ペラスアイレス収容所 共和国協定千四百四十年初夏
ローゼンヘン館北の捕虜鑑別所は畑の実りだけで四千人が暮らすには全く狭い地勢と農地だったが、ともかく麦の青が庭先のような畑を彩るようになっていた。
冬場は山風が川風と渦巻くように荒れて過ごしやすいとも言えない土地だったが、森を切り開けば日差しのある風溜まりもでき、豊かというほどではないがともかく過ごすには足りる。山側の土地は対岸に比べて比較的豊かで水を引くためというよりは抜くために水路が必要だったが、ともかく畑ができないという土地ではなかった。
それまで様々な理由で故郷のことを口にすることを避けていた者たちが故郷の小作人であった両親の畑仕事を口にして、ああそういえばあるある、と思い出話に花を開かせていたことが鑑別所の労務として畑を開くことになった理由でもある。
概ね半月に一回の割合で顔を出すゲリエ卿に農具と種籾他にいくらかの畑仕事に使えそうなものを頼むと翌日には車いっぱいの様々が届けられた。
物資の配給はこれまでどおり、労務の収穫は好きにせよ、というゲリエ卿の判断は何のための労務かと捕虜たちを苦笑させたが、楽にせよ、というお達しであればわざわざの苦労を求める兵隊はいなかった。
麦の実りはまだ先の話として、ともかくも風景としての麦畑の青さは、畑仕事は幼少の記憶の中だけという兵隊たちを安心させた。
穴掘り土いじりよりは兵隊がよいと荒レ野の捕虜収容所に残した者の無事を祈るくらいには鑑別所の中の空気は落ち着いていて、そういえば先に収容所を出て行った連中は、等という他人事に花を咲かせて笑うくらいの余裕も帝国軍兵士の身分を捨てていない捕虜たちの間にはできていた。
雪がちらつき始めた時期の石のようにこわばりきった互いの様子からは想像もできない明るい雰囲気が鑑別所にはあった。
同胞であるはずの人々から離れることを望んだ四千名余りの未成年を含む男女は亡命という単語には未だに納得しかねる忌まわしい響きを感じていたが、デカート州政府当局や直接に管理に尽力しているゲリエ卿が捕虜の無為な死を望んでいるわけでないことはそれぞれに理解していた。
折々には野菜や家畜なども差し入れられ、牛馬を飼うほどの余裕はなかったものの鶏はどこからか迷い込んでいて飼われたり、折にふれて食卓に供されたりもしていた。
全般的に捕虜鑑別所は弛緩した空気に包まれていたが、それは三年ぶりの休暇のようでもあった。
前線のことやその後のことについて笑って語るほどの余裕はなかったが、ともかくのこととして森の伐採と畑の開墾という分かりやすく達成感のある労務は、組織を作って挑むのに足るものだった。
拓いた畑では収穫はおそらく一人パンの一斤も怪しい、という水を注すような意見も今はむしろならばこの秋ならば来年と、多少とも先を見るものになっていた。
一方で、ペラスアイレス捕虜収容所の状況は芳しくなかった。
成長期のホムラ男爵は半年余りのうちに肌ツヤが見るも悪く太ったというよりは浮腫んだ不健康さを感じる顔立ちになっていた。
周囲の大人たちの無能を思えば心労からであることはほぼ間違いなく或いは移送をしたほうがよいかもしれない。
だが今はホムラ男爵自身も望まないし、状況も望めない。
何しろまもなく、捕虜の移送事業が再開されるその予告通知にマジンは視察に訪れていた。
六ヶ月の労務と六千名の整理鑑別によって捕虜収容所の自治は好転する事になっていた。
他国に干渉されることのない自律を自尊する帝国臣民として誓われた内容だった。
連名の筆頭にホムラ男爵の名前があるが五十名の人々の連名でもあった。既にこの場にいない鑑別所に送致された者の名もあるが、それも含めてのことである。
ホムラ男爵がマジンとの会談の席に着くようになってから、かつて様々な交渉にでていた顔役というビエロン某という老人はしばらくして姿を見せなくなっていた。連名にも名前がなかった。
マジンが尋ねてみると体調不良ということらしい。
住宅の準備も怪しかった冬のことであれば、名前も書けないほどであればとマジンとしても今更に心配になった。
