永遠の物語

三文士

第1話 幸せの牢獄

「しかし驚いたな。まさかお前がな」


先輩は椅子に座ったまま目を見開き、心底驚いているという顔をした。


「ええ。みんなに言われます。僕自身も驚いていますけど」


僕は飲もうとしたコーヒーカップに口だけつけ、そして飲まずにまたテーブルの上に置いた。コーヒーがまだ熱くて、とても飲めない。


「だろうな。意外過ぎだろ。付き合ってどれくらいだ?」


先輩が煙草に火をつける。吐き出した紫煙の臭いが懐かしい。


「六ヶ月です。ちょうど今日で」


「マジか」


先輩は煙草を吸うのも忘れて驚いている。


「一年も経ってねえのかよ。早いこと決めたんだな。までも、今はそんなもんか」


「極端に早いか遅いか。そのどっちかが多い傾向にあるそうですよ」


だがそれが遅いか早いかなんて、一体誰の基準で決めているのだろう。


「ふーんそうか。俺は明らかに後者だな」


先輩がピクピクと左の眉毛だけを動かしてみせる。


「まあ、こういうのって勢いとかタイミングとか。色々重なって出来ることですからね。僕自身、まるで実感とか沸かなくて」


「子供が出来たとかでもないんだろう?」


先輩は辺りを気にした言い方をする。誰の耳を気にしているのか。


「いえ全然。僕は欲しんですけど、向こうはしばらくそのつもりはないみたいで」


「ますます分からんね。今すぐ結婚する理由が」


それに関しては僕も同意見だった。だが逆もまた然りというか、今すぐ結婚しない理由もなかった。


僕は三十歳。サラリーマン。三兄弟の次男。今のところ元気な両親の面倒は兄貴が見る予定だ。家の頭金には乏しいが、いくばくかの貯金もある。


「いったい彼女は、お前のどこに惚れたんだ?」


なんの取り柄もない。取り立てて顔がいいわけでも、稼ぎがいいわけでもない。先輩はそう言いたげである。


「曰く『絶対に裏切らなそうなところ』だそうです」


「なるほどね。言えてる。お前は誠実を擬人化したみたいな奴だ」


またの名をお人好しという。


「しかし寂しくなるな」


「どうしてです?そりゃ部署は違うけど同じ会社じゃないですか。僕は寿退社しませんよ?」


僕の冴えない冗談にも、先輩はいつも笑ってくれる。


「違うよ。お前はこれから、週に一度の休日を家族の為に使う。仕事で疲れてようがストレスが溜まってようが、嫁さんの買い物に付き合うんだ」


「それだってストレス解消になるかも」


先輩はまた左の眉だけをピクピクと動かす。


「たまに行くならな。だけど毎週ならどうだ?買い物に付き合うことが、家でゲームしたりキャバクラに飲みに行ったり、ラーメン食べ歩いたりパチンコ行ったりするよりストレス解消になるのか?」


