櫂君

 会社から少し先にある居酒屋で、櫂君とテーブルを挟んで向かい合っていた。

 店内は、仕事帰りの客で賑わっている。

「ビールお代わりっ」

 私が右手を上げて近くの店員さんに告げると、元気な声が返ってきた。

「はいっ、喜んで!!」

 アルバイトかな? 注文を受けたあとの返事が、とても明るくて威勢がいい。今日の疲れを吹き飛ばしましょう! と励まされてでもいるみたいだ。

 そうだよね。仕事なんて、生きていく過程の一部に過ぎないのだから、必死になっても仕方ない。

 なんて言ったら、部長に大目玉だろうけれど。

 目の前でニコニコとビールを喉に流し込んでいる、この後輩の櫂君。愁傷な性格をしているようで、こんなどうしようもない先輩の私を、いつも快く面倒みてくれている。

 仕事に嫌気がさしたり、ストレスがたまり始めると、いつもこうやって飲みに誘ってくれるのだ。

 なんとも気の利く後輩君だ。

 櫂君は、同期ちゃんや先輩ちゃん。それに、今年の四月に入社してきた新人ちゃんたちにとても人気があるイケメン君だ。

 “ちゃん”と付けたのは、櫂君に対して相手が全て異性だから。

 確かにアイドル系ではあるけれど、私は余り気にした事はない。可愛らしい顔をしているとは思うけれど、そう思うだけだ。けれど、櫂君見たさに他の部署の子達は、よく私たちのいるデスクを覗きに来る。いや、私たち、ではなく。私の隣の席の櫂君を、だ。

 櫂君は、客寄せパンダじゃないんだよー。ここは動物園じゃないんですよー。

 たまにそんなセリフを物見高にしている人たちへ言ってしまいそうになるけれど、そこはそれ、我慢です。長いか短いかわからない社会人生活だけれど、余計な敵は居ないに越したことはない。

