夕焼け空とカルシウム

啾吾

1


 名残惜しさを振りきって立ち上がる。楽しい時間はなんとやらで、どんなに願えど時は止まってはくれない。



 すっかり色を変えて鏡みたいになった窓を横目に見て、ここは俺が悪役になることを決めた。鏡の中でどこか疲れた顔をした少年が口元を歪める。悪いな、でも仕方ないからさ。


「ほら、もう帰るよ。さや、ちゃんとばいばいした?」


「うん。お兄ちゃんもね」


 俺の胸の辺りにも達しない小さな頭。


 いつもなら嫌がるくせに今日ばかりはおとなしく頭を撫でられている妹の姿がなんだか無性に胸に刺さった。


 やはり寂しいのだろう。無理もない、さやはまだ小学校を半分も終えていない。


 まだこんなに小さいのに甘えたくても甘えられない、それでも必死に歯を食いしばっているのだ。


 俺の手がひとりでに拳をつくる。


「お父さんとお母さんに来てもらえればいいんだけど……」


「仕方ないよ。じいちゃんとばあちゃんだって忙しいし、そうほいほい来れる距離じゃないし。俺もまあそこそこの歳だからなんとかやってけるって」


 母さんは口を小さくへの字にしてさやに向き直った。


「さや、お兄ちゃんのことよろしくね」


「うん!」


 俺は頼りないってか。


 なにやらもぞもぞやり始める母に少しばかりの不安を覚える。動かない足を動かしてベッドから降りようとする。まさか。まさかまさかまさか。


「母さんストップ! 別に見送りとかいいから無茶しないでほんとに。折り直されちゃ困るんだって」


 いかにも不服そうな顔で母が口を尖らせる。一体自分を何歳だと思っているんだ。もう若くないんだから無茶をするのは大概にしてほしい。


 病院特有の消毒液の香りのする乾燥した空気にけほけほと咳き込む背中をそっとさすって、今度こそ病室のカーテンを掴んだ。


「お兄ちゃんのことはまかせてね、おかあさん。さやがついてるからへいき。だからおかあさんもはやくよくなってね」


 母さんは二年ぶりに孫を目にした祖母みたいな目をして笑った。弱々しく振られる手に胸の奥を掻きむしりたい思いになる。


 人間の肌の色にはありえない白い色で固定された左足をなるべく意識の外に追い出して、俺は「じゃあね」と手を振り返した。


 右手で未練を断ち切って、左手に幼い妹を半ばぶら下げるようにして病室を出る。廊下の時計は七時を指していた。




 *




「あら歩くん、藤崎さんのお見舞いはもういいの?」


 藤崎は我が素晴らしき三人家族が冠する名字だ。


「はい。長々とすみませんでした」


「いいのよそんな。歩くん高校生でしょう?」


「今年で三年生になりました」


 あらあらあら。口癖なのだろうか。


「大変な時期なのに毎日妹さん連れてきて。補習はないの?」


「あ、土日だけ。さやには留守番してもらうしかないんですけど、こればかりはどうにも」


「そうよねえ。おうちのこともひとりでしてるんでしょう? 藤崎さんもね、二人が来るとすごく嬉しそうにしてるから。忙しいだろうけど顔見せてあげてちょうだいね」


 すっかり顔なじみになってしまった看護師さん(ネームプレートには早川と書いてあった)に頷き返すと、自分を忘れるなと言わんばかりにさやが身を乗り出してきた。


「きょうはね、お兄ちゃんとごはんつくるの! さや、おやさい切るんだよ!」


 早川さんはわざわざ屈んで目線の高さをさやに合わせてくれた。こいつは小学校でも一、二を争う筋金入りのチビなのだ。


 そんな中途半端な姿勢では激務でやられた腰に響くだろうに。


「あら、よかったねえ。おいしいのつくってね」


「うん!」


 じゃあねーっ。ぶんぶんと手を振るのはいいがちゃんと前を見てほしい。


 転ぶぞと注意しかけたところでなぜか自分の足に足を絡ませたらしい、宙をクロールする頼りない妹をしっかりと抱え上げて床に下ろす。


 まったく、母さんもこいつに俺を託すのはやめてほしい。こんなちっこいのに頼ったら二人とも共倒れだ。


 扉に触れるなと念仏のように無音の夜にひとりごとを吐き出す自動回転扉をくぐり抜けて、恨めしげに列をなすタクシーの群れを横目に二人並んで帰途につく。


 植木の向こうに何かいやしないかと身を乗り出すさやを引き戻して、何ともなしに空を見上げた。


 青っぽいような黒っぽいような街路樹がお化けのように揺れる。


「兄ちゃん兄ちゃん、きょうはカレーがいいなー」


「また? おとといも食べたよ」


「だってさやカレー好き。ねーカレーにしょうよカレー」


 ぶんちょぶんちょと左手が揺れる。関節が駆動角度を無視し始め小さく悲鳴を上げ、俺は早々に白旗を上げた。


 うちの女衆は頑固なのだ。この環境に身を置かれて十八年、小うるさいのが増えて八年、無駄な抵抗は精神の疲弊を招くと悟りの境地に至っている。


「はいはいはい。じゃ、帰りにルー買ってこう」


「はいは一回!」


 小生意気な。


「はいはいはいはいはいはいはい。にんじんも食べてよ」


 さやは兄がカレーくらいしか作れないことを知っている。これがこの子なりの気の遣い方なんだと思うと無下にすることもできない。


 そう思えばあのわざとらしいインド風のスパイスの香りにも胃にじんと重くのしかかる半液状の感触にも耐えられる、かもしれない。


 我が家の女は頑固で意地っ張りだ。


 母は俺とさやと自分自身の重みに耐えかねるようにして左足を折った。疲労骨折だった。


 よほど器用な折り方をしたらしい、集中治療室にいる母の血の気のない真っ白な顔と麻酔にやられて舌の回らない言葉を聞いたときはどうしようかと思った。


 回らない舌で必死に訴えたことが「ビデオ返してきて」だったのを聞いたときには違う意味でどうしてくれようかと思ったが。


 片足を不自由にした今でも、背負うことはやめていない。


「兄ちゃん?」


「ん、悪い。どうやってにんじん食べてもらおうか考えてた」


 何に混ぜたって器用に察知してよける鼻の良さはいったい誰に似たんだ。


 上がる抗議をさっきのお返しとばかりに振り回す左手で押しとどめた。






 もう一度空を見上げる。


 夏の青い夜空には、真円と称するにはまだ足りない月が夜に穴をあけるようにして浮かんでいた。




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