第8話 昔話
「あ、連れの人。いたから」
マスターらしき男の方を見ながら、光男は渡辺の方を指差して言った。
「やあ、久し振り」
それから光男はそう言いながら渡辺の方へと向かって歩き出す。
「ホントに。三年振りですか」
その姿に渡辺は立ったままそう言って、手で光男に座る様に促すと、自分自身も椅子へと腰掛直した。
「その節は本当にお世話になりました」
渡辺は光男の顔をじっくり見てから、そう言い、深々と頭を下げた。
「やめて下さい。元はこっちが悪いんだ。後で聞いてビックリした。仮にもお客様に対して『ご愁傷様です』なんて。ふざけるにも程がある」
渡辺の妻が五年前、住宅ローンの申請を受けに行ったのは、光男の勤める銀行だったのだ。
当時光男は融資担当主任で、その下に若手の有望株の社員が三人程付いていた。
「しかし事実です。現にローンは組めなかった。私の借金が原因だ。そんなの客でもなんでもない」
「それは違う。客じゃないなんて…渡辺さんが離婚したのにはウチの対応も一因あります。あんなふざけた事を言わなければ、きっとそうまではならなかった」
光男は当時の部下と自分の事を思い出すと、腹立たし気に言って、下を向き、何かを思い出しているのかテーブルの隅ををじっと眺め始めた。
「あのー」
だから声がしても光男には届かない。
「あのー」
声は再び発せられた。
「瀬川さん」
「ん?」
光男は渡辺の呼びかける声でやっと気付くと声の方を振り返った。
そこには先程のマスターらしき男が立っている。
「あの、メニューはお決まりでしょうか?」
「あ、ああ、ブレンドで」
光男はそれにはメニューも見ずに素っ気無くそう答えた。
「かしこまりました」
マスターらしき男は、マスターだった。
マスターは注文を受けて静かに去って行った。
五年前、渡辺の妻の住宅ローンを断ってから数ヵ月後の支店の飲み会で、光男はその事を知った。
部下が酒の肴にその話を自慢気に話し出したのだ。
「全く、消費者金融に二百万借金あって、うち一件は延滞付いてるし。ご愁傷様~って言ってやりましたよ。奥さん何にも知らなかったみたいで。ハハハハハ、ビックリした顔してやんの。その後真っ青になって、また急に真っ赤になって。アハハハハ」
光男は直ぐにその場でその部下に問い詰めた。
そして次の日には、以前の申請書類から渡辺の妻の連絡先を調べて連絡を取ると、謝罪へと出かけた。
そこでその後離婚した事を聞きいたのだ。
だから光男は更に渡辺の住所も教わり、今度は渡辺の方へも謝罪へと行ったのだ。
その時の担当は連れて行かず、光男は一人で謝罪に回った。
逆上させるだけだと思ったからだ。
「あの時貸していただいた五十万は助かりました」
渡辺は思い出す様に言った。
「貴方と私の関係では当たり前の事です。それも貴方は全額返してくれた」
「いやいや、あの時貸して貰えなかったら、私は今頃浮浪者か、死んでいたかも知れない。本当に助かりました」
光男の言葉に渡辺はそう言うと、再度深々と頭を下げた。
離婚して最初の八ヶ月位は、借金の返済もまだ全額はされておらず、養育費の支払いもあり、渡辺は困窮していたのだ。
離婚でやる気を失くし、それまでの仕事も辞めて、日当の警備の仕事等をして、その日暮しの生活を送っていた。
その頃の渡辺の心には、”なんとかなるさ” と ”どうにもならない” が、混在していた。
そんな時、光男は無利子で渡辺に五十万貸したのだった。
無論、当時の光男は返して貰う気等は毛頭無かったのだが、渡辺はそのお金で生活を立て直すと、三年前には全額返済し終えたのだった。
「今は何を?」
「丁度先月、ハウスメーカーの営業を辞めたところです。移動が出て、この辺りから離れたくなかったもんですから。今度はその時のハウスメーカーで知り合った基礎屋さんの会社に入れて貰える事になってます」
「そうですか。何でも良い。働いてるんなら」
光男は本心から笑顔でそう言った。
「瀬川さんは…なんか少し痩せましたね」
「お待たせしました。ブレンドです」
その時マスターが、光男の所にコーヒーを持って来た。
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます