に庭の手入れとやらを教えられ、手伝い、禿頭の古老からは茶を馳走になり、淹れ方も教わった。

 ただ、同じ姫らしい方にはお城の抜け出し方を教わり、狩りをしようとしたのだが、途中で見つかり、弦矢殿にこっぴどく叱られたのを思い出す。


(あの方は妹君に弱いようね……)


 途中からなぜか弦矢殿の婚姻の話しに切り替わり、それを「お前も同じだろう」と辛うじて切り返して引き分けに持ち込んだようだが。どうみてもあれは妹君の策に軍配が上がろうというもの。


(妹君もクールビューティで頼もしい方だわ)


 今もこうして淡い桃色の小袖を着込んでいるのは弦矢の妹――靜音から借り受けたものである。

 少し胸元をゆるめれば着苦しさもないし、腰に回す矯正下着コルセットも不要とあって好もしいところもある。

 何より“着物”という異文化の服装を身に付ける新鮮さに昂揚感があり、可愛らしいデザインも気に入って妙にはしゃいでしまった――。


 ◇◇◇


「はぁー……なんかぴったり」

「それはよかったわ」


 靜音様は折り目正しく“正座”という独特の座り方をなされたまま、涼しげに目元をゆるませ悦んでくれる。


「でもちょっと胸元が・・・……」


 エルネが襟元をぐいと広げようとするのを「ああ、はしたのう・・・・・ございますっ」お付きの人が慌てて止めに入り、靜音様にやんわりと止められた。


「その必要はないでしょう」

「けどちょっと胸が苦しくって・・・・・・・

「その必要はないでしょう」


 靜音様は同じ言葉を繰り返しただけなのに。

 まるで首筋に冷ややかなナイフを押し当てられたようにキュッと心臓が窄まったのはなぜでしょう。なんだか身の危険さえ感じたような。

 無論、今思えば気のせいなのは明らか。


「そうですね。ここだけ肌を晒すのは、ちょっと恥ずかしいかも」

「男衆の目もあります。私も・・苦しいのを我慢しておりましたから……ふふ」


 そこでふっと何かの縛りが解かれたように感じられて、真の女性の笑顔とは人を安堵させるものだとエルネは感じ入ったのだ。だから本音をぽろりと洩らしてしまったのは靜音様の包容力が為させる業。


「ですよね! ちょっとどころかほんとはとても・・・苦しくて」

「ええ、かなり・・・我慢しましたわ」


 はうっ――また・・、とんでもない寒気が!


 ◇◇◇


「――若もどうです?」


 ふいに剛馬が剣を肩に掛け、エルネの背後を見やったのを合図に稽古が中断される。


「お身体の調子は良さそうだ」


 エルネが振り返れば、男臭い笑みを浮かべる城主――諏訪弦矢が佇んでいた。


「お陰様で。――今度は貴方様がお相手してくださるの?」


 金糸のような髪を上気した頬にまばらに張り付かせ、ちょっと上目遣いに尋ねてくるエルネに弦矢は「いずれ機会があれば」とやんわり避ける。


「剣の修練は煮詰めるほどに良くなる。今少し馴染められるが良いかもしれん」


 そこに確かな意図を読み取って。


「お気遣いは無用です。これ・・はあくまで体調を整えるためのもの。そちらの準備ができたのなら、一日でも早く叔父様にお会いすべく行動したいのです」


 出立を遅らせる考えを弦矢が暗に告げれば、エルネは真っ直ぐに見返してきっぱり拒絶した。もはや心身共に万全であり遺漏はないと。それが彼女の意志なれば、弦矢にこそ受け入れぬ理由はない。 


「直近の一報では、予断を許さぬ状況になってきたようだ。道が険しくなる前に・・・・・・・・・、せめて都に入るがよいとの考えもある。まずはグドゥ殿が確保してくれた“隠し拠点”に向かい、そこで再度情報を整理し、後の行動を決めようと思う」

「お任せします。私はあなた方を信じ、自分のすべきことだけに集中します」

「うむ」


 見事な心掛けだ。

 弦矢が黒瞳を満足げに細め、「実は少し胸が躍っていてな」と胸を叩く。不謹慎だが赦せと。


「森の外は初めてじゃ。良くも悪くもすべての出会いが待ち遠しい」

「何だか城を不在にする言い方ですね」

出る・・となればそうなる」

「え?」


 城主自ら魔境くにを出ると?

