習作

くすり

 

 教室で人を待っている。十一月の冷え込んだ夜だった。本当はこんなところに一秒だっていたくはなかった。手を擦り合わせて寒さを凌いでも、彼女はいっこうに現れなかった。廊下にある自動販売機で温かい飲み物を買っても良い。でも、それは何だか嫌だった。火傷しそうに熱いオレンジ色のキャップ、ココアや紅茶の満たされたペットボトルは心の奥底で何よりも愛おしく思われ、しかし同時にもっと奥の奥では抗い難く拒否されていた。この相克は私にとって、ひどく理解しがたいものであった。不可解なのは何と言っても、私の最奥にあるヴェールに包まれた拒否そのものである。私は彼女を待ちながら、自身の内部を検分することで、この世界で最もありきたりに、暇を持て余していた。あるいはいつかやってくるに違いない彼女を、遠ざけようとしていたのかもしれない。私はなぜ、大した労もなく歩いて辿り着ける自動販売機に向かって、凍えながら小刻みに足を運び、百二十円だか、百四十円だかの小銭を支払って、よく温められた飲み物を買わないのだろうか。だってこんなに寒いのだ。温かいボトルを前にしたら、私は今にもその温もりに飛びついて首や指先に擦りつけ、その温かさを懸命に自分にも移そうとするだろう。私はそれを保証できる。だが、私はなんらかの強い否定の感情に全身を支配されて、素直にその温かみを求めることができなくなっている。財布の中を思い浮かべる。二度寝したせいで時間がなくて、今日のお昼は購買で済ませたから、千円を崩した残りの小銭が残っている。ココアがいいか、カフェオレがいいか、わざとらしく逡巡してみる。私は数秒間たっぷりと悩んで、ココアを選ぶことにした。カフェオレは甘すぎる。ココアのあまり甘くないやつがあれば、それが最高だ。私はそこまで考えて、やはり足を動かすことができなかった。所在無くつま先をぷらぷらさせているだけなのだ。ふと上履きの汚れが目に付いた。私は長く黒い靴下に視線を移した。腰をかけほとんどの体重を預けている木の机から、体を持ち上げることをすれば良い。それは難しいことじゃないはずだ。机の脇に掛けてあるバッグから、表紙の擦り切れた文庫本を取り出した。朝の雨に濡れて少しよれている。私はそれを開くことなく、茶色くなった紙を撫でた。指の感触はさして重要でなかった。脳裏に浮かぶのは昨日読んだつまらない小説のことだった。うまくいかないものだと私は思った。恋することは長く続かない。私はこの本を好きだった。何度も読み返していたのだ。それなのに、今はもう、少しも中身を思い出すことはできなかった。それが耐え難く悲しくあればよかったのに。私は自分がひどく不義理な人間であるように思えて、無性に腹立たしく思えた。ペットボトルの余熱も、いつかは冷めてしまうのだろう。だから私は、こんなにも寒いのにココアを買えないのか──そうじゃない。結局その本を読もうとはせず、私はもとの場所にしまった。私はいよいよ困ってしまう。では何が私を、この冷え切った教室に縛り付けているのだろうか。不意にぱたぱたと音がして、私は窓の外をみる。雨が降り出していた。そして雨は少しずつ強くなっていった。この雨に際して、私の中に奇妙な作用が生じていた。つまり私は待つことをやめようかと考えたのである。不意にぶわっと涙が出てきた。

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