3
「お兄ちゃん! おそうじおわったよ! さやとあそぼー!」
「……」
「……お兄ちゃん?」
肘のあたりに触れた濡れた手の冷たい感触に現実に引き戻された。反射的に身が竦む。逃れたい一心で後ずさりして背中が生ぬるい温度の壁にぶつかった。
不安そうな目をしているさやと目が合った。
「あ……」
ようやく我に帰ることができた。混乱してぐるぐる回る頭の中をなんとか整理しようと細くて長い息を吐く。
ようやく薄暗くなり始めた廊下に、まだ電気を点けていなかったことに今さらながら気がついた。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「いや」
口をつぐむ。これは「なんでもない」で片づけていいことではないだろう。いくら幼くてもさやも家族なのだから。
「落ち着いて聞いてよ。―――母さんが、再手術になるかもしれないって」
「しゅ、じゅつ……?」
「そう。何があったのかは兄ちゃんにも分からない。詳しいことは検査次第で決まるらしいけど。またしばらく帰ってこれない」
口にしながらこれが事実だということをようやく脳が認識し始める。
どこか他人事のように思っていたのに、自分の口がこれを現実にしていくみたいだった。
だから言ったんだ、無理するなって。なのに人の言うことなんてこれっぽっちも聞いてない。
俺とさやがどれだけ心配していると思っているのだろう。
頑張っているのは何も母さんだけじゃないんだということを、果たしてあの母は分かっているだろうか。目先のことしか見えてないんじゃないだろうか。
ここで無理を重ねてもどうにもならないのに。
「……」
うつむくさやの表情が、影になってよく見えない。
無理もないだろう。俺だって相当きつい。でも妹の年齢はまだ数えるのに両手で余る。
母が入院して手術して、まだ大人なんて呼べない兄とふたりで暮らして、不安も負担も大きいだろう。
「……よし、まずは風呂に入ろうか。汗かいたろ? 楽しみだな、さやは掃除上手だから」
「……やだ」
「え?」
「やだ! やだやだやだやだやだやだやだやだ! おかあさんといっしょじゃなきゃや!おかあさんがいいの!」
床にぺたんと座り込む妹に、俺は正直途方に暮れた思いだった。
「仕方ないだろ。それに退院したってしばらくはさやと一緒に風呂は入れない。悪いけど兄ちゃんで我慢して」
伸ばした手を振り払われる。行き場を失くした右手が宙を彷徨ってようやく腰のあたりに落ち着いた。合わせた目線の高さは意外なほど低い。
「ほら。いつまでもそうしてたって仕方ないだろ」
ぱしん。小さな衝撃。
「いい加減にしろよ。さやがそんなんじゃ母さんも心配でゆっくり怪我治せないだろ。あんまり心配かけるな」
「……やだ」
やっと口を開いたと思ったらそれか。
「さや」
「やだ! だって、お兄ちゃんやすみのひおうちにいないもん! ひとりでおるすばんなんだもん! ふつうのひだってあそんでくれないんだもん!」
震える息。
「……あのな、」
「やだ! おかあさんかえってこないのやだ! さや、さやがんばったのに! かえ、かえってくるとおもってがんばったのに! やだ、やだ、やだよう……」
漏れ始める嗚咽とシンクロする秒針の音。
ときどき思い出したように混ざる「やだ」の言葉が、少しずつ少しずつシンクロを不協和音に変えていく。
ああ、もうだめだ、
「俺は母さんじゃない」
「……っ、く」
「俺にだってやることはあるんだ。いつまでもお前にだけかまけてなんからんないんだよ」
止まらない。拳を振り降ろす場所が見つからない。ここではないのに、今ではないはずなのに、本当はこんなこと思っていないはずなのに、
「いつまでもそうやって膝抱えてろ」
大きくなる泣き声を断ち切るようにして、どかどかと自室に入って背中でドアを乱暴に閉めた。
「くそ……」
ずるずると床に滑り落ちた。
妹を支えることもできやしない。母の助けにもなってやれない。
