桜まち
花岡 柊
落し物
「あっ。落ちましたよっ」
改札を潜り抜けた目の前で、電子マネーの組み込まれた共通乗車カードが落ちた。多分、鞄かスーツに入れたつもりが、こぼれ落ちてしまったのだろう。
落とし主は気づかず、足早にホームへと向かっている。
慌しくざわついたラッシュ時の駅舎内は、混雑極まりない。誰もが先へ先へと急いでいる中、ちょっと声をかけたくらいじゃ振り向いてももらえない。
そもそも、みんな急いでいるから自分が呼び止められている、なんて気がついてもいないのだろう。
いや、気づいていてもそれどころじゃない。といったところかな。
運よくというか、落とし主は私がいつも乗る電車と同じホームを目指していた。拾ったカードを握り締め、落とし主の背中を追った。
駆け下りる階段。流れにうまく乗り、人の間をすり抜ける。途中、追いかけることに必死になり、あんまり慌てすぎてヒールがグキッなんてことになり足首がやられそうだったけれど、何とか体勢を整えた。
私って、意外と運動神経がいいのかも。
悦に入ったあと、落とし主の背中に追いつき思い切って大きく声をかけた。
「あのーっ」
人波をかき分けた声が届いたようで、ようやく相手が振り向いてくれた。
身長一八〇センチ以上。中肉中背。磨き込まれた黒の革靴。スーツの袖から覗く、ごついけれど上品な腕時計。ビシッと決まっている細身のスーツ。鞄もシンプルだけれど、おしゃれな物を持っている。
何、この人。モデル? いやいや。モデルが、早朝ラッシュの電車に乗るわけないよね。いやぁ、それにしてもよくできた顔の作り。ううん。顔だけじゃなくて、スタイルもいいから余計に目を惹くのよね。だって、足、長っ。
スマート過ぎるいでたちに思わず目が奪われ、その人だけが切取られたみたいに目の中に飛び込んできた。
音や風景や周囲にいるたくさんの人たち。その全てが、ばっさりとそぎ落とされ。彼だけが目の前に存在しているみたいだった。
実際は、ラッシュ時なんだからホームの上はえらい混雑で。こんな風に立ち止まっていると、結構邪魔者扱いなのだけれど。
突然呼び止めたのに何も言い出さないでガン見している目の前の女を、落とし主の相手は訝しげに見ている。
慌てて拾ったカードを差し出した。
「こ、これ。落としましたよ」
走って追いかけ階段も駆け下りたせいで、話しかけた私の息は切れ切れだった。
はぁはぁと、電話口ならかなり怪しい音にとられるだろう息を吐きつつ落とした物を差し出すと、一瞬の間のあと笑顔が向けられる。
「……え? あ、ありがと」
この笑顔いいっ。眩しすぎる。背後に後光さえ見えちゃうよ。白い歯もたまらなく素敵じゃないの。CMに出演していてもおかしくないスマイル。
朝の光差し込むホームで、思わず落とし主に見惚れていると電車が滑り込んできた。それと同時に、邪魔だといわんばかりに周囲から押し合い圧し合いされ、我先にと電車へ乗り込もうとしている人たちに無残にも思いっきりはじき飛ばされてしまった。
「あわわわっ」
そうして見失う素敵な落とし主と、乗り過ごしてしまったいつもの電車。
一本乗り逃した電車のことよりも、彼を見失ったことが酷く残念でならなかった。
素敵な人だったなぁ。あ、カードに書かれていただろう名前くらい、見ておくんだった……。
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