デカート市カノピック大橋 共和国協定千四百三十八年立夏

 ローゼンヘン館に居着いてもう六年あまり七年になろうというのに、事ほど左様に周囲近辺この辺りのことを知らなかったのかと思うことがマジンには多くある。

 はるか遠方から歩いてたどり着いた土地で、それなりに辺りを歩き回ったこともあるはずなのにだ。

 かつて川を渡るのにかなり強引に筏を組んだ土地をつい最近再発見して驚いた。

 何本も切り株や端材が腐りきれずに残っていた。

 何よりも驚いているのは、西に西に歩いていたはずなのに、かなりの急角度で南にせいぜい南南西、東に向いていないだけマシという勢いで南下していたことだった。

 もちろん言い訳をすれば、馬や家畜に草を食べさせるには通る土地を選ぶ必要はある。

 だがつまり、これまでの旅もどこをどう通ってきたかなぞ怪しくて人に言えるわけもないわけだ。

 館の真東、船宿の辺りから急激に流れが太っているという事実はあるが、今更ながらそれにしてもそれにしてもとマジン自身のいい加減さに瘴気湿地を調査しながら笑ってしまった。

 いま落ち着いて方位を見定めてみれば、ローゼンヘン館の真東には百リーグほどの距離にフラムの鉱山地帯が広がる。

 その山も大雑把に百リーグほどの広がりを持っているから、ヴィンゼに至るまでに見覚えがないわけはないのだが、更にだいぶ北側を通ってザブバル川を渡り、そこからどこかで南に折れて、スピーザヘリンの農場の脇あたりでもう一度渡った。ということらしい。

 実にいい加減なものだ。

 そのような地理測量の確認の他にも成果はあった。

 かなり大きく有望なものだと云ってよい。

 調査の結果、瘴気湿地の液体は殆どがタールであることがわかった。

 濾しとって辛うじて流れる水のように見えるものも水と云うには程遠い代物で、せいぜいが油脂といえる種類の代物だった。

 ザブバル川からかと思われる地下水ももちろん流れ込んでいる様子だが、水と思って飲めば人も馬も間違いなく腹をこわすような透明な液体という性状ばかりが水のように見える代物である。

 タールと知れてすぐは、幸い亜人の部落は水棲種らしく炎を大切に扱う部族だったために、大きな面倒にはならなかったようだが、迂闊なものがタバコをひと投げすれば、あたり一面に蒼い炎が地獄の光景を見せたかもしれない。

 などと当初はそうも考えていたが、腰を据えて更に汲み上げた様々を調べてみれば、燃えないこともないがそこまで簡単に火が付けばマシということもわかった。

 つまりマジンにしてみれば、まさに求めていた材料そのものが泥水に紛れた形で吹き出していた。

 自噴しているタールの沼地の中心は川べりから十五リーグほど。

 現在の集落の位置からまっすぐフラムに向けて敷かれる予定の鉄道からも十リーグから十五リーグかというところで、全く不便な土地であるが、車輌製作をある程度の規模でこのまま続けるつもりならば、開拓開発の着手は必須であった。



 夏至の祭りに間に合うように可倒式の新カノピック大橋の落成がおこなわれ、デカート新港が単なる個人事業ではなくなった頃、鉄道は行政地図上で辛うじてデカート市と呼べる北の端の領域に到達していた。

 元老院では個人的事業として始まったデカート新港の開放についての話題がチラチラと口の端に上るようになっていた。

 たった一年で気ぜわしいことだとマジン本人は思ったが、たった半年でカノピック大橋を建て替えるなどという事業計画はこれまで誰も考えてみたこともなかったし、実際にそれだけの物資を集積すること自体が不可能だった。

 ましてや対岸を切り分ける巨大跳ね橋可倒橋などという技術があり得るなどということは元老の誰もが考えてみたこともあるはずがなかった。

 現状オゥロゥのためだけの余計な機構で、一種の虚仮威しであったが、同じ所に建てたいという希望を優先してみれば、それが面倒が少ないという流れでもあった。

 そんな金額で出来るのか出来ますよ、本当か本当です的な質疑応答とすら呼べないような計画査問がしばらくあって、面倒くさくなったマジンが旧橋ごと用地を買い上げ建て替えるという市井には関係のないものの知る者にとっては衝撃的な出来事もあった。