それらは全部、僕がこれまで先輩と毎週末やってきていたことだ。


「さあ。どうでしょう。比べてみないと」


僕がそういう先輩は肩をすくめた。


「そうだな。だけど寂しくなる。来週から俺は一人でパチンコ屋に並ぶのか」


先輩が二本目の煙草に火をつけた。


「まあ一年に一回くらいなら、一緒に遊べるかも」


「そうか。そりゃいいな。そん時は、いつもと同じくここのコーヒー屋で待ち合わせような」


先輩は何処か遠くを見ている。


「そうだ。今日はどうだ。明日は日曜だし、結婚前に最後の遊びに行かないか?」


「これからですか?」


先輩がやおら立ち上がる。鼻息が荒い。


「そうだよ。ラーメン食ってキャバクラ行って、スーパー銭湯でも行ってさ。んで朝一番でパチンコ屋に並ぼうぜ」


「イイですね」


先輩の子供の様な顔を見ると、思わず笑みがこぼれる。


「な!行こうぜ!」


だが無理だ。それには応じれない。


「せっかくですけど。今日はこれから彼女と予定があるんです。半年記念なんです。ごめんなさい」


「そうか‥そうだな」


先輩は力なく席に座る。


コーヒーショップの店員が、やる気なく先輩の灰皿を取り替えて去って行く。


「なあ、俺も結婚できるかな?」


「どうしたんです?相手でもいるんですか?」


先輩は三本目の煙草を咥えたまま火をつけないでいる。


「いやほら、西日暮里のキャバクラの『エレガンス』のカオリ。何度か行って会ったことあるだろ?」


「ああ、先輩がいっつも指名してる娘でしたっけ」


外見がやたら派手で、小学生と会話してる様な気分にさせてくれる貴重な存在だ。


「アイツとさ。最近よく外で会ってるんだよ。まあまだどうこうなってるわけじゃないんだけど。たまにさ。アイツといるもの悪くないなって思ってんだよな」


「へえ。そうだったんですか」


とは言ってもカオリには五年付き合ってる彼氏がいる。パチンコと競馬しか頭にない暴力男。顔はイケてるけど頭はすっからかん。前に二人で飲みに行った時、カオリ本人が言ってたから間違いない。ちなみに本名はエリカ。


「なんかお前見てたら結婚したくなったわ。俺も結婚しようかな」


「良いですね。頑張ってくださいよ、先輩」


感情を込めずに言葉を吐くのは大変だ。なるべく聞き逃してもらえるようにしないと。これ以上、この話題を続けたくない。


「まあでもしばらくいいわ。池袋のキャバも行きたいし。結婚したらパチンコもできねえだろ。来月新台でるしさ」


「自由が良いですよね」


僕は本当は言わなければならない言葉を喉のところで抑え込み、しばらく沈黙を守った。それを言ってしまうと、目の前のこの男がきっと悲しい顔をするからだ。


先輩は黙り込んだ僕の顔をチラチラ見ながら、落ち着かない様子をしていた。


そして、しばらくして口に咥えていた煙草を結局火をつけずに箱に戻した。


先輩は何か言いたげにしている。僕も本当は言いたい事があった。お互い口を開きかけたその時だった。


僕のスマホが鳴った。電話だ。彼女から。


「もしもし」


『もしもし。まだ会ってるの?』


彼女の声は少し苛立っていた。


「うん。すぐ折り返すよ」


僕がスマホをテーブルに置くと、先輩はホッとした顔でこう言った。


「なんだ。彼女待ってるのか。悪いな。俺ももう行くよ」


「ええ。そうですね。なんかすみません。久しぶりなのに」


お互い、そんな事思っていないのに謝りの言葉を口にする。


先輩はそそくさと席を立った。


「じゃあ。またな。また今度会おうぜ。嫁さんと飯でもいこう。おごるよ。お祝いも兼ねて」


僕も立ち上がって会釈する。


「ありがとうございます。是非」


先輩は嬉しそうな顔で帰っていった。きっとこれからパチンコ屋にでも行くのだろう。僕も行きたい。パチンコ屋に行って、勝っても負けても飲みに行って、最後はラーメンでしめて自分のマンションのせんべい布団で寝る。そんな自由気ままな生活をもう一度だけ堪能したい。


だが無理だ。もうそれは過去の話。


再び、電話が鳴る。


『終わった?どうだった?』


彼女からだ。少しだけ苛立っているのが声のトーンで分かる。


「うん。あのう。ダメだった」


『やっぱりね。どうする?弁護士とか、紹介してもらう?』


「いや、でもねえ。借金っていっても借用書があるわけじゃないし。正直難しいかなって」


僕がそういうと、彼女の深いため息が聞こえてきた。胃がキリキリと締め付けられる感覚がする。


『まあしょうがないか。初めからアテにしてなかったしね。今どこ?』


「駅前のコーヒーショップだよ」


僕はようやく冷めて飲みやすくなったコーