共和国軍大本営兵站本部 共和国協定千四百三十九年

 兵站本部回覧室長マルコニー・エルバス中佐は、非公式に回覧の内容について確認や意見を求められることも多い人物で、左遷同様に回覧室に押し込められることになったが、幽閉されているというわけでもない、無能でもないが出世からは取り残された、共和国軍ではよくいる便利に使われている中堅将校のひとりだった。

 マルコニー中佐の個人的な内面は、強いて希望を上げれば退役する日に准将に昇進して退役礼で送ってもらえると年金が死ぬまでもらえて嬉しい、とはいえ、戦場で部下を叱咤鼓舞するよりは後方で資料と閲覧者の整理をおこなっている方が気が楽、という人物でもあった。

 しかし一方で輜重基地の司令官や師団の兵站参謀まで務め上げたマルコニー中佐が無能であるはずがなく、部内の政治的な成行きによる風除け代わりの些末な懲罰人事であったはずの配置が、本人からの転属希望も余所からの配属要請もないままに定着していた回覧室配置だった。

 そういうマルコニー中佐が彼の職場に訪れる高級将校や将官たちからの愚痴や確認の中に増えてきた、電話と称される装備物品について実況調査の任を与えられたのは、それくらいには兵站本部内で彼が有能と評価されていて、無任所にも等しい閑職についている事を兵站本部長が忘れられていないという確認でもあった。

 マルコニー中佐が命令によって報告書作成の資料としてデカートからの報告資料を探していると一冊の書籍が査読報告書もなく殆ど未整理のまま無造作に扱われていた。

 電話機の数学理論上の構造概略と自動交換機の構造概略と接続アルゴリズム、という掲題の書籍はデカート学志館で発表された学会論文資料であった。

 電話とは、音声信号を音よりも長距離伝達が容易確実な別の信号に置換する装置群の体系で、主に会話を目的とした音声を長距離転送する装置として、変換器と中間経路で信号を補償する信号増幅器と復号器の三つの要素からなっている。という電話についての簡潔な説明はどことなく座学の記憶を思い起こされるものだった。

 内容の半分は背景にある数学的理論の説明と証明に宛てられていて、マルコニー中佐にも理解が追いつかない部分もあったが、かいつまめる限りにおいては構造原理上の整合性の証明をおこなっている様子だった。考え方に破綻はない、という設計上の主張をおこなう材料でしかない。

 長々とした記号の並ぶ数式を無視して読み解いてみれば、伝声管や糸伝話を拡張するために電磁気という信号媒体を使ってる糸電話もしくは伝令のような機械であることが想像できた。

 電磁気は基礎概念として雷や羅針盤という現象で顕現するもので、不可視ながら世界規模の大きな連続性を持つこれらの原理を使って信号記述媒体とする。電磁気の伝播速度が音声の十万倍弱であることから、電話で結ばれた区間は事実上距離を無視して符号化つまり一旦文字化して会話できるとしていた。

 音を文字化するという感覚はつまり笛やラッパを合図に行動している軍隊生活ではよくある風景だった。

 音声が空気の疎密波として表現される、という辺りは砲声の殴られるような衝撃や糸伝話や伝声管が実際に振動するところでなんとなく中佐にもすぐに飲み込め、音が羅針盤のような機構を振動させると反対側で同じような機構を振動させて音にする、という機械の説明に費やされていた。

 そこまでの説明であれば糸伝話と変わるところがないわけだが、電話機のキモは伝播の際に減衰する信号を減衰しにくい或いは減衰しないようにする部分で、音のままでは扱えない増幅器であるようすである。

 ここまでが電話機の構造上の基礎で、更に交換器と称される補助機構で接続を組換え相手先を変更する事ができ、その自動化もおこなっているということでその機械の実際図も掲示されていた。

 理論設計上、数万数億兆を見込んだ接続機構の説明は、機構の物理的な限界いっぱいまで交換接続数を増やせるという、論文らしい将来計画を見込んだものとして結論とは別に終わっている。

 論文が記述された時には既にヴィンゼで実用化されていて、それから半年でデカートでも普及が始まった実績が紹介されていた。

 更に参謀本部に集まる公開されている別資料を調べてみると、電話に関しては一昨年の段階で既に様々に装備化の希望が出ていた。軍で配備が始まったのはギゼンヌからであるらしく、軍令本部が現地のテコ入れに持ち込んだ調査試験中の新兵器の中に含まれていた様子だった。

 部内資料として公開されているとは云え部外秘の部分が多いらしく調査報告は断片的で、更に調査上の事故か不調があったらしく報告の連続性を欠いていた。担当する参謀が途中で変わった報告ではこういった報告は多い。

 報告書は不明瞭な点が多かったがそれでもギゼンヌ発の報告を追ってみると、どうやら糸伝話式の有線電話と糸のない無線電話というものが存在する様子で、論文の詳細を読みこなす努力をしてから報告を読んでいるマルコニー中佐にしても軍人に説明するとなれば軍務以外のなにをどこまで説明すべきか困惑する内容であるので、部外報告としてはしかたのないところと考えることにした。

