第217話・大切な想い

 杏子から頼まれた恋人の振りを始めてから十日が経ったが、杏子は一目見て分かるくらいに疲れた表情を見せる様になっていた。

 そしてここ数日はるーちゃんからの知恵を使って色々な作戦を実行してはいたけど、それも思った様な効果は上がらず、これはいよいよ俺が出張った方がいいんじゃないだろうか――と、真剣に考え始めていた。しかしその事を杏子に話せば、絶対に俺が出張るのを却下されてしまうだろう。

 それならいっその事、杏子には内緒で相手の男子に話をつけに行こうかと思ったりもしたけど、杏子はそんな俺の考えなどお見通しだったらしく、『一人で話に行ったらお兄ちゃんのこと嫌いになるからね?』と、釘を刺されてしまった。

 そして俺はそんな杏子に対し、『どうしてそんなに俺が出張るのが嫌なんだ?』と、一度聞いてみた事があったけど、その時の杏子はちょっと寂しそうな表情を浮かべながら、『だって、いつまでもお兄ちゃんに頼ってばかりじゃ駄目だと思うから……』と言っていた。

 俺が直接の解決を図る事を杏子が望まない気持ちは分からないでもない。けど、こうやって恋人の振りまでして協力をしてるんだから、そんな杏子の言い分も今更な感じはする。

 しかし杏子も高校二年生なんだから、今の自分とか環境とか、そんなものに対して色々と思うところはあるんだろう。だからそんな杏子の気持ちは、最大限に尊重してあげたい。

 だけどそれはそれとして、杏子に危害が及びそうな場合は、そんなものは完全無視で出張るつもりだ。例えそれで杏子に嫌われる事になったとしても、それは仕方がない。杏子に取り返しのつかない何かがあるよりは遥かにマシだから。


「杏子、大丈夫か?」


 学園での授業も終わった帰り道。俺は憂鬱そうな表情を見せる杏子に小さくそう尋ねた。こんなに元気の無い表情の杏子を見たのは、かなり久しぶりな気がする。


「う、うん。大丈夫! お兄ちゃんも頑張って協力してくれてるんだし、これくらいへっちゃらだよ!」


 空元気――そんな言葉がピッタリと当てはまるくらいに、杏子の笑顔は無理をしているのが分かる。兄としてはそんな妹の表情を見るのは実に忍びない。

 しかし杏子の気持ちも尊重してあげたい手前、大した事もできない自分に異様な苛立ちを感じていた。


「なあ、杏子。やっぱり俺が話をつけに――」

「それはダメッ!!」


 杏子の事を心配して出始めた言葉は、最後までつむがれる事なく拒否されてしまった。


「何でそんなに嫌がるんだよ? そんなに俺が信用できないのか?」

「そんな事ないよ……お兄ちゃんの事は誰よりも信頼してるもん……」

「だったら」

「だからこそダメなんだよ。私はお兄ちゃんに頼ってばかりじゃダメなんだよ。そうじゃないといつまでも、私はお兄ちゃんにとって妹のままだから……」

「はっ?」


 杏子が口にした言葉はとてつもない謎に満ちていた。だって杏子は今も昔も、これからだって俺の妹なわけで、それ以上の何かになる事なんて無いんだから。


「あっ……」


 そんな事を話しながら歩いていると、杏子に言い寄って来ている男子がよく居る駅前通りへと辿り着いていた。そして多くの人で賑わいを見せる駅前通りの時計搭の下、そこに問題の男子が居るのを見つけた杏子が一歩後ずさるのが分かった。


「今日はどうする? 朝に話してた方法でいくか?」


 るーちゃんから教えてもらった手段も残りはそう多くない。だけど俺達は限られた手段の中で有効そうな方法を選び取り、それを試すしかないんだけど、これまでの結果を考えると、残された手段も相手に通じるとは思えなくなっていた。


「…………ごめん、お兄ちゃん。今日は私の言葉で話して来る!」

「えっ!? ちょ、ちょっと待てよっ!!」


 それで解決しなかったから今こんな事になってんだろ――と言いたかったが、それは杏子も十分に理解しているはずだ。


「大丈夫だよ、お兄ちゃん。私ちゃんと話して来るから。私の本当の気持ちを話すから。だからここで待ってて」


 杏子の見せる真剣な表情に俺はそれ以上何も言う事ができず、言われるがままその場に立ち止まってしまった。

 そして杏子はそんな俺を見てにこっと微笑んだかと思うと、覚悟を決めた様にして堂々と相手の方へと向かい始める。すると時計塔の下に居た男子は杏子が近付いて来た事に気付いたらしく、姿勢をピンッと正して緊張した様子を見せた。