重かっただろう。俺には妹一人背負いきることすらできやしない。
無理をしてなんとかやろうとしてこれだ。結局は途中で投げ出して、一体何のために。
灰色がかった夜が網戸越しに流れ込む。草の臭気とアスファルトから立ち上る埃の匂い。
雨が降るかもしれない。ひぐらしも蝉も息を潜めているような夜に、俺はやっと気付いた。
断続的な電子音。
俺は左手に通話終了の電子音を鳴らす受話器を抱えたまま、オレンジ色の照り返しを受けて髪をかきむしる。
切れた。
通話時間は、二分三十二秒と表示されていた。
*
補習は中止になったらしい。
回ってきたメールを半分寝惚けたまま確認し、それならいいかと再び意識を手放した。
ここのところろくに寝ていなかった。授業中の睡眠は睡眠時間には数えない。寝てもいい時間に寝るのと起きていようと努力しながら寝てしまうのでは睡眠の質は全く違う。
蒸し暑い部屋とぼんやりとした夢を何回か行ったり来たりして、緩やかな眠気を吹き飛ばしたのは携帯の着信音だった。
呼吸をするのも嫌になるくらいのじっとりと重い空気が全身にまとわりついてきた。髪が頬に張り付く。体が思うように動かない、恐ろしいほどの倦怠感。
恐る恐る着信の相手を確認した。
「、西沢?」
一体何の用だろうと訝しみながら通話ボタンを押した。
「もしも、」
『藤崎か!? お前何してたんだよ、何回も電話したんだぞ!』
起き抜けには少々辛すぎる大音量。心なしか携帯を耳から数センチばかり離す。
「悪い寝てた。どうかした?」
『寝てただ!? おま、今何時だと思ってるんだよ! 外見てみろ外!』
「何時って」
霞む目をこすり、閉じっぱなしだったカーテンを引く。厚い布地に閉じ込められていた行き場のなかった熱が外に逃げていったようで、体感温度が少し下がったような気がした。
窓の外は目が潰れそうなほどの眩しい夕焼けに塗り潰されていた。
慌てて時計を見る。六時と少し。朝起きたのは七時だったはずなのに、これは一体何事か。
電話の向こうから重苦しいため息が聞こえた。それは自分を落ち着かせようとしているようでもあるし、まる一日寝て過ごした友人に呆れかえっているようでもある。
『よく聞けよ、藤崎。――さやちゃんが大変なんだ』
「は……? さやが?」
やはりまだ頭が寝ていたらしい。すっかり忘れ去っていた妹の名前に思わずがばりと立ち上がった。
そうだ、さや。
俺が一日寝てたならさやはどうしてる? 涙を目いっぱいに溜めた妹の顔が浮かぶ。
「何があった!?」
すでに無意識は準備を始めていた。クローゼットから適当に引き摺り出した着替えに袖を通し、乱暴にドアを開けて妹の部屋を目指す。
『説明してる時間はない。いいか、藤崎。十分以内で裏の山にこい。急げよ。トラックはそのままになってるけどさやちゃ、わ!』
ぶつりと通話が途切れた。
「は? おい、西沢? 西沢!!」
プレートに書かれた「さや」の文字が勢い良く上下して床に跳ねる。
妹には大きすぎる机の真ん中にどかりと鎮座する赤いランドセル。きちんと畳まれた着替えと鏡の前に置きっぱなしになっている櫛、床に転がる目の取れかけたぬいぐるみ。
「トラックだって?」
血の気が引いていく。
母の白い顔、
病室のネームプレートの「藤崎」の文字、
嫌になるほど嗅いだ消毒液の匂い、
階段を駆け降りる。勢い余って腕を手すりにぶつけようが置き場所がなくてそのままになっているストーブを蹴り飛ばそうがどうでもいい。
さや。
「さや…っ!」
頑張ってるのは母だけじゃない。頑張ってるのは俺だけじゃない。さやだって頑張ってたはずだ。辛かったはずだ。でもさやは、辛いなんて言ったりしなかった。
もう靴を履くのももどかしい、鍵はかけないことに決めて家の前の横断歩道を横断、その先の道路を右に曲がる。
夕陽を遮る山を睨みつけ、一路暗い日陰を走る。
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