May : Day 03

Episode 033 「表に出さないけれど」

 午前中の授業は滞りなく進行し、チャイムが四時限目の終了を知らせる。

 先にカウンセリングルームへ顔を出したのは、笹原ではなく智史だった。テーブルを挟んだ早川の正面に腰を下ろす。


「今日は俺が一番乗りか」


 ソファに座った智史の、何気なく呟かれた言葉を早川が拾う。


「……なんだかんだ言いつつ、和島くんも今の環境に慣れてきたみたいね」

「まあ、大体一ヶ月もあれば適応できるんじゃないですか。学年が一つ上がっても、クラス替えで違うメンバーになっても、俺にとっては全員等しく知らない他人だし。すること自体は昨年度と大して変わらないから楽なもんですよ」

「あら、そういう意味で言ったんじゃなかったんだけどなあ」

「じゃあ、どういう意味だって言うんですか?」


 智史が尋ねると、早川は口許に指を当てながら一考し、面白がるように打ち明けた。


「いつも顔を合わせてる女の子については、他の子たちと違って、知ってる隣人に位置づけされてるのかなって。そう思ったんだけど、どうかな?」


 その眼差しにはどこか期待が含まれている。無邪気な子供をからかうような、余裕のある大人の瞳だった。


「俺は、別にあいつのことなんて……」


 どうとも思っていない――そう続けようとした。

 けれど智史は、一度吸った息を吐き出す。簡単に無視することができていたなら言い淀むことはなかっただろう。

 周りから美人だと称される笹原に、智史は惑わされまいとしている。

 だが、外見に騙されないということは、中身に正しく目を向けているということだ。

 笹原由美奈という人間に対して、確かに感じられるものがある。表すことのできない綯い交ぜの気持ちがある。好意的に受け止めることも、嫌いの一言で済ませることもできず、割り切れないまま、忘れ去ることも難しい。


