第十三曲 二両目の誘惑

(一)

 雑誌社の編集部。昼休みだっていうのに、いらいらしながらメールの返事を待ってる。全体締めはまだ先だが、仮組みのレイアウトが確定になるこの時期は誰も彼も神経が尖る。突然でかいアクシデントに見舞われた俺は、他の室員以上に機嫌が悪かったんだ。飯食いに行く時間も惜しくてカロリーメイトをかじっていたら、永井がひょいと顔を突っ込んできた。


「タキ、お前今日も遅くまで残るの?」

「しゃあないわ。黒木さんに頼んである原稿がベタ遅れしててよ」

「……へえー」

「しかも催促メールの返事が来ないだけじゃなくて、直電にすら出てくれん」


 永井が顔をしかめている。いや、俺もそんな風に怒りたいところなんだが、怒るより原稿確保が先だ。


「三日前進行確認した時には順調ですって言ってたんだよ。未定稿もすぐ入れてくれてる。遅れを言い訳でごまかす人じゃないからなあ」

「何かあった?」

「そうかもしれない。でも、彼女のプライベートにはいきなり踏み込めないよ。原稿落とすわけにはいかないから、代わりのライターさん探してばたばたしてたんだ」


 空箱と包装紙をダストボックスに叩きつけ、代役をお願いしたライターさんからのメールに目を通す。仕事の早い人だからすぐ初稿が送られてくるはず。それに超特急で朱を入れないとならない。当分、定時には帰れそうにないね。思わずぼやきが口をついて出る。


「次号のメドがついたら、ちょっとのんびりしたいなー」

「まあな。ああ、それでよ」

「うん?」


 永井が、手帳からぺらっと四つ折りの紙を引っ張り出して開いた。


「おまえ、昨日帰ったの10時くらいだろ?」

「ああ」

御坂みさか線だよな」

「んだ。香島橋かしまばし止まりのやつ」

「時間的にはもう空いてるんだろ」

「がらがらだよ。ってか、なんでまた」

「いや……」


 もう一度顔をしかめた永井が、ボールペンのけつで頭を掻いた。


「あまり嬉しくない話なんだけど」

「は?」

「タキの乗ってる時間帯の電車に、幽霊が出るって噂なんだよ」

「はああっ?」


 思わずでかい声を出しちまった。


「ありえんだろ。確かに空いてっけどよ。人の乗り降りはあるし、終電ていうわけでもない。酔っ払いも乗ってくる。雰囲気はがっさがさだぜ? 幽霊なんざ尻尾巻いて逃げるぞ」