 面食らったエルネが剛馬を振り返れば、剣士は当然とばかりに良い笑顔を浮かべている。こちらも愉しくなってきたと云わんばかりの太い笑みで。


 驚かない? というより止めないの?


 なぜかエルネの方が狼狽えるのを「いやあ楽しみだ」と弦矢はすでに歩み去って行く。

 小さいとはいえ、非公式とはいえ、一国の王あるいは領主が勝手に他国へ入るということの意味を知るだけに、エルネはあたふたするが周りには政には無縁の戦闘馬鹿の剣士しかいない。

 ぶんぶん木刀と拳を振り回し、エルネはやきもきする己の混乱を精一杯に表現する。


「ちょっと(私のことより)誰か止めなさいよ!」


 エルネの叫びが中庭に虚しく吸い込まれた。


         *****


翌日未明

ヴァル・バ・ドゥレの森

    『羽倉城』城外――



 ぶん、という剛風を纏う素振りの音が寝静まる樹林で唸りを上げていた。

 だが危険地帯らしい魔物同士の争う気配はない。

 ただ規則正しい律動を刻み、強まることも弱まることもなく回数を重ねてゆくだけである。

 その音が次第に変化していった。

 何か切っ掛けがあったようには思えず、確かなことは、低く唸る音が徐々に風切る高音に変わったことだけである。


 ひゅん――


 ひゅん――


 それは豪雨で泥水のように濁ってしまった河が、時間の経過と共に溶けていた泥土が薄れ、やがては透明感溢れる清澄な河へと戻る様に似ている。


 ひゅっ――


 ひゅっ――


 樹林に佇むは人の影。

 手にするものは一振りの剣。

 先ほどからすでに半刻(一時間)ほど、頭頂に振り上げ真一文字に振り下ろすだけの行為を黙々とこなし続けていた。

 思わず何のためか、と問いたくなるほど切実な表情で。

 一心不乱に続ける肉体は、はじめ死体のように冷え切っていた。それがやがて赤みを増し、一振りごとに素振りの音を澄んで響かせるとなれば、決してその行為が無駄ではなかったろうとも思わせる。

