第86話・兄妹になった日
杏子ちゃんと一緒に暮らし始めてから約三ヶ月が経った。
俺はあれから様々な方法で杏子ちゃんと仲良くなろうと頑張ってみた。しかし、やる事の全てが空回りをし、俺はなかなか杏子ちゃんとの距離を縮められないでいた。
そして杏子ちゃんと一緒に暮らし始めてから最初の七夕の日。その出来事は唐突に起こった。
小学校三年生の夏。七月七日の七夕の夕暮れ。
ひぐらしの声が幾重にも重なり、街のあちこちから聞こえてくる。
陽が落ち始めているとは言え、まだ街灯が点くほど暗くはない夕刻の街を、俺は杏子ちゃんを捜して走り回っていた。
「はあはあ、ここにも居ない……」
よくよく考えてみると、事の発端は今朝から始まっていた。
今日は日曜日で学校は休み。
俺は朝起きてから親が準備していた朝食を杏子ちゃんと食べる為に部屋へと呼びに行ったんだけど、部屋には既に杏子ちゃんの姿は無く、綺麗に畳まれたパジャマがベッドの上にぽつんと置かれていただけだった。
ただその時、いつもは綺麗に整頓されている部屋のタンスの一段が少しだけ開いているのが見え、俺はその引き出しを静かに閉めてから部屋を出た。
杏子ちゃんは早朝から散歩に行く事があったので、俺はまたそうなんだろうと思って先に朝食を食べ、自室で杏子ちゃんの帰りを待っていた。けれど、お昼になっても夕方になっても杏子ちゃんは一向に帰って来る気配を見せず、時刻が十七時を過ぎたところで、俺は杏子ちゃんを捜しに外へと飛び出した。
つまりこう言った経緯があり、俺は現在進行形で杏子ちゃんを捜し回っているわけだ。しかし、四十分くらい捜し回ってはみたものの、未だ杏子ちゃんを見つける事はできていない。
両親は仕事の都合で今日は帰宅しないから、杏子ちゃんを捜せるのは俺だけしか居ない。だから一生懸命に捜していた。
暑い外を走り回っている俺は既に大量の汗をかいていて、Tシャツはその汗を吸って肌にピタリと張り付き、不快感を増していく。
「一度戻るか……」
考え無しに飛び出して財布を持って来てなかった俺は、喉も乾いていた事もあり、一旦自宅へと戻る事にした。
もしかしたら杏子ちゃんも帰って来ているかもしれないし、何よりこの身体にまとわりつく不快感が堪らなく嫌だったから。
「――ただいまー! 杏子ちゃーん! 帰ってるー?」
玄関で靴を脱ぎながら大きな声で問い掛けてみるが、その問い掛けに対する反応は無い。とりあえず確認の為にと杏子ちゃんの部屋も覗いてはみたけど、部屋の中は朝の状態と何ら変わるところはなかった。
杏子ちゃんが家に居ない事を確認した俺は、台所で水分補給をしてから自室へと戻り、急いで着替えを始めた。
そして着替えをしながら部屋にある掛け時計を見ると、既に十九時過ぎを指し示していた。それを見ていよいよヤバイと感じていた俺は、会社に居るであろう親に電話をするべきかどうかを悩んだ。
このまま杏子ちゃんが見つからなければ、最悪の場合、警察に相談という事態になるだろうから。
「ん?」
そんな焦りを感じていた俺の耳に、外から楽しげに騒ぐ人の声が聞こえてきた。何だろうと思って声が聞こえてくる方の窓へと近寄って外を見ると、そこには数人の男女の姿があった。
背格好からすると、中学生か高校生と言ったところだろうか。その集団は楽しげに騒ぎながら歩いていて、女性はみんな浴衣を着ていた。
「そっか。今日は七夕祭りがあったんだ」
杏子ちゃんを捜す事で頭がいっぱいだった俺は、七夕祭りがある事をすっかり忘れていた。
「もしかしたら……」
そして祭りの事を思い出したその時、俺は杏子ちゃんの居場所について一つの可能性を思いついた。
俺は机の引き出しから財布を取り出してズボンの後ろポケットへ深く入れ込み、そのまま再び家を飛び出した。
多くの人がひしめき合い、
屋台が立ち並ぶ通路は人で混み合い、祭り独特の様相を見せていた。各屋台からは食べ物を焼く香ばしい匂いなどが漂ってきていて、空腹のお腹を刺激する。
「美味そうだなあ……」
途中にあったとうもろこし屋さんの前でついつい立ち止まり、とうもろこしが香ばしく焼けていく光景に見入ってしまう。