 主張が行き違うたびに、それは鮮明な色を残していった。

 スクールカウンセラーを除いて、同世代で唯一真正面から口論を交わした。

 知らないものが生まれるには充分な出来事を経験している。今まで通りでいられないのは仕方のないことなのかもしれない。

 違う価値観に触れることで人の価値観は揺れ動き、移り変わっていく。

 変容しつつある模糊とした状態の心では、適した言葉は見つからなかった。


「気に入らない奴ですよ、あいつは。初めからずっと」


 だから同じ言い回しを使う。

 しかし、以前と同一にはならなかった。

 そのことを智史は自覚していた。不明瞭な心理の中に、一言では表現できない感情の存在を認めている。表情や口調の節々から、早川にもその変化を感じ取ることができた。


「……何笑ってるんですか先生。俺、今おかしなこと言いましたか?」

「別に。なんでもないわよ?」


 智史と笹原を引き合わせた張本人は、目論見もくろみが実を結んだ子供のように微笑んでいる。

 早川の返答とその笑顔は真逆のものだった。向けられている生暖かい眼差しから逃げるように、智史は早川から視線を外す。


 その時、ドアの開く音がした。ノックのない入室である。

 カウンセリングルームを訪ねる大半の人間は、部屋へ入る前に合図をする。大抵の場合、ドアを叩くか室内に呼びかけるかの二者なのだが、今回はそれがない。

 馴染みのない環境に立つ者の所作は自然と畏まったものになる割合が多くなる。そうでないということは、来客は部屋の主であるカウンセラーと親しい人間なのかもしれない。

 事実、智史の心当たりは特定の人物一人だけだった。


 予想に違わず、現れたのは笹原の姿である。けれど、なぜか普段のようにすんなりとは入ってこない。

 俯いた顔には恥じらいのような逡巡が滲んでいた。

 微かに声が聞こえてくる。


「ねえ、本当にここでお昼食べるつもりなの?」

「もちろん。そのために来たんだよ」

「そんなに私と一緒がいいの?」

「友達だからね。……おかしいかな?」

「そういうわけじゃないんだけどさ……」


 智史と早川は互いに顔を見合わせた。

 室内からは見えないが、笹原は廊下にいる誰かと話しているらしい。


「やっぱり、嫌だったかな?」

「嫌っていうのとはちょっと違うんだけど、なんというか、気恥ずかしいというか」

「……駄目?」


 離れていても分かるほどの、大きな溜め息が零れた。


「じゃあ……、まあ……、一緒に食べましょうか」

「ホント? ありがとう由美奈っ!」


 笹原の手を握った誰かが、大袈裟なほど腕を振る。

 オーバーなリアクションに笹原は戸惑っていた。かといって、そのスキンシップを本気で嫌がっているわけでもないようだった。

 端から窺うだけだった早川が何かを察したように呟く。


「今日のお昼は楽しくなりそうね」


 それはそれは満面の笑みだった。

 廊下で話していた二人がようやく部屋に入ってくる。


「綾乃、突然で悪いんだけど……」

「何も問題なんてないわよ? さあ、早く座って。お昼にしましょう」

「そ、そうね……」


 どこか納得しきれていない笹原を余所に、早川はもう一人の人物の顔を見る。

 一緒に来た、笹原の友達を見遣る。


「槙野さんもね」

「はい、お邪魔しますっ」


 槙野の元気な挨拶を受けて、早川は快く頷いた。

 智史は一連の流れから空気を読むことにした。一度ソファから腰を上げ、そのまま黙って早川の隣に座り直す。


「ささ、どうぞどうぞ。友達同士仲良く、並んで使ってくださいな」

「ありがとう。じゃあお言葉に甘えることにするね」


 素直な感謝を表し、槙野が率先して空いた席に移動する。

 注視されていることを自覚しながら、智史はそれを黙殺した。

 余計な気を回した人間に睨みを利かせていた笹原は、行動がワンテンポ遅れてしまう。

 槙野は招くように、ポンポンとソファを叩いた。


「ほーら、早く早く」

「はあ……。まったく、仕方ないんだから」


 素直になれない笹原は、渋々といったていを装いながら槙野の隣に座った。




 そうして、昼食の時間となる。

 テーブルには四人分の弁当箱と飲み物が並んでいた。


「普段はよく三人で食べてるんですよね。今回もわたし、いつもみたいに勢いで押し切っちゃった感があるんですけど、今後はここに来るの控えたほうがいいんでしょうか?」

「いいのいいの、遠慮なんてしないで? なんならいつでも来ていいからね、槙野さん」

「ホントですか?」


 早川の言葉を、槙野が嬉しそうに受け取る。

 看過できないのは笹原だった。


悠香ゆうかに綾乃、ちょっと待ちなさい」


 智史は聴き慣れていない名前を耳にした。槙野の下の名前である。

 槙野のことが話題に挙がることは度々あったのだが、これまでは苗字だけで呼んでいた。クラスメイトである笹原以外、彼女のフルネームを知らなかったからだ。

 その笹原も、槙野悠香のことに関しては苗字のみを用いていた。智史や早川がいる場では意図してそうしたのか。単純に今までは下の名前で呼び合っていなかっただけなのか。それを判断することは難しい。


 確実なのは、笹原と槙野の関係性が以前より親密になっているということ。

 箸を動かしながら智史はそれとなく笹原の様子を観察する。

 早川が反論するように疑問を挙げた。


「どうして? 友達なら慌てることじゃないでしょ?」

「そりゃ駄目なことはないけど、ちゃんと私にも確認を取りなさいよ」


 笹原は当事者である自分に意見を聞かず、二人が勝手に話を進めたことを不満に感じているようだった。

 槙野が距離を詰めつつ承諾を得ようとする。


「たまにでいいから、今後もここでの食事に参加していい?」

「う、うん。いい……よ」


 恥じらいや照れを隠せず、笹原は槙野との間に少しだけゆとりを持たせた。

 それでも拒絶はしない。たどたどしくも了解の意思を示す。

 二人が友達になる前の温度差を智史は知っている。他人から見ても、それは大きな前進として映っていた。


「良かったわ。友達としてうまくやれてるようで」


 早川にとっても同じ認識だったらしい。二人のやり取りを、まるで保護者のように見つめている。しかしその眼差しも長くは続かない。

 やがてカウンセラーとしての顔ではなく、笹原の一人の友達としての顔に転じる。

 わざとらしい口調で、早川が二人の関係性を示唆する。


「それにしても驚いたなあ。いつの間にか、お互いの名前を呼び捨てにできるほどの仲良しこよしになってるなんてね。引っ込み思案の妹を引っ張るお姉ちゃんができたみたいで、わたしもなんだか嬉しいわ」