 数百年の昔、豊かなザブバル川をデカート近傍から渡るために先人がどれほど工夫に苦労したかという歴史は学志館に記録として残されてあった。

 それを何かの寝言かとあざ笑うかのようにデカートの一部の人々には見えたかもしれない。

 かつて堰を伸ばし、流れを一部狭め礎石を積み、堰を解き流れを戻し反対側の礎石を積みという苦労を積んでおよそ五年の歳月で建てられた八百キュビットの大橋はわずかひとつきで跡形もなくなりふたつきで巨大な鉄の柱になり、ふたつきで橋の形になり、更にひとつきで肉がつき実用の体裁がなされた。

 可動橋の運用上の内部機構調整はそこから更にひとつきがかりだったが、半年でデカートの風景が誰の目にも分かる形で変わった。

 元来は町で大工を雇って一年かけて建てるという計画だったが、予算上の指摘を受け整理を重ねるうちに市井で人を雇うよりも、鉄道向けの人員を三百名回したほうが早くて安い、ということになった挙句の出来事だった。

 橋桁が毎日ひとつ消える光景を見ているうちにじっとしていられなくなった大工職人衆がバーリオ親方を窓口に、ただでいいから現場に入らせろと騒ぎ出し、一人一日六タレルという条件で受け入れると工事当局が発表すると四年前の現場を知る者達は、バカじゃないのかと嬉しそうに応募した。

 今回大きく話題になった水面を使って大きな部品を運び込み一気に形を作るという手法は、セレール商会の河川浄化装置やソイルの日月亭で見せていた。

 理屈の上ではそれを大きく引き伸ばしただけと言えたが、旧橋よりも大きなおよそ千五百キュビットをたったの六組の橋脚で支える、というのは理屈がわかっても心配になったし、水面の上で三百キュビットの橋桁を岸の左右に跳ねるというのは、なにを言っているのか、と疑わざるをえない内容だった。

 鉄のネジや鋲を贅沢に使い、火薬で鉄を溶かし貼り付ける現場は、全く正直デカートの大工職人のこれまで知る現場のどれとも違ったが、ゲリエ卿の設計の基本は鋼鉄を骨組み枠組みとして長く渡し、建物の精度や強度を担保することで大型の建造物を速やかに形にする点にあった。

 三年前の段階ではレンガの不揃いや漆喰の縮みを防ぎ、逃がさないようにすることで、仕事の大枠の日程を支える事ができた。

 よほどのヘボが練ったセメントでも見当が悪い素人が積んだレンガでも日程の途中で親方が手を入れてやるまで崩れたりはしなかった。

 わずか半年でデカートの風景を変えたカノピック大橋の解体付替えを執りおこなったローゼンヘン工業という巨大建築物を扱う土木建築業者の名前は、それまでその名前を知らないものたちの間にも一気に広がった。

 鉄工場の多くの職人たちは自分の知っている名前と同じ名前に首をひねったが、やがて納得もした。

 新カノピック大橋の付替え事業の余波はデカートの建築の風景を大きく変えた。

 ローゼンヘン館が鋼線をリーグ単位で卸し始めると小間物屋やそういった細工師たちに混じってレンガ職人が争うように買い始めた。

 ここ二年のうちに質の揃ったセメントがそこそこの量でローゼンヘン館から卸され始めるとレンガ職人の仕事は更に楽になった。

 仕事が楽になるということは徒弟を育てる手間が減るということで、多くのレンガ積み職人がそれまでの倍近い徒弟を使うようになった。おかげで工事の工期が半分は大げさでもそれに迫るほどに素早く作れるようになった。