「……だめだめっ! 今は杏子ちゃんを捜さないと」
目と耳と鼻に訴えかけてくる誘惑に負けそうな自分に喝を入れ、再び杏子ちゃんを捜し始める。
俺は杏子ちゃんがこのお祭り会場に来ている可能性は十分にあると思っている。その理由は二つ。
一つは朝に杏子ちゃんの部屋へ行った時に、タンスの一段がちゃんと閉まっていなかった事だ。あそこは確か、杏子ちゃんの浴衣が仕舞ってある。
なぜ俺が杏子ちゃんの部屋にあるタンスの中身を知っているのかと思われるかもしれないけど、杏子ちゃん達の荷物が我が家に届いた時、俺は荷物の整理を手伝った。その時に杏子ちゃんが、大切そうに浴衣をあの開いていた引き出しに仕舞っているのを見たから覚えていたのだ。まあ、あれから三ヶ月経ってるんだから、仕舞う場所を変えてないとも言えないけど。
そして二つ目の理由。
それはここが杏子ちゃんにとって、お母さんとの思い出の場所であるという事。これは杏子ちゃんの父さん――今は俺にとっても父さんになるけど、とりあえず父さんから聞いた話だ。
杏子ちゃんは産まれた頃からとてもお母さんに懐いていたらしく、物心つく前からお母さんと毎年この七夕祭りに訪れていたらしい。つまりここは、亡きお母さんとの思い出の場所。だからきっと、ここに来ていると思った。
これは俺の予想だけど、杏子ちゃんはきっと、お母さんに会いに来ているんだと思う。
亡くなった人に会いに来るなんておかしな話だとは思うけど、きっと杏子ちゃんの中では、お母さんはまだ生きているんだと思う。だからきっと、このお祭り会場のどこかに居るはず。
そう思ってあちこち捜してはいるものの、杏子ちゃんの影も形も捉える事が出来ないでいた。そうこうしている内に花火が上がる時間になってしまい、人波は花火が打ち上げられる場所へと流れて行く。
俺は自分の思惑が違ってたのかと思っていると、ふと視線を向けた先に神社が映った。
「行ってみるか……」
わずかな可能性に賭け、俺は急いでその神社へと向かう。
祭りの会場から五分くらい離れた小高い所にあるこの神社は祭りの会場と違ってそれなりに静かだけど、境内のある方からは花火が空高く打ち上がる度に、『おー!』っと言う人々の声が波の様に押し寄せて聞こえてくる。
そんな歓声が聞こえてくる境内へ向けて階段を上り詰めて一番上へ辿り着くと、俺は人だかりがある方へと足を進め、花火が上がって辺りが明るくなる度に杏子ちゃんと似た背丈の人物を見つけては、杏子ちゃん本人かどうかの確認をしていた。
しかし、杏子ちゃんと似た背丈の人物はその場にはなかなか居らず、居たとしても全員が人違いという始末。
「杏子ちゃん、来てないのかな……」
意気消沈しながらその神社から祭りの会場へと戻ろうとした時、大空に打ち上がった大きな花火が、今までに無いくらいに神社内を明るく照らした。
そして俺が居た場所とは逆側の奥。花火で照らされた場所に一人、ベンチにぽつんと座っている浴衣姿の女の子が居るのが見えた。位置が遠くてそれが杏子ちゃんなのかは分からなかったので、とりあえず確認の為にと近寄って見る。
「杏子ちゃん?」
神社にはこれと言った灯りも無く、花火が上がった瞬間以外は暗くてその姿が確認できない。
「お母さん!?」
暗闇の中、その人物はスッとベンチから立ち上がって少し驚いた様にそう尋ねてくる。その声は普段との差こそあれど、確かに杏子ちゃんのものだった。
「あっ……」
大きな花火が上がり、俺達の居る神社内を明るく照らす。
すると何かを期待していた様な表情から一変。花火の明るさで俺の姿を確認した杏子ちゃんは、明らかに落胆した表情を見せてから再びベンチへと座った。
「捜したよ。杏子ちゃん」
「……ごめんなさい」
ベンチの端っこに腰掛け、俺は安堵感と共にそう言った。すると杏子ちゃんは、顔を深く俯かせたまま小さな声で謝る。
「……誰かを待ってたの?」
「…………」
杏子ちゃんは俺の問い掛けに言葉では答えず、ただ静かに頷いた。
「もしかして……お母さんを待ってたの?」
「…………」
今度は声でも態度でも、杏子ちゃんは何も答えなかった。
