破:覆う不和

 空は完全に、悪魔の領地となっている。

 何十万との悪魔が待機する空より、少し低い高度でアンドラスは移動していた。

 頭上の悪魔達は、アンドラスの配下ではなく、魔女ソフィア=カルデナスの部下だ。下手に見知らぬ上級悪魔がいると、要らぬ混乱が生じる。

 今まで結界の外にいたアンドラスは、まだソフィア=カルデナスという魔女を知らない。顔も見たこともないし、一体『誰と』契約したのかも分からなかった。

「カカッ! ひとまず、お嬢ちャんを手土産としてソフィア=カルデナスと交渉だネ!」

 それで対等の位置につければ上等。配下になれと言われたのならば交渉決裂。不和を起こし、大量の悪魔の軍勢を味方に付けて、ソフィア=カルデナスを手駒にするとしよう。

「お嬢ちャん? ゲンキー?」

 抱えた土産の様子を窺う。

「下ろして……お願い………………助けてください」

「ダイジョーブダイジョーブ。ボクはキミをコロしたりしないよ。ジツは会わせたいヒトがいるんだ」

 正確にはヒトではないのだが、アンドラスはタリスと交わした約束同様にウソを混ぜておく。

「……下ろして…………!」

「うぅん。ヨワッたナァ……ん?」

 前方――背の高い民家の煙突に、人が立っている。

 見覚えのある男だ。が、どこで見たのか思い出せない。

 野暮ったいメガネ、軍服、七三分け……駄目だ。

 ――ワスれちャッた!

 考えながらもアンドラスは飛行の軌道を修正せずに、男との距離を縮めていく。

「やれやれ。我が輩は、こんなリスクの高い役回りはしたくなかったのだが……」

 男は深いため息をつき、そして――。

「人助けであるからには、仕方あるまい」

 振りかぶった。

 ――ナニかくる!?

 とっさに、アンドラスは高度を上げる――だが、その行動は無意味だった。

 男が何かを投げる。目にも留まらぬ攻撃は、アンドラスの足を捉えた。

 投げられたのは分銅付き鉄鎖だった。鉄鎖はまるで蛇のようにアンドラスの左足首に絡みつく。

 張り切る鉄鎖。

「元忍者! 現役外交官、御河辰之兵……参る!」

 アンドラスは力づくで、男――辰之兵を引きずり落とそうとしたが、すでに辰之兵の手には鉄鎖は握られていない。鉄鎖を引っ張っているのは――石造りの煙突に突き刺さったクナイだった。クナイの柄には鉄鎖が絡められている。

 辰之兵が動く。

 何の躊躇もなく、鉄鎖の上を走り出した。傾きが角度50°を越えているのにも関わらず、だ。

 命綱のない綱渡りを、辰之兵は平地を駆けるように何の問題もないまま進む。

 さすがのアンドラスも、その光景には目を白黒とさせた。

 ――ニンゲンッてのは、進化するんだネェ!

 不可侵のバケモノ少女に、大道芸人も顔負けの男……大昔とはワケが違う。

「なるほどッ! 精霊塔で、ブシドーがソラからやッてきたリユーが分かッたよッ! キミの仕業だッたワケだネッ!」

 無言の肯定。

 ただただ辰之兵は、アンドラスとの距離を詰めていく。

「カカカッ! イイネッ! だッたら! これなら、どうか……ナッ!」

 アンドラスは鉄鎖をたわませた。

 一本の棒のようになっていた鉄鎖が形を崩し、同時に安定した足場が消え去る。だが――ジャッジャッジャッと、まるで砂利を踏むかのような音は、未だに鳴っていた。

 辰之兵は、たわんだ一本の足場を走る。その動きに淀みはなかった。

「足場さえあれば、我が輩に行けぬ場所はない。東洋の歩行術を舐めるでないぞ、悪魔」

 手にはクナイを握り、肉薄してくる辰之兵。

 アンドラスの判断は一瞬で終わった。

 迎撃するしかない。

 片腕は落とされ、片腕はルシアで埋まっている。攻撃は足で行うしかなかった。

 一見すれば、アンドラスにとって不利な状況のように思えるが、実際には違う。

 辰之兵という男のバランス感覚と脚力が優れていたとしても、ここは空、悪魔の領域である。空と陸では、大きく異なる。

 クナイの刃が振るわれた。

 予想通りというべきか、その斬撃は酷く拙いものだった。躱すのに苦労はない。ひらりと避け、おまけと言わんばかりに蹴りを辰之兵に叩き込んだ。

 軽い。手応えはない。

 だが、それでも辰之兵の足は鉄鎖から離れた。

 足場がなければ、歩けはしない。

 これで辰之兵の襲撃は終わるのだ。

 ……そうであるはずなのに、辰之兵の表情に焦りはなかった。

 むしろ、予定通りとでも言うような――余裕を残した顔。

 強烈な違和感と不安に掻き立てられる。

「さらばである、悪魔。盗品は返してもらったぞ」

 辰之兵が、人を抱えていた。

「はァ!? どうしてッ!? いつのまに、ボクの腕から、トったのサッ!?」

 つい先刻までアンドラスが捕らえていたはずのルシアが、まるで奇術師のマジックのように辰之兵の腕に収まている。

 ルシアだと思っていたモノは、長さ五十センチほどの丸太にすり替わっていた。

 気づけなかった。否、気づかされなかったのだ。

 初めから辰之兵の目的はルシア、ただ一人。なのに、アンドラスは勝手に勘違いをしていた。

 辰之兵の夥しい殺気に、敏感になりすぎた結果だ。

 ここは認めるしかない。

 ――してやられたッ!

