第37話

 ツヨシは一度決めてしまうと変えることができない。妹に会えなかった日から、毎日落ち着かなかった。

 どうして妹に会わずに帰ってきてしまったのだろう?

 ツヨシは自分の頭が良くないことは知っていたが、それでも正しいこと、正しくないことの判断はできると信じていた。自分が帰ってきたのは正しくないことだった。

 ツヨシはシズカに会わなければならない。会って彼女を守らなければならない。


 看護婦さんに病院を案内してもらった。昔はあんなに鍵はなかった。みんな自由に出入りして、庭に出て近くの小川から飛んでくる蛍を捕まえたりもした。建物は一緒なのにがらりと雰囲気が変わってしまった。

 祖父の顔を見た。ツヨシの姿を見ても全く気づかなかった。

 覇気のある中にも優しさがあったかつての面影が失われ、今の彼は見えないものに取り憑かれた幽鬼のようだった。

 あの病院では間違ったことが行われている。隠さなければならないことで充満している。

 

 ツヨシは誰かに相談しようと思ったが、彼の言いたいことが分かるのは母とDr.だけだった。

「妹を連れて帰るって? 彼女はあそこにいたらいけない?」

 いつもツヨシの言うことには同意してくれるDr.も面食らったようだ。

「ツヨシの言いたいことは分かるよ。だけど、まずいんだよ。今は」

 Dr.は“うーん”と苦しそうな呻き声を繰り返した。

「彼女がツヨシを待ってる? そっかあ。確かに君の言うことはいつもはずれたことはないね」

 Dr.はツヨシを根本的なところで信頼していた。

「でも、シズカちゃんは。前の彼女とはちょっと違うよ」

 ツヨシは大きく首を振る。

「えっと……関係ない? そう。あの腑抜けに聞かせてやりたいよ」

 Dr.はそう言って深いため息をついた。そして、ツヨシの顔をじっと見ると、つぎのように語った。


「君たち兄妹の主治医として、妹さんの守秘義務には抵触するかもしれないが、彼女に起こっていることを兄である君に説明しよう。君にとってつらいこともあるかもしれないが、知ってもらう必要がある。彼女は頭の中に腫瘍ができた。普通の腫れ物とは違って、こいつは隣に他の大切な体の部分があるのに、“ちょっとどいてくださいよ”って感じで、どんどん大きくなっていくんだ。そして、大切な部分をどんどん食っていく。それはシズカちゃんが彼女自身でいるために絶対必要な部分も、生きていくためになくてはならない部分も含んでいる。要するに、こいつにシズカちゃんは命を奪われる」

 ツヨシはじっと耐えながら聞いている。自分の痛みより妹の苦しみの方がずっとつらいと感じる。幼少からずっとそうだった。妹の失敗は自分の失敗のように見せてきた。彼女が風邪にかかれば、そばから離れず自分が代わりなれるよう神に祈りを捧げた。

「うん。ちょっと待って。ここからが大切なところだ。君のお祖父さんは、これを治そうとした。これは正しい。しかし、正しい中にも間違ったことがある。少なくとも僕はそう思う」

 ツヨシは難しい顔をして考え込んでいる。ランドセルの中にいるベンジャミンの様子を確かめてから、Dr.の方を向いた。

「自分の頭が悪い? あの、それは勘違いだよ。みんながそんなこと言うから、君がそう思いこんでるだけだ。本当に頭が悪いって言うのは、正しいことと、間違っていることの区別がつかないやつのことを言うんだ」

 それからDr.は独り言を言いながら頭を抱えた。

「僕も今、そういう状態かもしれない。でも、僕は僕の信じるルールに従って、君のお祖父さんを止める。昔、君のお祖父さんに僕はすごくお世話になった。独立した今だって、僕の大切なボスでもある。精神科医としてのイロハを教わったし、日本の生活や医局の慣習に馴染めなかった僕をかばってくれた。あの人がいなかったら今の僕はいないくらいの大切な恩師なんだ。その人を僕は裏切る。大切な人から最も大切なものを奪う」

 ツヨシが手話とも違う独特の身振りでDr.に尋ねる。Dr.はそれについて少し考えてから答えた。

「うん、まあ。また、あの病院には行くよ。ボスのところに。最後の挨拶をしにね。……ついて行く?いや、そんな、穏やかな話じゃないんだよ」


 Dr.は顔を歪めた。ツヨシは彼のそんな表情を見たことがなかった。

「ツヨシ、僕は君の味方ですらない。僕は君の妹を殺す。死ぬことよりも悪いことから救うために」

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