「それは知ってる。ちょっと……変わってんだよ」


 隣の回転椅子にどすんと腰を下ろした永井が、とんでもない話を始めた。


◇ ◇ ◇


「ここからだと、遅い時間の御坂線下りは、十字町じゅうじまち駅を過ぎたら降車の客ばかりになる。そうだよな」

「ああ。どんどん郊外に行く形になるからな。酔っ払いと、遅くまで仕事をしていた人を乗せて、お疲れさんという感じで夜の底を走る」

「……詩的だな」

「酒臭くなければな」


 永井が苦笑した。


「タキが乗ってるのは何両目くらい?」

「降りたあと楽だから、ど真ん中だよ。四か五両目だ」

「混むだろ?」

「十字町過ぎるまではな。あそこでどどっと乗って、そのあとどんどん降りてくから」

「そうか……前や後ろはがらがらってことだな」

「端に乗ったら、降りた時に改札が遠くなるだろ」

「ああ」


 一度口をつぐんだ永井は、さっき引っ張り出した紙を俺の前で丁寧に広げ直した。八両編成の電車の見取り図。その前から二両目のところにでかい赤丸がついてる。


「なんじゃこりゃ?」

「幽霊の出る場所だよ」

「……」

「他の場所には出ない。いや、俺が直接確認しているわけじゃないんだ。もしかしたら、他でも出ているのかもしれないけど、確実にここで出てる」

「がらがらと言っても無人じゃないし、まだ人の気配が濃い時間帯だぜ? 幽霊はありえんと思うが……」


 普段オカルティックなことを一切口にしない永井が、なんでいきなり。首を傾げた俺に、永井が切羽詰まった表情を見せた。


「幽霊と言っても、うらめしや系じゃないのさ。取り憑く系」

「は?」

「夜十時前後の御坂線下りの二両目車両で、なぜか痴漢が多発してるんだよ」


 絶句してしまった。


「ありえんだろ。がらがらだから、行為が丸見えになるぜ?」

「そう。衆人環視になるのに、痴漢をやっちまう」

「!!」


 ぴんと来た。


「もしかして、黒木さん」

「そうやられた側」

「信じ……られん。どっからどう見ても、そのまんまおばさんだぞ?」

「ああ。しかもな」

「おう」

「加害者が……俺の甥なんだよ。康太っていうんだが」


 永井の表情が一気に険しくなった。


「そ……れ」

「ありえない話なんだよ。甥は、もう結婚が決まってる」

「げ」

「酔っ払ってたとかならともかく、大学の研究室に残って遅くまで実験やってた帰りだ。シラフ」

「本当にやったのか?」

「言い逃れようがないよ。さっき言っただろ? 衆人環視だったから。やらかしたことがもとで婚約者が激怒して、婚約を破棄されちまった」

「魔が差したってやつか」

「そこ。それなんだ」


 ああ、幽霊がどうのこうのってやつだな。


「甥が言うには、何かに誘われたように手を伸ばしてしまったらしい」

「……ってことは、胸を触ったってことか」

「そう。それは……おかしくないか?」

「おかしいよ。混んでる車内じゃないのに胸に手を伸ばせば誤魔化しようがない。堂々だ」


 待てよ。


「なあ、永井。おまえが幽霊だというのは、そういう案件が頻発しているからなんだろ?」

「そう」


 永井が、深い溜息をついた。


「痴漢に遭うと知りながら二両目に乗ってくる女性客も。わざと痴漢を誘っているように思えてしまう」

「うーん、確かに黒木さんは独身だけどよ。性的欲求不満を抱えて悶々とするようなタイプだとはとても思えないんだが……」

「そうなんだよ。でな」

「おう」

「帰りに、確かめてみてくれんか?」

「俺が、か」

「ああ」


 即答は出来なかった。真面目な男ですら「ついうっかり」があるのなら、ちゃらんぽらんな俺が居合わせたら冗談では済まなくなるかもしれない。俺だって、まだ独身なんだ。それでなくても嫁日照りなのに、何かあったら一生アウトだよ。うーん……。腰が引けたのを察したんだろう。永井が付け加えた。


「猛者の千鳥ちどりさんを護衛につける」

「護衛? 監視役じゃん。頼むから千鳥さんは勘弁して」

「てか、そのくらいじゃないと、幽霊に操られた時に対抗できんぞ」


 うう。いつの間にか俺が引き受けたことになってるし。


「まあ、いい。行ってみるよ」

「助かるっ!」


 言い残して、永井がさっと離脱した。甥っ子のことが気になるんだろう。事情説明できるような事実が出て来れば、事態を打開できると思ったのかもしれない。


「ふうっ」


 溜息混じりで、室内をきびきび歩き回っている千鳥さんを見やる。夕月ゆづき千鳥さんは、うちの課の独身あらさーで、顔も体型もいわゆる「イイオンナ」。名は体を表すってのを地で行ってる、和風美女だ。

 にも関わらず、俺も含めて同僚はみんな彼女を避ける。そりゃそうだよ。あまりに気が強いから。口も手もすぐに出る上に、加減ってものを知らない。痴漢をボコ殴りして顔面崩壊させたっつー武勇伝を持ってる人だからなあ。だからこそのまだ独身なんだろう。正直言ってファイターの千鳥さんには関わりたくないんだが、タフな抑止力と証言者が要るのは確かだ。


「しゃあないか……」

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