 当然、その表情にも変化が。


「待たせてしまったかな」


 ふいに、振り下ろした剣先をぴたりと止めて。

 額や首筋に汗の珠ひとつも浮かべぬ初老の剣士が、無為に独白したとは思われぬ。


「――迷いは消えましたか」


 応じたのは、陽が昇る前の闇夜に相応しい冷貌の侍。

 本気で気配を殺したつもりはないが、さりとて見かけた処から足音を忍ばせたのは、戦人としての習慣でもあり、また少なからぬ強者への好奇心があったことは否めない。

 その腕の立つ者であっても察しきれぬわずかな気配に抑え込む術も見事なら、それに感づいた初老の剣士も同様に称えるべきであろう。

 互いに嗜み程度のもの・・・・・・・と承知するからこそ話題にもせず、するりと間合いを詰めるに任す。


迷い・・と見えたか――」

濁り・・としても」


 むしろ剣の濁りが、かような短い時間で解決する方が不思議でならない。冷貌の侍――月ノ丞の疑念を初老の剣士――エンセイは承知しているが語ることはない。


「姫様の体調は快方に向かっているようです。城の者とも分け隔てなく接し、姫様に惹かれておる者もいるようで。まるで我が子を見るよう――失礼」


 不敬な話しかと気付いて月ノ丞が目礼する。それを大事ないとエンセイは聞き流す。


「むしろエルネ様が喜ぶ話しだ」

「よき姫ですな」


 謝意の代わりに感じたままを告げ、月ノ丞がさりげなく提案する。


「我々もまずは“隠し拠点”を整えることに労力を費やすことになる。数日様子を見てから出立されても問題はないと存ずる」

「私に異論はないがエルネ様の決めることだ」

「貴方が諭せば姫様の気持ちも変わるのでは?」


 「それはどうかな」とエンセイは疑念を呈し、剣を静かに鞘に納める。


「私は“護衛を”と求められ応じたに過ぎん。政の色合いが強い判断は領分ではない」

「護衛として、より安全を考えるのは?」

「護衛として、どこであろうとも、いかなる状況であろうとも、エルネ様を御護りするだけだ」


 きっぱり言い放つ剣の達人の気迫に、月ノ丞も押し黙る。無論、呑まれたのでなく、剣士の意志を尊重したにすぎない。

 その姿勢に応えるべきと感じたのか。


「私にも娘がいる」


 そうエンセイが告白する。


「剣しか能のない男には、娘にしてやれることなど何も思いつかん」


 妻さえ碌に構ってやれず。

 赤子を抱いた記憶はほとんどない。あまりに小さく軽く柔らかすぎて、もう一度触れるのが怖くなったくらいだ。

 幾十の刃にも動じなかったこの己が。

 幾百もの技を以て敵を制してきたこの己が。

 剣さえ持てぬ赤子を相手に、途方に暮れ、手も足も出ないのだ。

 己のすべてを懸けた剣がまったく役に立たない・・・・・・

 それどころか、稀代の剣士と持て囃され有頂天になっていた自分の、人としての中身が、何と浅く空っぽ・・・なのかと愕然としてしまうほどに。

 そのひどい動揺が伝わってしまったのか泣かれ、さらに狼狽し、泣き止まぬ魔獣め・・・が母の手元に戻った途端、天使のような顔で笑み小さな小さな鼻をぐずつかせるのだからたまらない。

 そんな情けない姿を晒し困惑するだけの己を妻は愉しげにころころと鈴鳴るように笑っていたが。


「……今にして思えば、私が娘に触れているとあれは嬉しそうにしていたような気がする」


 その遠くを見るような眼差しに月ノ丞は「もしや――」とつい思ったことを口にしてしまう。


 答えは小さな頷きひとつ。


 けれどもとても重く鈍い動きにすべてを察し「不躾すぎた」と二度目の謝罪を迫られる。

 だがやはり先ほど同様、一気に老け込んだような剣士の面差しに月ノ丞を責めるささくれた感情は見られない。その資格さえないと思っているからだ。


「子の育て方も知らぬ私だ――」


 自嘲気味な声に、だが確かな決意のみを漲らせ。


「せめて、エルネ様が思うがままに歩まれるを望み、降りかかる凶手あれば、この剣で切り伏せて差し上げたい。――役に立たなかったこの剣で」


 あの時は必要でなかった。

 だが有事である今においてのみ、己が剣の使い所を見出し得るとは、運命の神とはよほど皮肉屋か意地悪であるらしい。

 無論、今のエンセイが胸に抱くのは、ただ感謝しかあるまいが。

 あり得るはずのない二度目の機会を得た剣士が、煮え立つほどの闘気を立ち上らせるのを目にして、月ノ丞が胸中に抱くは、だが、業深き剣士の性・・・・・・・


(立ちはだかる者が気の毒なほどだ――いや羨まし・・・くもある・・・・、か)


         *****


明けて早朝

ヴァル・バ・ドゥレの森

   『羽倉城』門前――



 誰よりも大柄な体躯と、それとは対照的に少年を思わす小柄な体躯の人影を門前に見とめて、『慧眼』と呼ばれし初老は遅すぎた・・・・ことを知る。


「――行かせたのか」

「止めて止まるようなおとこなら、儂が城主になっておるわ」


 咎める様子もなくただ確認するだけの声に、巨漢の武将が愉しげに応じた。その不敬な暴言に眉をひそませながらも、初老はもうひとりのつくねん・・・・と佇む枯れ木のような古老へ目を向ける。


「万雷殿はともかく、其方まで」

「このような事態だ。城主に犬ころ・・・であってもらっては困るというもの」

「牙を研がせると?」

「まあ容易にはいくまい。だが、あれは元来狼だ」


 こちらも“あれ”呼ばわりする不敬な古老に初老は苦言を呈すこともなく、目を広々と切り拓かれた雑地の向こう、樹林の奥へと向けてむっつりと黙り込んだ。


「心配か……?」


 同じ方へ目線を向けたままの古老の問いに。


「儂の甥なれば。あやつ・・・がどれほど力を得ていても、ここには奇っ怪なる術が存在し、その遣い手も多いという話しだ」


 自身もあるじを“あやつ”呼ばわりして、仏頂面の下に秘めていた不安や懸念を覘かせる。古馴染みしかおらぬ今だけの、珍しい取り合わせを初老は味わう気持ちになっていた。


「ついていった顔ぶれは承知しておるか?」


 エルネ姫達一行が一緒であることは誰もが承知している。それだけでも異論反論大いに揉めたが、姫と城主の意見が一致している時点で方針は決まっていたようなものである。

 何ともなれば、初老の胃痛を悪化させただけの話しで、今またここで不毛な情念を掘り起こすつもりは毛頭ない。

 故に巨漢の問いを正確に認識した初老は「確かなことは」と断りを入れる。


「ひとりを除いて『抜刀隊』の主立った者が城からいなくなっていると聞いた。それと――庭に待機している兵達の様子が気になる。のう、万雷殿。その旅支度はいかなる心のあらわれだ?」