 ともかく、片手では開けない大きさの二百五十ページを超える書籍になったデカート学志館で発表された論文に話を戻せば、電話機というものが単なる一対一ではなく目的に応じて接続先を変えられ、設備が整える限り遠くまで互いの会話をつなげることができるということを示していた。



 現地調査の任務申請を出すべきかという確認をクエード兵站本部長の元に確認に訪れると、本部長は首をひねるように、もう見積りをもらってこれたのかと尋ねた。

 電話設備について、少なくとも兵站本部長の頭のなかでは予算化申請を前提にした報告資料を求めているということはこれでハッキリした。

 電話設備の有用性はマルコニー中佐にしても直感としては理解できる。

 兵站本部は連絡交渉の頻度が高く、大本営内の兵卒も必然的に多かった。

 大本営内部や各外局公官庁を走り回る伝令の兵卒は二級以下の後備では様々に不安もあるために一級後備か入営三年未満の若い兵が三万人も配置されている。

 ただの伝令を目的に体力を鍛えた精兵が二個師団ほどもいて、大本営警備師団と称されることに軍令本部は苛立っていた。

 それを云う軍令本部にしたところで、三千人余りの少尉中尉を同様の伝令に使っていることに誰もが矛盾を感じていたが、大本営の伝声管設備では到底追いつかず、戦局を受け今なお部局は増える傾向にあり、伝令の必要性は増していた。

 経費報告を受ける立場にあるクエード兵站本部長は、ある意味で軍令本部の誰よりも遥かに事態を深刻に捉えていた。

 回覧室という制度自体が増え続ける伝令に対する対抗努力であったが、階級の誇りと勲章で腰の重くなった将軍や高級将校には大本営の巨大な建物が障害である様子だった。

 つまるところ歩きたくない高級将校によって書類の査読が遅れ決済の承認が遅れ、伝令が増え書類が増えているということだった。

 威張り散らせる部下の数が増えることが将校の立場を支えている実情もあり、全てをまとめて否定できるほどの道理はなかったが、後方の円滑な事務作業の進展が前線の戦力の安定発揮に繋がると思えば、今の大本営の傾向は憂慮すべき状況でもあった。

 とくにこの戦争の直接的な危機のきっかけになった疑獄事件が資料閲覧に係る人々の態度に関わっていたのではないかとさえ感じられるほどに、大本営内部の連絡のやり取りは時間がかかっていたし、その稟議の時間の使い方の巧妙稚拙が決定的な結果に繋がることが多すぎた。

 稟議の巧みさというよりも、もはや山賊のような伝令を狙った妨害戦術さえ大本営の中には伝統的に存在していた。軍令本部の伝令が少尉であるのも士官であれば大本営内で拳銃の携行が許されているからだったし、兵站本部の人員が膨らんでいるのも似た理由で同じ書面を複数準備することが習慣化しているからだった。

 実務派参謀と称される者たちが、対抗案を抹殺するために対案の到着や存在を妨害する事件は、今でも頻発していた。

 流石に大本営内部で殺傷事件に発展することは今では極稀だったが過去にはあったし、今でも拉致や経路の封鎖という手段は頻繁に取られていた。

 元来、部局の内部抗争を掣肘する立場にある憲兵隊までもが伝令連絡の妨害に加担するようになって、なにがなにやらという空気を大本営内部では作っていた。

 審議手続き不備、という形は判定側にとっても判断が必要ないだけに、不正を知っても倫理的な障壁が小さく問題になりにくかった。

 機関小銃の正規予算化の遅れはもっと酷いものだった。

 一部の将校が結託して承認しないという騒ぎになり、疑獄事件に関わった五十名ほどの各地各級の将校が憲兵隊に肩を叩かれる形で退役するまで続いた。

 マルコニー中佐にとって伝令や書式資料を巡る様々は、大本営の面倒の一つという認識はあったが、電話敷設で解決するほどに単純ではないだろうと考えていた。

 伝声管がつながっている相手ですら、ちょっと複雑なやりとりは面と向かってすすめる必要があった。だが、少なくとも伝声管で呼び出しができるだけでもマシとさえ言えた。



 部屋にいるか、資料を読んだか、と確認するための機械か。

 マルコニー中佐は自分がなぜこの任務に選ばれたのか直感した。

 元来、閲覧室とはある議題稟議の資料を自由に閲覧査読し意識と知識を共有するための場として設定されていたはずだった。

 兵站本部にとって電話機とは、稟議を通すべき相手の所在を確認するための装置であり、稟議を通すべき相手を選別するための機械という認識をマルコニー中佐はもった。

 話をしたくても出来ない相手というモノがいるのは常識であったし、そういう人物を相手にしない加えないようにすることも円滑な稟議のための第一項であった。大本営は、話ができる相手と話をしないと話は一つも進まない、そういう巨大組織だった。

 少なくとも佐官級になれば五人や十人の将官と顔見知りで同じくらいの人数の気の利いた責任ある佐官と縁があるはずだった。事実上の左遷で閑職に置かれたマルコニー中佐であっても友人と呼べる関係の司令官やら部隊長は何人かいたから、大本営が伏魔殿であるのは事実としても一本道の屠殺所でないことも事実だった。

 彼がふたつきばかり軍務でデカートに出張することを妻に告げると療養院に勤務する彼女は自分も休暇をとってついてゆくということになった。

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