 俺と杏子との距離は、おおよそ二十メートルほどと言ったところだろう。接触した二人の会話こそ聞こえはしないけど、その表情はなんとか見えている感じだ。

 ここからでは杏子が問題の相手に何を話しているのかは分からないけど、俺としてはいつでも杏子の助けに入れる様な体勢は取っている。まあ、何事も起こらないのが一番いいんだけど、人が感情の塊である事に間違いは無いので、その感情がいつどの様に変化を見せるかは想像もつかない。だからこそ、人ってのはとてつもなく怖い存在でもあるのだ。


「――ん!?」


 そして言い知れない緊張感を持ち続けながら杏子達の様子を見守る事しばらく。

相手の男子が俺の方をチラッと見たかと思うと、その男子が杏子に詰め寄るのが見えた。

 何を言っているのかはよく分からないけど、相手が興奮しているのはよく分かった。そしてこのままでは杏子に危害が及ぶかもしれないと思った俺は、すぐさま杏子の方へと向けて走り始めた。

 決して足の速い方ではない俺だが、この時ばかりは今までの人生で一番の速さを出していたのではないかと思うくらいに杏子との距離は縮まっていった。そしてあともう少しで杏子の所へ辿り着く距離まで来た瞬間、パンッ! ――と大きく乾いた音が駅前通りに響いた。


「えっ!?」


 その音を聞いて驚いたのは俺だけではなかっただろう。なぜなら駅前通りを行き交う人達が立ち止まり、その大きく乾いた音に驚いて杏子達の方へと視線を向けていたからだ。


「あ、杏子! 何やってんだよっ!」


 本来なら杏子に対して心配の言葉の一つも掛けるべきなんだろうけど、相手に対して思いっきりビンタをかましてしまった事を考えると、そうも言っていられない。

 いったいどういう理由で杏子が相手にビンタをかます様な状況になったのかは分からないけど、それでも公衆の面前でビンタはマズイと思う。


「ごめんなさい。でもこれ以上、私とお兄ちゃんを困らせないで下さい。お願いします」


 杏子はそう言うとビンタをかました相手に深々と頭を下げ、サッと踵を返してから自宅の方へと歩き始めた。


「お、おいっ! 杏子!!」


 俺の呼び掛けに一切反応をせず、杏子はどんどん帰路を歩いて行く。俺はそんな杏子のあとを追って足を一歩前へと進めたが、すぐに立ち止まってからビンタを受けた相手の方へと振り返った。


「杏子が手を出した事は俺も謝るよ。ごめんね。だけど君も、相手の気持ちをちゃんと考えないといけないよ? 一方的な好意の押し付けは、相手にとって迷惑でしかないんだから」


 未だ呆然とした様子を見せている男子にそう言ってから再び踵を返し、俺はもう姿が見えなくなった杏子を追い駆けた。


「――ふうっ……杏子、いったい何があったんだ?」


 駅前通りを抜けて閑静な住宅街へ入った所で杏子に追い着いた俺は、顔を俯かせたままゆっくりと歩いている杏子の隣に並び、率直な質問をした。


「なんでもないよ……」

「あんな見事なビンタをかましておいて、なんでもないって事は無いだろ?」

 

 その発言を聞いて即座にそう言うと、杏子は進めていた足をピタリと止めてから俺を見た。


「何だ? どうかしたのか?」

「……お兄ちゃんは私のこと好き?」


 いつもながら意図が掴めない質問を突然する妹だが、俺に向けている真剣な表情を見れば茶化す事はできない。


「もちろん好きだよ。杏子は大事な妹だからな」

「そっか……うん、私はお兄ちゃんが大好きだよ。だから怒ったの、ごめんなさい」

「お、おいっ!」


 その質問に答えて頭を撫でると、杏子はそう言ってから逃げる様にして走り始めた。そして俺はそんな杏子を見ながら、大きく首を傾げるしかなかった。

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