そして少しの沈黙のあと、杏子ちゃんが俺の腕をちょんちょんと指で突いてきた。
「ん? どうしたの?」
「……お父さんが居なくなって、寂しくないの?」
俯かせていた顔を少し上げて俺の方を見た杏子ちゃんは、相変わらずの寂しげな表情を見せたままでそんな事を聞いてきた。
「…………父さんが居なくなった日の事は、今でもよく覚えてるよ。突然の事だったから、聞かされてすぐの時には実感が無かったな。でもさ、実際に死んだ父さんを目の前にした時、はっきりと分かったんだ。これは現実なんだ――ってさ」
「…………」
チラッと横目で隣を見ると、杏子ちゃんはいつもの様に黙って話を聞いていた。違いと言えば、俺をじっと見ながら話を聞いている事くらいだ。
「もちろん父さんが死んでしばらくは、俺も結構落ち込んだよ。もう父さんはこの家に居ないんだ――とか、もう家の玄関を開けて『ただいま』って帰って来る事は無いんだ――とか、そんな事をずっと考えていたよ」
実際、あの時の俺は相当に塞ぎこんでいた。素直に人の死を受け入れるというのは、相当に難しいものだから。
「多分、俺は寂しかったんだと思う。仕事で忙しくて家にはあまり居なかったけど、父さん凄く優しかったし、たまに遊んでくれる時は凄く楽しかったし…………」
俺は父さんが居た頃の事を思い出していた。
ほんの一時と言えるくらいに短い間の事だけど、本当にどれも良い思い出だ。
「あっ……」
そんな事を思い出していた俺の頬に、優しく甘い花の様な香りと、柔らかな感触が伝わる。
「大丈夫?」
どうやら父さんの事を思い出して涙を流していたらしく、杏子ちゃんは優しく俺の頬を流れている涙をハンカチで拭ってくれる。
「ごめんごめん。大丈夫だよ、杏子ちゃん」
思ってもいなかった事態に慌ててしまい、俺は急いで自分の腕で涙をぬぐって笑顔を見せた。
「良かった……」
そう言って少しだけ笑顔を見せてくれた杏子ちゃん。
俺はこの時、初めて杏子ちゃんの笑顔を見た。それは小さな笑顔だけど、とても優しさに満ちた笑顔で、この子はとても優しい子なんだろうなと、そう思った。
「私、お母さんと約束してたの……七夕祭りは一緒に行こうって……」
「だからここでお母さんを待ってたの?」
杏子ちゃんはその言葉にコクンと頷いた。
やはり杏子ちゃんは、お母さんが亡くなった事を未だに引き摺っていた。それも気持ちとしてはよく分かる。俺だって気持ちの整理をある程度つけているとは言え、思い出せば涙も出てくるんだから。
「……杏子ちゃん。一緒にお祭りを見に行こう!」
「えっ?」
そう言って杏子ちゃんの手を握ってから連れ出し、祭りの会場へと向かった。
「――ほら、杏子ちゃん。りんご飴に綿飴に、焼きそばにたこ焼きだ!」
「こ、こんなに持てないよ」
「あっ、そうだよね。ごめんごめん」
そう言いながら杏子ちゃんに手渡そうとした焼きそばとたこ焼きを引っ込める。
「さあ! 食べよう!」
杏子ちゃんは少し戸惑った表情を見せながらも、持っていた綿飴にかじりつく。
「……甘いね」
杏子ちゃんは小さな笑顔でそう言ってから、再び綿飴にかじりついた。
ちょっと強引だったかなとは思ったけど、せっかくのお祭りの日に、あんな暗い場所でやって来ないお母さんを待ってるなんて寂しいじゃないか。
でも、杏子ちゃんだって本当は分かっているはずなんだ。いつまで待ってもお母さんはやって来ないって事を。
今の杏子ちゃんは、ちょっと前の俺と同じだ。だからこそ分かる。このままじゃいけないと。
「よし! 他も見て回ろう! 杏子ちゃん!」
「……うん」
杏子ちゃんは小さく頷き、俺が差し出した手を握ってくれた。
それから祭りが終わるまでの間、俺は杏子ちゃんと一緒に祭りを楽しんだ。
いや、正確には杏子ちゃんが楽しんでくれていたかどうかは俺には分からない。だけど、小さいながらも見せてくれていた笑顔は本物だと思う。
いっぱい出店を回った祭りも終わり、沢山の人が帰路を歩く中、俺は杏子ちゃんと手を繋いで自宅へと向かっていた。
「――お母さんの事、忘れなきゃいけないのかな……」