会合の場が捌けると労務の出来をみせ酒の配給をねだる男たちの目付きが煩わしかったが、赴いた以上は労務の状態を確認する必要があった。
とはいえ酷い出来だった。
そろそろ一年にもなるだろう者もいるはずなのに、大工仕事が手につかないことが不思議なほどにお粗末な出来だった。
戸口に入ったところで一緒について入ってきた看守もろとも閉じ込められたものの、木漏れ日のような隙間からの陽光に捕虜としてここにいる者たちの無能をマジンは却って憐れむばかりだった。
外では看守に向かって建物ごと焼き殺すと脅しているらしい声が聞こえるが、こちらがなぜ武装していないと思えるのかがマジンには不思議ですらあった。
光を頼りに裂け目に匕首を差し入れ一気に引き剥がし、壁を破って出てくると看守よりも、むしろ策を弄した一派のほうが驚きふためいていた。
「ひどい出来だ。この建物では冬は辛かったろう。――ご苦労さん。よく我慢してくれた。視察は切り上げる」
それ以上のことは流石にマジンも口にする気にもなれずに、護衛に同行していた看守の肩をたたいて慰労の礼を述べると視察を切り上げた。
この稚拙な監禁事件に誰が関わっているのか問い糺す気にもなれず、ビエロン某という老人を探してみると、家も与えられない状態で軒下で使用人の孫娘と称する共和国語の不自由な女に世話をされて辛うじて息をするだけの有様で生きていた。
むしろ生きて忠義立てすることこそご苦労、とマジンが皮肉を言うと、老人は一回つばを吐いて敵国人が陛下の真性を謀るなと嘲笑った。
無礼に看守は色めきだったが、先に無礼を働いたのはたしかにこちらだった。
マジンは保護の要を認め、無礼者を引っ捕らえる体で女とともに看守二人に老人を運ばせた。
昨年夏頃からビエロン老人は収容所内主流派から排斥されるようになっていたという。
その頃は概ね直接的な様々は軍人たちに向かっていて特に害もなかった。
だが、軍人たちがいなくなったあたりから次なる獲物を探す動きが起り、初期に収容所に送致された人々、その中でも主流派から脱落した者に徐々にその矛先が向いているという。
先住非主流派といっても軍人軍属よりも更に証拠も根拠もないだけに、単に誹謗の粉の掛け合いというだけが分かれ目で、全く言い掛り以外の何物でもないが、そういうことで人々の針が向くという。
一刺しでは死なないと思っているから気楽に刺す。
そう言って老人は咳込んだ。
話も聞けたし、と別れようとしたところで女が鑑別所に送致するように求めた。
老人がこのまま戻されれば、間違いなく殺される。
前に殺された者は、配給の際に看守が怪我に気が付き治療のために官舎に入れ治療をして戻した人だ、というのが女の意見だった。
中に戻れば間違いなく殺される。それくらいなら忘恩の徒として労務に付いたほうがマシだ。
という女の表情はあながち冗談とも思えなかった。
そこまで状況が悪化しているのかと呆れ判断に惑っていると、どうしても戻したいなら分かりやすく、痣をつけ骨を折り犯せ、という。
ひどい脅迫もあったものだが、話を聞くために引きずっていった者を終わって戻すこともできない状態であるというのは、看守もそこまでと思っていなかった様子ではあった。
しかし死んだ者の様子から心あたりがないわけでもなかったらしい。
わざわざ治療の上から杭を打つような方法で怪我を負わせて殺されていた。
看守に治療をするな、というメッセージを印象させる殺し方だったという。
犯人は分からないが、暗黒街での当局に向けた通牒として死体を使うことはある。
「不愉快だな。お前らバカにされているぞ。犯人はここから生かして出すな。絶対にだ」
話を聞いていた看守の多くはマジンが何を言っているのか、マジンが何を怒っているのか、瞬間わからない様子だったが、すぐにザワリと色めき立った。
「しかし、どうしますか。新しい連中が送致されてくると聞いていますが」
所長はさすがに政治的な決定の意味を考えて、具体的な対処に迷った。
