第40話

 毎朝行われていた理事長の放送が無くなり、一週間近くになる。

 体調不良との噂だったが、定かでない。あの理事長が中途半端な不調で休むとは考え難かった。

 実は癌末期で瀕死の状態であるとの憶測が飛び交うのも、あの理事長が休養をとるほどの状態と考えると頷ける気がした。

 毎朝の“21世紀の精神異常者”だけが空しく響いていた。


 彼女の症状は目に見えて悪くなっていく。

 以前のような全身の痙攣が続けて2回。腕だけなど、部分だけのものは多すぎて数え切れない。痙攣だけではなく、突然挙手するような意識しない動きを繰り返すことがあるが、「どうしたの?」の尋ねると烈火のごとく怒り出すので、触れずにおくようにしている。


 使い慣れた道具の使い方が分からなくなり、音楽をきくことも忘れてしまった。

 昼夜の区別もなくなり、何日も眠れないことが増えてきた。

 眠れないときは、可愛がっていたドジョウに対しても、吠えてもいないのに「うるさい!」と怒声を浴びせる。

 ある晩には

「どうしてわたしが眠れないのに、平気で眠ってられるの!?」

と突然、叩いて起こされた。

 寝ぼけた状態でとりあえず「ごめん」と謝った。

「ごめん、ごめんって、本当に分かってるの!?」

 いつものように叱責が始まる。ボクは、何か他のことを言わなければならないと思いながら、謝ることしかできなかった。逆上した彼女はマグカップを投げ、それがボクの額に当たった。裂けた傷から血が止まらなくなった。そんなときだけ、彼女は泣きながらボクに謝るのだった。


 話の辻褄も合わなくなってきている。

 急に軍隊が自分の方に向かっていると言い、ボクが咳払いをしたのが、こちらの位置を相手に知らせているのだという。

 記憶力も失われ、数分前のことを忘れていることが増えた。

 ボクのことが分からないこともある。

 この前、久しぶりにまとまった睡眠をとったときには

「あなた誰? やめて。近寄らないで。110番通報するわよ!」

と周囲の物を手当たり次第に投げながら、叫び続けた。

 大声が止まないときは、注射を打ちに看護師がやってくる。夜間の人手がないときには、一緒に体を押さえるよう頼まれることがある。無理矢理彼女を押さえ込む手が自分の手だとは思えない。


 彼女を救うために使えるはずの時間が、無駄に過ぎていってしまう。毎日が手の間からこぼれ落ちる砂のように通り過ぎていく。疲弊の感覚だけが積み重なっていく。


 山口看護師がボクを呼びに来た。この人に呼ばれたときは、いつもろくなことがない。

 詰め所の横に設けられた診察室には、白衣の男が座っていた。

 理事長は噂通り、体調不良で計画の指揮をとれる状態ではないという。

 彼女の保護者である理事長の同意も得られているため、手術の実施自体には問題がなく、彼女の状態を考慮すると日程を早めたほうが望ましいとのことだった。

 船頭はなくとも、大きな船ほど惰性で進むということか。


 ボクは白衣の男の説明とは、全く別のことを考えていた。

 犬はどうしようか。山口さんに頼んだら、病院で飼ってくれるだろうか。

 母はあの“良くしてくださる方”と結婚するのだろうか。それだけは止めたほうがいいとはっきり言うべきだったろうか。手に入れたい物のために親切を切り売りするタイプの人間だと伝えたほうが良かったろうか。

 部長はもう死んだのだろうか。もう少しで殺されるところだったけど、何となく憎めない。ああいうのも人徳というのだろうか。

 Dr.はまたワニに食われているだろうか。あの人の助言の通りボクは精々気張ることができているだろうか。イヤな奴だと思っていたけど、もう少し話をしてみたかった。


 そして、彼女にはボクのことは忘れて欲しい。もし、理事長の言うとおり彼女が“再生”するのなら、以前と変わらない生活を送れるようになるのなら、過去の記憶は足枷になるだろう。

 でも、そんなことは全部嘘だ。苦しいくらい覚えていて欲しい。毎日、片時も忘れないで欲しい。いつもボクに感謝して、犠牲にした命を惜しんで欲しい。もっと、ボクを大切にするべきだったと心の底から後悔して欲しい。

 醜い執着が心から消えてくれない。



「それじゃ、君の保護者の同意も頂いているから、予定通りすすめさせてもらうよ」

 また、“同意”か。思わず笑いが洩れる。母は何に対して同意したのか分かっているのだろうか。


「はい、ボクの全てを彼女のために使ってください」

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