一方的にお祭りの話をしながら歩き、もう少しで自宅に着こうかという頃。不意に杏子ちゃんがそんな事を口にした。
「どうしてそう思うの?」
「だって……このままじゃ私、きっとみんなに迷惑をかけちゃうから……」
その言葉からは、周りを思いやる優しさを感じた。
きっと杏子ちゃん自身も、今のままじゃ駄目なんだと、なんとなく分かってはいたんだろう。
「……忘れなくていいよ。いや、むしろ忘れちゃ駄目なんだ」
「でも、それじゃあ……」
「忘れちゃ駄目なんだ。だって、杏子ちゃんにとってお母さんは大事な人だったんだろ? 『居なくなった人が居られる場所は、生きている人の心の中だけなんだ』って、田舎のじっちゃんが言ってた。だから忘れちゃいけないんだ。絶対に」
「でも、みんなに迷惑かけちゃうよ?」
「そんな事は気にしなくていいんだよ。俺達は家族に、兄妹になったんだ。色々とあるだろうけど、俺はどんな杏子ちゃんでも受け入れる。だから無理をしなくていいんだよ。いつかきっと、自然に家族になってるから」
「ううっ……」
そう言うと杏子ちゃんは、途端に涙を流し始めた。
「だ、大丈夫!?」
慌ててポケットからハンカチを取り出し、杏子ちゃんの涙を拭いながら優しく頭を撫でた。
「ありがとう……お兄ちゃん……」
この時に初めて杏子ちゃんに『お兄ちゃん』と呼ばれ、俺はそれがとても嬉しかった。初めて杏子ちゃんに歩み寄れた気がしたから。
だから俺も、一歩近付いてみようと思った。杏子ちゃんの兄として。
「うん。さあ、帰って七夕のお願いを一緒に書こう! なっ、杏子!」
「うん!」
今までで一番の明るい笑顔を浮かべ、杏子は元気に返事をする。
時間はかかるかもしれないけど、俺は杏子と仲良くしていけると確信した。そして、この優しくも繊細な心の妹を大事にしていこうと思った。
× × × ×
「お兄ちゃーん! 準備できたー?」
少し思い出に耽っていた俺の耳に杏子の元気な声が聞こえ、その杏子が部屋へと入って来た。
「あー、まだ準備が終わってない。早く準備しないと、祭りが終わっちゃうんだからねっ!」
薄紫色とピンク色の朝顔が描かれた綺麗な藍色の浴衣を身に纏った杏子が、膨れっ面でベッドに寝転がっている俺に迫って来る。
「わりいわりい。今すぐ準備するから」
のそっとベッドから起き上がり、外出の準備を始める。
そんな俺をじっと見つめる杏子の様子が、なんだか不気味だった。
「何だよ杏子。着替えるんだから外に出てくれよ」
「もう……お兄ちゃんは肝心な事を忘れてるよ?」
少々ご立腹気味にそんな事を言う杏子。
俺は杏子の言う肝心な事が何か分からず、思わず小首を傾げてしまった。
「何の事だ?」
「もうっ! コレだよコレ!」
そう言ってその場でクルリと一回転し、可愛らしいポーズをとる杏子。
その様を見る限り、どうやら着ている浴衣の事を言っている様だった。
「ああ。良く似合ってるよ」
「あー! 気持ちがこもってなーい」
「そんな事は無いって」
「本当に?」
「本当さ。それ、お母さんが着てた浴衣だろ?」
「……うん。知ってたんだ。お兄ちゃん」
優しげに自分が着ている浴衣を見つめる杏子。
何で俺がそんな事を知っているのかと言うと、杏子が中学生になった頃に、一度だけ父さんからその浴衣を見せてもらった事があったからだ。
あの時、『杏子がもう少し大きくなったら、これを渡そうと思う』と言いながら、大事そうにその浴衣をタンスに仕舞っていた父さんの姿を、俺は今でもはっきりと覚えている。
「ああ。だから良く似合ってるよ。お母さんみたいに美人さんだ」
「うん……ありがとね、お兄ちゃん」
にっこりと微笑んだ杏子は、ご機嫌な様子で部屋を出て行った。
「やれやれ。手のかかる妹だな」
そう言いつつも、自分の口元が緩んでいるのが分かった。
そんな自分にシスコン要素を感じつつも、急いで準備を済ませ、外で待って居るであろう杏子のもとへと向かった。毎年の恒例行事、兄妹で行く七夕祭りを楽しむ為に。
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