「待って、綾乃待って。言わんとしてることは理解できるのが少し辛いけど、否定しにくいけど、小っ恥ずかしいからその言い方はやめてよ。お願いだから」

「仲良し、姉妹、……えへへ」

「こら悠香、だらしなく頬を緩めないでってば」


 自身の感情を表に出すことに躊躇のない槙野の肩を、笹原が軽く小突く。

 そっぽを向いて弁当を食べ進める笹原の横顔を、槙野は満足そうに眺めていた。


 二人の在り方を客観的に捉えて、智史は思い至る。

 笹原由美奈と槙野悠香は、確実に友達としての絆を結べているのだと。欠けていたものを得ることができたのだと。そこには裏表のない善意だけがある。

 智史の手では届かない繋がりが目の前に存在していた。

 一旦会話が落ち着き、それぞれが弁当箱をつつく。

 槙野が思い出したように智史へと話しかけた。


「そういえば……確か前に来た時はちゃんと自己紹介してなかったよね。わたしは槙野悠香。あなたが和島くん、でいいんだよね?」

「え? ああ、そうだけど」

「ふーむ……」


 一人で唸りながら槙野は智史のことを凝視している。話には聞き及んでいた相手と初めて対面するように。

 智史はすぐこの行動の原因に行き当たる。


「もしかして笹原か。こいつがあることないこと適当に吹き込んだんじゃないだろうな? 悪口を共有できたほうが仲は深まりやすいってわけか。ふざけた話だよまったく」


 偏見であると知りながら、智史は不確定である行為について非難した。


「ふふふ。それはもう腹立たしい奴だってことを、これでもかってくらいにね」


 矛先を向けられた笹原は否定もせず、むしろ助長するような怪しい笑みを作った。

 視線と視線が交錯する。

 そんな二人の言動を、槙野は物珍しそうに見比べている。


「いつも昼休みはこういう感じなわけなんだけど、槙野さんには二人の姿がどう見える?」


 早川が槙野に第三者としての印象を求めた。

 忌憚のない率直な感想が飛び出す。


「なんとなくですけど……二人とも口で言うわりに、本気で嫌がってはいないんじゃないかなって。そんな気がします」


 途端、その場の空気が如実に変わっていく。

 智史と笹原は沈黙した。揃って苦虫を噛み潰したように微妙な形相を浮かべていた。

 槙野の捉え方について、早川が掘り下げようとする。少し機嫌が良さそうである。


「どうしてそう感じたの?」

「最近になってから知ったんですけど、由美奈ってよく男子に対する敵意を隠さず態度に出すんですよね。不機嫌な時ほど口も悪くなるし。それに、前にちょっとした噂を耳にしたこともあったから、正真正銘の男性嫌いなのかなって最初は思ってたんです。だけど由美奈の話をちゃんと聞いてると、例外が一人だけ――ぃにゅうぇっ!」


 突然槙野が奇声を上げる。

 笹原が頬をつねって発言を妨害したからだ。


「ひょっと、いらひってば!」

「なんで? どうして? 何を勝手に私のことを語っているのかな? ねえ?」


 首を傾げて淡々と問いかける。口調そのものに棘はないのだが、笹原の眼差しは冷え冷えとしたものだった。

 程なくして頬の痛みから解放された槙野が、急な手出しに抗議する。


「何? わたし変なこと言った? ただ早川さんの質問に答えてただけなのに……」

「余計なことを口走る気がしたからよ。未然に防ぐのは当然の対処じゃない」

「……そうなんだ。わたしが今声に出しそうになったことを知られたくないんだ? ふーん。ちょっと意外な反応だなあ」


 合点のいく部分があるのか、槙野は笹原の言動について納得をしていた。

 まるで友達をからかって遊んでいるようだ。

 智史には既視感があった。他の人物との関係性に類似しているのである。

 笹原と槙野の二人を指して、姉妹のようだと述べたのは果たして誰だったか。


「ねえ由美奈、わたしは槙野さんが言おうとした『余計なこと』について、とっても興味があるのだけど?」


 それこそ意地の悪い長女のように、早川が満面の笑顔で割り込んだ。


「黙って箸でも動かしてなさいよ。食事中でしょ」

「雑談が許されないならこうして集まる意味がないと思うなあ」

「それは、そうかもしれないけど……」

「どうしても駄目なの?」

「……雑談の有無と、私がそれに関して話すかどうかは別問題よね」

「あらら、気づいちゃったか」

「私は何も話さないし、悠香に喋らせる気もないから」


 釘を刺すように早川と槙野を一瞥する笹原。頑なに拒否の姿勢を堅持している。

 嫌がり抵抗するということは、当人もそれを重要な内容であると認めているのだろうか。

 笹原由美奈の中で、和島智史に対して認識が変化しているのかもしれない。


「いいじゃない、教えてくれたって。和島くんも気になるわよね?」

「いや、別に俺は……」


 攻め手に悩んでいた早川が、黙っていたもう一人の当事者を担ぎ上げようとする。

 すかさず笹原が鋭い眼光を送った。誤って下手な意思表示をしてしまえば反感は免れないだろう。智史は溜め息を零した。


 槙野が二人の関係性から何かを感じ取り、思うことを述べた。次いで不都合に働くであろう内容を公言されそうになり、笹原は警戒心を剥き出しにしている。

 智史にも槙野の観察眼に意を唱えたいという気持ちがあった。けれど矢印は笹原へと向けられることとなった。踏み込んだ内情を問われ、不機嫌になっていく姿を見ていた智史は、相対的に平静を取り戻していた。

 流されることなく自身の意見を明示する。


「周りからどう見えてたって、こいつにどう思われてたって、多分俺の感じ方は変わらないと思いますよ。気に入らない奴だってことは間違いなんだから」


 伝えるべきことを言い終えた智史は、弁当に意識を注ぐ。

 その言い分を聞いて、笹原は胸を撫で下ろしていた。

 一人の男子生徒の在り方が、笹原に確かな安心を与えている。反目し合うばかりでは決して得られないものが芽生えているのかもしれない。槙野は小声で感慨深そうに呟いた。


「やっぱり……そうなんだ」


 深く考えず言葉に変えようとした『余計なこと』が、何より、二人の間柄では価値のあることなのだと悟る。

 早川も、人知れず感じ入るように過去を振り返った。

 新学期を迎えてから一ヶ月、二人は様々な側面を見せるようになっている。出会うことがなかったら、代わり映えのしない無愛想な顔をするばかりだっただろう。


 簡単ではない二人の人間性。それを理解しようとし、見守っている視線がある。

 友人を思う早川と槙野は苦笑いを交わした。

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