「見てのとおり」


 大風呂敷で包んだ荷を肩掛けにし、大小を腰に挟んだだけの軽装をお披露目とばかり巨漢が両手を広げてみせる。

 だが、だからこそ質すのだと初老は再度問い直す。


「その行き先、目的を聞いておる」

「なに、近場の街までな」


 異人の鎧騎士に教えられたと。


「狩った獲物を売る手筈だろう? 次こそは儂が直にしてみたくてな・・・・・・・

「貴殿がか?」

「左様」


 さらりと答える巨漢の武将に仏頂面の初老が抱いている不安は、城内の者なら誰もが理解できることだ。

 ここで手綱を放す愚行を承知しているが故に。

 万雷は言わば“無垢な問題児”。そのような者を異人の街へ行かせれば、どのような始末になるのか想像できもすればできないとも言える。

 つまりはいざこざ・・・・必至、かつ、その影響力は善き方向も悪しき方向も計り知ることはできないと。


「何か土産を頼む」

「何を――」


 初老の苦悩を想像できぬはずもあるまいに、分家の忌み子があまりにさらりと勝手を述べれば、巨漢の武将は「今回ばかりはそれも愉しみだな」と嬉しげに請け合う。

 正気か、こやつら――?


「どのみち、殻に閉じこもっておるばかりでは状況を打開できぬ」


 そう古老が意図を付け加えれば。


「遅いか早いかの違いだと?」

「なんだ、分かっておるではないか」


 からかう調子の声に、背中を押されたかと初老は気付いてそっと嘆息した。確かに帰還の術を探るためにも、この世界に積極的に関わり溶け込む必要はあるのだ。

 だが城を預かる身ともなれば。


「急いては仕損じるとも申すが――」

「――慎重に過ぎて機を逃しては、“後の祭り”というものだ」


 『慧眼』ならば先を見て、懐深く受け入れよ。そう古老に窘められたようで、初老は本家の矜持よりも己の未熟に気恥ずかしさを感じる。


「近頃は、当初の頃ように物の怪の動きが活発とも耳にする……」

「されど何時ならばよい、とは誰にも分からぬ」

「……まだ、“教えを受ける身”のようですな」


 自嘲する初老を「必要か?」「かように留守を預かる日がくるならば」「ならば、若が戻るまでの刻はあろう」と古老は請け合う。

 そのように腹を決め、老いてなお向上心を見せる古馴染みへ「よきかな」と告げるのは。


「ま、若い者の旅立ちは年寄りが見守ってやるのが相場であろうよ」

「そういうおぬしも歳を考えよ」


 他人事のように告げる巨漢の武将を初老は呆れ顔で苦言を呈す。己の興味を優先させて若い者から機会を奪うのはいただけないぞと。

 「分かっておる」とちっとも分かってなさげな背中越しで首を縦に振り、巨漢は手を挙げ、歩み始めた。

 またしても小さく嘆息した初老のそばを、いつの間に近づいていたのか、城門を抜けてきた兵達が整然と列を為し、覇気の衰えを感じさせぬ大将の後に続いてゆく。


「これも教練の一環だ――」


 侵略・・にとられまいな。

 じわりと嫌な汗が初老の頬を滑り落ちる。

 大きな不安を懸命に抑え込み、安堵するために古老の顔を後ろから覗き込めば、想定外の成り行きにぽかんと口を開けるしわくちゃの顔があるだけであった。


「お、おい無庵……?」

「……うむ。南無阿弥陀仏」


 なぜか神妙に経を唱え出す古老の低い韻律が、彼らの前途を――むしろ行き先である異人の街の未来を暗雲で覆うように不景気な音色となって響き渡る。

 まったくもって非常に、縁起でも無かった――。

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