「あァもうッ! タノシいなァ! ニンゲンッてタノシいなァ!」

 胸の奥が疼き出す。

 ワクワクする。

 ここまで純粋に騙されたのは久しぶりだ。そして、ここまで純粋に楽しいのは久しぶりだ。

 不意を打たれ、片腕を落とされ、騙された。

 序列を持った悪魔同士の争いでも、これほどまでの体験は滅多に起きない。

 愉しい。

 心の底から愉しい。

「カカカカカカカカカカカカカカカカカカカッ!」

 喉が張り裂けんばかりに、笑い声を上げる。

 すでに地に落ちていった辰之兵の姿は見えない。

 騙され、奪われたことが、どうでも良くなるくらい、アンドラスは上機嫌になった。

 しかし――水を差すように、異変が起きる。

 悪魔がひしめく空。

 夜空を覆い尽くす悪魔達に動きがあった。

 一瞬、総攻撃が始まるのかと思ったが、そうではない。

 悪魔達が退き始める。

 アンドラスは眉間にしわを寄せるが、すぐにその理由が分かった。

 失われたはずの封印が――わずかに戻りつつある。


+++


 悪魔の軍勢が退いていく。

 辰之兵はルシアを抱きしめながら、その奇跡的な光景を見届ける。腕の中のルシアは辰之兵に助けられた後、すぐに安堵によるものか眠ってしまった。

 ズキリと、脇腹に痛みが走る。先ほどアンドラスに蹴られた場所だ。何とかダメージは最小に抑えたものの、軽傷では済んでいない。

 ひとまず、悪魔による脅威が一時的にも無くなったことに安堵する。

 しかし、それも一瞬だけ。

「……さて、これからが悪魔の晩餐の始まりか」

 惨憺とした町並みに残された光は、わずかなものだった。

 ため息でも消えてしまいそうな町の灯火が、どのようになっていくのか――それは誰にも分からない。


+++


 メインストリートの終わりを告げるように作られた広間。そこには、簡易式の診療所としてのテントが張られている。

 そのうちの一つ、十人ほどの怪我人が収容されているテント内でルシアは目を覚ました。

 視界には見知らぬ天井が広がっている。

 上半身だけを起こすと、軽いめまいに襲われた。

 揺れる視界と吐き気に耐えながら、ルシアは目を細めて周囲を見回す。

 並ぶ、質素なベッド。

 覆われる、布地の壁。

 響く、うめき声。

 日常からかけ離れた世界。

 生々しい光景を視覚に叩き込まれ、ルシアは失いかけていた記憶を取り戻した。

 精霊塔で自分が悪魔の生け贄に捧げられそうになり、そして――

「う……ぐっ!」

 胃酸が喉を逆行する。

 口を手で封じ、必死に我慢した。

 脈が早まる。

 心臓が強く鼓動する。

 顔が火照る。

 ドッドッドッと今にも破裂しそうな心臓の音を聞きながら、ルシアは吐き出しかけた胃酸を飲み込んだ。

 喉が焼ける感覚に、表情を歪める。

「はっ……はぁはぁ……!」

 殺されかけたんだ。

 ――逃げなきゃ。

 ルシアはベッドから降りて、出入り口へと目指す。

 どうやって逃げるかなど考えていない。今は一刻も早く、この場所、この位置、この土地から居なくならなければならない。

 そうしなければ、殺されるのだ。

 ……誰に?

 誰かに。

 悪魔かもしれない、人間かもしれない。

 もう、誰も信用できない。

 出入り口を誰かが塞ぐ。

「ルシア! もう大丈夫なの!?」

 誰かが叫ぶ。

 ルシアには目の前を塞ぐ“誰か”なんて関係なかった。

 誰も信用しない。

 入り口を塞ぐ“誰か”は二人組だった。

「ルシア、まだ寝てなさい」

 二人組の片割れが命令してくる。

 なれなれしく、高圧的な言葉。それがルシアの防衛本能を過剰に働かせた。

 言うとおりにしていたら、殺されてしまう。

「嫌……。退いて」

「……ルシア? どうしたのさ? 顔色悪いし、****の言うとおりに、寝てた方がいいよ?」

「そうよ、ルシア。あなたは、大変な目に遭ったんだから、少し体を休ませないと……」

 行く手を阻むように、二人組の“誰か”は動かない。

「退いてって言ってるのに! どうして、退いてくれないの!?」

 やはり、この“誰か”も自分の命を狙っている。

 それが悪魔の手先か、人間の手先かは分からない。

 それでも“誰か”は敵だ。

 逃げなければならない。

 生き残るために、生き延びるために。

 ルシアは魔術を行使する。

 風を呼び、“誰か”を吹き飛ばした。

「もう誰も信じない! 私は……私は誰にも殺されない!」

 ルシアはテントの外に飛び出す。

 逃げる。

 ここではないどこかへ。

 そうすれば、生き残れると信じて。

 空には目を細めるほど日差しの強い太陽があった。

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