二章

フェアレディってお姉さまって意味らしいっすよ?

 たとえ休日だとしても、俺の朝は日が昇るのと同じくらいに早い。ブレザーを着る様に以来、そんな生活が当たり前になっていた。住んでいるのは高原なのでさわやかな鳥のさえずりが毎朝聞こえてくるが、俺の心はというとさわやかじゃない。むしろ、憂鬱だ。

 なぜかって? 

 その答えは……。

 「おーい起きろ~」

 間延びした声と共に部屋の襖が開けられる。しまった、予想よりも来るのが早い!

 「まだ寝てるの? 」

 その疑問形を聞き終わる前に、俺の体が突然宙を舞い始めた。クソ、またかよ、布団から投げ飛ばされちまった。

 「うお、痛ってぇ……」

「まだまだ甘いな、睦は」

 まだ本格的に目覚めていない体でよろよろと立ち上がると、そこに俺を放り投げた主が立っていた。

 グレーのキャミソールにジーンズという、やたらとラフな格好のそいつは、下宿先の主にして従姉の楓姉さんその人だ。

 「ほらさっさと着替える。ボケッとしないの」

 「わーってる」

 俺が手近な服を探し始めると、彼女は艶のある黒髪を揺らして踵を返した。

 さて、ここで少し俺の下宿先の話でもしようか。

 天城高校を北へ十キロほど行くと、山並みが開けて高原が姿を現す。床橋というちょっとした観光地で、数年前楓姉さんはここでカフェを開いた。で、俺は用事が無い日は基本フルタイムで働かされているというわけ。要は住み込みってこと。そして、その喫茶店がある場所もまた、車とつながっている。

 ドライブインの現代版とでもいうべきか。政府が道路の再開発に着手したため、各地でこうした個人営業の店が最近やたらと増えていた。場所によっては喫茶店やホテル、映画館や土産物店が軒を連ね、ちょっとした町のような場所もあるらしい。そして、ドライバーたちは旅の途中にこうした場所へ観光ついでに立ちよるというわけだ。

 ここまでは表向きの話。で、現実はというと……。

 「早く起きたってどうせ客なんか来ませんよ」

 「次そんなこと言ったらクビね」

 悲しいかな、ここ、カフェ・アズテックの経営状態はというと常に火の車。ちょっと前まではこの辺りも賑わいががあったのだが、新たにバイパスが開通されてからは見向きもされなくなってしまっていた。そのため、彼女は自動車ジャーナリストとして雑誌に記事を寄稿する副業もしている。

 「いつまでボケてる気? 頭があるなら少しは動いてよ」

 どうやら今月の売り上げも赤字のボーダーラインを彷徨っているらしく、楓姉さんの機嫌はすこぶる悪い。とりあえず起きたから店の回りの掃除、のはずなのだが、

 「あれ、まだ太陽が昇ってない」

 空にはわずかに光がさす程度。それに肌に触れる空気もどこか冷たい。

 「ククッ。まだ気づいてないのか? 」

 目の前にはサディスティックな笑みを浮かべた楓姉さん。その顔を見て、俺は速攻で自分の携帯を開いた。

 時刻は五時三十分。

 どういうことだ。

 「夜中に忍び込んで時計を遅らせておいたんだ、気づかないものだな」

 やられた、どうもいつもより眠いわけだよ!もっとも、この人がそういう悪戯をする場合、大抵俺がヘマをしたゆえんの不満があるわけで。

 「やっぱ昨日遅く帰ってきたのがダメでしたか」

 「当たり前だ。心配したんだぞ」

 嘘つけ絶対心配なんかしてないだろ、と言いたいのを堪えて俺は小さく頭を下げる。

 「だから罰ゲームだ」

 カーテンを開けると、楓姉さんは埃かぶった一台の車を指差した。

 日産・フェアディZ、彼女の愛車である。

 「はい、じゃあこれ!」

 何が言いたいのかわからず唖然としている俺を横目に、姉さんはさらに青いバケツを突き付けた。中身はブラシにカーシャンプー。ってことは……。

 「洗車しろと? 」

 「その通り。最近洗ってないからね。頼んだ」

 「冗談でしょう、このクソ寒いのに」

 季節は初夏に入り始めてるとはいえ、寒いものは寒い。ましてや、悪戯に巻き込まれた挙句頼みごとを引き受けるほど俺はお人好しでもない。

 「私を心配させた罰だ。心して磨いてくれたら、お姉さん後で何でもするから」

 「はいはいわかりました」

 物言う気も失せるね。いつまで経っても堂々巡りなので、仕方なく寒さで鳥肌が立つ中、俺は蛇口に向かった。なんか見事に言いくるめられたのは気のせいだろうか。

 よく、ペットは飼い主に似るなんて言うけど、それは車にも当てはまるはずだ、くすんだ銀色のボディーを水で流しながら俺は思った。楓姉さんと日産・フェアエディZ(通称Z)なんてその良い例。ワイド&ローというスポーツカーのお手本のようなスタイルのこの車は、1990年式と古くも高い動力性能と独特のエレガントさを纏っており、今でも根強いファンが多い。

 そして楓姉さんも同じく。大人げない面もあるだろうけど、本当は優しくてキレ者なんだと、俺はひそかに信じている。

 なぜならそうあの時…、と回想に浸りたい気分でもあるが、それは置いておいて今は洗車に集中しよう。

 全体を水で流して表面の汚れを落としてから、スポンジにシャンプーをつけて隅々まで磨く。もう一度水ですすぎ、クロスで水滴を拭き取ればOKだ。

 時間にしておよそ三十分。Zは再び輝きを手に入れた。よし、これなら文句ない仕上がりだろう。

 「終わったか。ん、合格点」

 と、ここでタイミングを見計らったかのように楓姉さんが現れ、そして……。

 ヘッドロックを仕掛けてきた。

 「もがもが」

 腕の中で窒息死しそうになる俺。まぁ、彼女が事あるごとに抱きついてくるのはガキの頃からのことなので慣れっこなのだが、腕力が女とは思えないくらい強いので少し痛い。あと、いいかげん俺も高校生なので少し自重して下さい。背中のフニュフニュとした柔らかい感触は毒だ。

 澄んだ空の下、どこか歪んだ日常を繰り広げていると、通りの向こうから一台のママチャリがやって来た。それでも構わず腕を絡み続ける楓姉さん。しかし、ママチャリは俺達を確認すると、そのまま店の前の歩道で止まった。降りてきたのは、

「ここに住んでるって聞いたんだけど……」

「瀬雄? 」

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