「柵の中を二つに割れ。バカどもに自分たちがどれだけバカか思い知らせてやれ。柵を張る作業は警備を聯隊にも手伝ってもらえ。一気に進める必要がある。資材の手配はボクがおこなう。要領は会社の技師に説明をさせるが、連中には絶対に手伝わせるな。人の問題もあるがあくまで所轄管理の責任だ。兵隊ごっこの気合の入りようを見せてみろ」
二日後。
捕虜たちは一晩のうちに敷地の東側に新たな鉄柵ができていることを発見した。
夜のうちになにやら騒がしい気配は多くのものが感じていた。
だが、わざわざ外での騒ぎに巻き込まれることを恐れて殆どの者は何が起こっているのか見ていない中、翌日、説明を求めるまでもなく何が起こっているのかはすぐに知れた。
収容所の敷地を割くような形ばかりの土塁と空堀を守るような二重の柵の向こうに、疲れ果てた人々の姿があった。
地の果てまで見通せそうな荒れ野のことで少しの努力で何が起こっているかはすぐに知れた。
既に通告のあった三千余名の捕虜たちが後送されていた。
土地を切り分けた理由について先住の捕虜たちは様々に推測したが、つまるところ共和国も管理が手一杯で同じ敷地を使うしかないということだろう、と結論した。
それは一種痛快な帝国の勝利への一歩である。多くの者が気炎を揚げた。
「その証拠に見ろ。送られてきた連中の側には準備された小屋がない。あるのは天幕ばかりだ」
後続の連中の気の毒ぶりは先住の者達の溜飲を下げることになった。
だが、その思いは十日と経たずに覆された。
あろうことか帝国臣民が労務に応じていた。
しかも全く不愉快なことにその労務がこちらから見やすいように敷地の西の奥、新たに作られた管理棟と門の付近に広場と大通りを整然と作り、次第に此方側に完成された建物が見えるように作られていた。
その速さは正確に数えられるものではないが、月の終わりには二人一つで充てられていたであろう共和国軍が使う天幕がなくなり、あろうことかこちら側の境のそばで五百かそこらの者たちが畑仕事を労務としておこなっていた。
その労務のひたむきさはあからさまに利敵行為であると柵の此方側の者達は不満を漏らした。
脅されていれば仕方もあるまい。
それに初夏といえこの時期雨がふらないわけでもない。
建物がなくては天幕で過ごすのはよほどの兵でも堪える。
それにこの硬い荒れ野は水はけも悪く、果てしなく水たまりができる土地。
そう辛うじて向いの新入を弁護する者もいた。
まともに農作業ができる土地でもなかった。
ともかく見守ろう。
そう考えた捕虜たちの二ヶ月三ヶ月は内心を裏切るものだった。
住宅の建設の速度はあまり変わっていなかったが、次第にこちらの建物よりも出来のよい物が増えていることが遠目にも見えた。
それどころか四ヶ月目にはとうとう初日から天幕なしに到来した同胞たちを受け入れ始めていた。
そして先住の捕虜たちは柵の向こう夏の終わりエノコログサと大差ない貧しい麦と芋の蔓に覆われた畑を目にして、何事かの差が積み重なったのかを自問することになった。
彼らの多くはほとんど気がついていなかったが、他人を覗き見ることで娯楽を得ていた者が増えたことで、更に弱い人々はいっときの平穏を得ていた。
捕虜収容所は久しぶりに捕虜に死者の出ない四半年――一つの季節を送っていた。
捕虜収容所の看守は勤務野外での喫煙は保安上の理由から禁止されていた。
だから仕切りの柵のあたりから香ってくる煙草の香りは捕虜のものだった。
憤りを泥の球に込めて投げつけた。
麦の穂が揺れたことで多少気が晴れた。
一つで済むわけはなかった。
すぐに看守が溝を通じて走ってきて、色水の水鉄砲で泥団子を投げた者を特定した。
看守の合同訓練の成果は着実に出ていた。
機関小銃用の訓練弾は日ごろ訓練で撃たれ慣れている看守たちでさえ油断すると気絶するほどの音と威力を叩きつけるものだったが、身構えていればすぐに立ち直れる種類の驚きと痛みでしかない。
数秒のうちに二十発の拳を受けると言うのはなかなかの衝撃の体験である。
唯一の危険は頭部に集中的に食らうことだったが、覚悟があれば対策がないわけではなかった。
その分本来の使い方である多数に向けた制圧攻撃というものは威力を減じていたが、それは一回り大きな機関銃の出番だった。