 穏やかな老後の如く、波風のない日々を過ごしたいのである。

 櫂君自身は、そんな周囲のガヤガヤにはまったく頓着せず、マイペースに日々を過ごしている。

 きっと、今までもそんな環境の中にいたから、他人から注目される状況には慣れているのだと、私は推察していた。

 私はといえば、櫂君を覗き見に来る子達を観察するのが結構好きで。

 へぇ、彼女も櫂君が好きなのね。ほほぅ、こんな女の子にももてるんだ、ふむふむ。なんて、ちょっとした観察記録をつけたくなるくらい、わりとこの状況を楽しんでいた。

 他人のそういう様子って、はたから見るとおもしろい生態観察になったりするんですよ。

 なんて言ったら、きっと櫂君ラヴな女の子たちにはったおされるんだろうな。気をつけなくちゃ。

 そもそも、櫂君と隣同士に座っているというだけで、半ば目の敵のようにされているところもあるのよね。

 椅子に画鋲、キーボードに剃刀の刃、バッグの中に味噌汁。なんて、古典的な嫌がらせはないのだけれど、視線がバシバシ刺さってきて、痛いのなんのって。

 時折、よく知らない女性社員に通りすがりざまに嫌味を言われちゃったりね。

 女の嫉妬は恐いよねぇ~。

 だからと言って、そんなことをいちいち櫂君に報告しても仕方ないから、黙ってはいるんだけれど。酷くならないことだけを願う私です。

「よく飲みますね」

 私の飲みっぷりに苦笑いとも取れる笑みを零し、櫂君ももう一杯ビールを注文している。

「夏ももうすぐ終わりだからね。ビールが美味しい季節のうちに、たーんと飲んでおかないと」

「そんなこと言って。鍋の季節だからとかクリスマスだからとか、年末だしとか。結局、菜穂子さんは色々な理由をつけて年がら年中ビール漬けでしょ」

「あれ。よく解ってるね~」

 まだ一年ちょっとの付き合いだというのに、櫂君は何故だか私のことをよく理解している。

 さすが気配り上手君。

「櫂君、いい嫁になるよ」

「性別変わってますって」


 去年の四月。初々しいスーツ姿でうちの部署にやってきた藤本櫂君に、何を血迷ったのかうちの部長は私を彼の教育係に任命した。

 大卒で何もかもが初めての彼に、私は仕事の基本を丁寧かつクソ真面目に教えていたのだけれど、気がつけばこっちがなんだか指導されることになつていたりする。

 あれれ? という間に、立場が逆転。

 今では、間違いを正されていることがよくあって……。

 そんな私たちを、教育係に当てた当の部長は、漫才コンビのようでおもしろいと笑っている始末。

 いいのか、それで。

 もしかしたら私の給与明細には、漫才手当てなるものがついているかもしれない。今度よく見てみよう。

「あ、そうだ。菜穂子さんのところ、部屋の空きないですか?」

 櫂君は、から揚げを口にしながら訊ねる。

 その口の動きを眺めながら、どうだったかな? と思考をめぐらせた。

 櫂君のいう部屋の空きとは、私が住むマンション内にどこか空き部屋がないかということなのだ。

 それにしても。

「なんで?」

「気分転換に引越ししようかと思ってるんですよ。今住んでるところ、駅までちょっと遠いんですよねぇ」

「ふ~ん。今度、お祖母ちゃんに訊いてみるよ」

「あざーす」

 快く返事をすると、櫂君はとても嬉しそうに頬を緩めて、もう一杯ビールを注文した。

 櫂君が何故私にそんなことを頼むのかというと、母方のうちのお祖母ちゃんは、ちょっとした地主なのだ。今住んでいる私のマンションも、お祖母ちゃんの持ち物になる。

 おかげで家賃は、ただ。そのかわり、近所にある、これまたお祖母ちゃんの持ち物なのだけれど、個人経営のコンビニを会社が休みの日に、たまに手伝わされたりする。当然、無時給だ。

 けど、コンビニの手伝いなんてそれほど忙しいわけでもないし、新商品の入荷の時は、ちょっとワクワクしたりする。こんなお菓子が発売されるのね。なんて、パソコンの発注画面をどんどんスクロールして勝手に注文を入れてしまい、あとから叱られたこともあった。

 そういえば、無断発注以来、手伝ってって言われていない気がする……。

 余計なことばかりしでかすから、おちおち手伝いもさせられないと思われているのかもしれない。

 まぁ、それならそれでいいや。

「なんにしても。会社でもお互いの顔を見るのに、帰ってからも顔を見るようなことになるっていうのも、なんじゃないの?」

「いいじゃないですか。僕は四六時中菜穂子さんの顔を見ることになったって、全然構いませんよ」

 そんなことを言いながらも、櫂君の口元が緩んでいるのは気のせいでしょうか?

「噴き出しそうなのを我慢してない?」

「あ、バレました?」

 ケタケタと、声を上げて櫂君が笑う。

 イケメンには似合わず、大きな口を盛大に開けた豪快な笑い方だ。けど、その清々しいまでの笑い方が、私は結構好きだったりする。本当に楽しそうに笑ってくれるから、こっちも自然と楽しくなってくるんだ。

 笑顔ってさ、世界共通でしょ。しかも、笑顔が伝染すると、幸せな気持ちも伝染しちゃうんだから、すんごいことなんだよ、うん。

「同じマンションに越してきて、お醤油借りに来たりしないでよ」

「えっ……。それって、いつの時代ですか? 国民的アニメの中でしか観たことないですよ」

「ちっ。ジェネレーションギャップか」

 頬を膨らませる私を見て、ケタケタと櫂君が笑う。つられて私も笑う。こんな風に、私たちは、いつもくだらない話で盛り上がるのだ。

 それにしても、部屋の空きか。飲み仲間が近くに住むっていうのは、ちょっといいかもなぁ。暇な時に訪ねて行ったら、櫂君なら快く相手してくれそうだし。

 自分に都合のいいことばかり考えて、私は軟骨入りのつくねを口に放り込んだ。

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