 その巨大な実例を新カノピック大橋の付替え事業が示していたから、職人たちの多くも大いに発奮していた。

 もちろん実際の着工に至る前でも、ゲリエ卿の絵図面にはデカートの元老院では様々に異論が出ていた。

 町の尖塔よりも高いところを通すという案もあったが、そこまで荷車を押し上げる苦労を考えれば、偶に通れなくなるほうがマシだろうということで納得された計画だったが、城門のせいぜい数十キュビットの跳ね橋の機構の大仰を知っている者たちからすれば、それを十倍にもした巨大な跳ね橋など想像の埒外だったし、よもや作っても動くはずもないと疑っていた。

 可倒構造を実現するために橋の両岸には巨大な尖塔が立ち、それが伝説の城塞の門のようにみえたことで、新たな名所となった新カノピック大橋は、動力橋という新要素はあるものの作りやすさ組み立てやすさを重視した比較的単純な構成をした構造だった。

 水底に埋めた電線でいっぺんに八台の圧縮熱機関を駆動させ、橋梁を斜めに引き上げるという作りのそれは城塞の堀の跳ね橋を大きくしたに過ぎず、特徴というべき何かを説明することはマジンには難しかったが、新工法新材料や外観の特徴で川まつりの大きな話題に花を添えることになった。

 マジンは元老全員をオゥロゥに招待することになった。



 オゥロゥは全く実用船で客船ではなかったが、大きな船体に見合うくらいには人をのせることも出来、フラムからヴァルタまでの二日間の船旅で二百人足らずの人と形ばかりの荷物を載せて、フラムで建設が始まった新港の様子を見せたりということもあった。

 悪魔の城門と怖そうな渾名のついたカノピック大橋の向かう先はデカート新港とソイルののどかな田園を目指す道であって、そうそう驚かせるような種類のものではなかったが、無邪気に武張ったものが好きな人々は多い。

 それぞれ約百五十キュビットの橋桁を釣り上げることで、オゥロゥを二隻すれ違わせる事ができるように作った跳ね橋は、将来の帆船の大型化を予感させ、すでにヴァルタでは帆船の建造が始まっていた。

 人との話し合いよりは現場の製作指導をしたい気分のマジンにとっては、苦しいばかりのいらだちと退屈の夏至の川祭りは、娘達と居られればまた別だったのかもしれないが、連れてきたのはパティとジロとデナだった。

 三人とも気の利く女性秘書たちで、元老院のお歴々にも男女問わずに地味に評判が高く全く問題のない人選ではあった。

 連れてきた三人の秘書は、主人がきちんと働くように整理をするのが仕事で、実のところ彼女らはこの半年余り一年足らずでデカートにもヴィンゼにもローゼンヘン館にもなれていて、人を買うという意味でもその値段の驚きの安さにもマジンを少し安心させた。

 彼女たちの全く完璧な仕事ぶりに感心することは全くそれとして、祭りの首座に仕事で座るということがこれほどに退屈なものかと驚くほどだった。

 退屈と体力を持て余しているマジンを秘書は退屈しのぎにあやしてくれたが、その手厚い看護ぶりも理不尽な退屈をかきたてていた。

 しかしマジン以外の当事者や事情を知る世間にとっては、カノピック大橋の建て替えをめぐっての大博打の花と、その後の手打ちの機会であったことも事実で、勝負に勝った者が何かを言わないと敗者が収まらないことも当然にあり、たとえそれが「ヒトの言うことを根拠なく疑うヤツはバカだ」という子供にするような種類の説教じみたものであっても一区切りは必要だった。

 跳ね橋の操作は河川組合がおこなうとして合意がなされたが、この橋が誰のものかという問題が起き、橋を売った値段で買い戻したいという市と、計画予算案でならば予定通り売却する、というローゼンヘン工業の間でしばし揉めることになる。

 ほかにも、船の大きさの見栄を張りたい連中がしばしば橋を跳ね上げさせることがあり、交通障害を引き起こし問題になった。

 結局そのことが年明けの春に開通した鉄道の信頼にもつながっていくので不毛とも言えなかったが、ともかく忙しい中でデカート州行政司法政庁と屋敷との連絡をおこなう中で、いつの間にかロゼッタは学志館の哲学科高等課程に進むことを求められるようになり、今更に住込女中仕事の気楽さを懐かしく思うことになった。

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