だが年が変わってからは発砲の機会はなかった。
看守にとっては威力や用途の問題よりも、安心と自信の根拠がある、ということが重要だった。
そして様々な理由から捕虜に対する管理体制が積極的なものに切り替わった。
これまでは配給票の管理すら最低限だった管理体制が不正については拘束と監禁を主体とした毅然とした態度にできた。
労務の自主性を理由に放置していた労務記録を初期には看守その後には捕虜の自治を通じた報告の形でおこなわせるようになった。
積極的な対応には様々な困難や危険があったが、最も危険だった看守自身の動揺は人員の充実と訓練による自信で初動を乗り越えることができた。
最も危険だったのは先住の捕虜による暴動が施設の境に向くことであったが、彼らは互いに全く他人事として受け入れていた。
そして今全く分かりやすく戦端が開かれた。
戦端などと云うに足るほどのものではなかった。
ある意味で予定通りの行動だった。
暴漢の人数分、食料と酒の配給を減らす。
絵の具混じりの水は洗えば落ちるようなものだったが、言い逃れに足りる時間はなかった。
それだけだった。
それだけで先住西区の捕虜から、亡命希望者が、鑑別所での労務希望者が、或いは新しく出来た仕切りの向こうの収容所への移送希望者が続出した。
希望者が一万の大台に届いたのは収容所長にとっても驚きだったが、狙い通りでもあった。
予定通りの反応に収容所所長は作業を次の段階に移した。
まず収容所内の殺人事件の捜査を始めた。
偽証も多かったが、物証の追跡は比較的容易で実行犯と教唆犯を数名特定すると公開の上銃殺にした。
次に先住者の居た収容所を縦に半分に割り、捕虜を片方に寄せた。
そして移送希望者を募り、労務として住宅を解体させた。
反抗するもの動きの悪いものは敷地が小さくなった収容所に戻された。
夏の終わりが日の短さと風の冷たさを感じさせる中で労務を監視する看守の要求は明快で残酷だった。
すべての住宅が解体されるまで住宅の建設は許さない。
労務を拒否するものは戻れ。
全く単純な分断策だったが、労務者は分断されることに慣れていた。
慣れすぎていた。
冬越しの家が不足することは想像されたが、暴動をひたすらに恐れた一年目とは収容所の看守の態度は全く違って厳しいものだった。
雨の中、同胞を泥に晒すものに同情をする余地はない。
結局押し込められた捕虜たちはその人数故になにもできなくなり、建設を禁止されていない住宅の建設も進まなかった。
多少とも動ける者達も涙ながらに恐怖とともに住宅を取り壊していた。
ホムラ男爵が亡命を申し入れたのは東区の畑が貧弱な実りをつけ、あまりの貧弱さに冬まきの種に回す事を決めた時期だった。
東区では幾度か懲罰対象者は出たが、組織だった暴動には至らなかった。
喧嘩でさえ概ね少人数の些細なものだった。
北西区はようやく住宅の解体が終わり、これから組み立てを始めるところだったが、移送を希望したはずの七千人の労務者の意気は上がらないままだった。
雪が降るまえに七千人が暖を取れる壁のある家を建てることは難しそうだったが、南西区でも住宅が足りているわけではなく、住宅を巡って喧嘩が絶えない状態だった。
そして喧嘩の人数分食料と酒が減らされることでまたも喧嘩が始まることになった。
「ホムラ男爵が亡命を申し出たとして、すぐに受け入れる体制がないことはご理解いただきたい。それでもとおっしゃられるなら収容区を変わられるがよろしいでしょう」
というマジンの言葉は既に交渉や取引の段階を終えていることをこれ以上なく分かりやすく告げていた。ホムラ男爵の亡命希望を受け入れることは西区の捕虜全体に危険な動揺を誘うことになる局面に至っている。
ホムラ男爵が北西区に移ってから建設は次第に早くなっていた。
雪が降り出しても家の数は足りていなかったが、辛うじて全員が雪に埋もれることを避けられるだけの家は出来上がっていた。
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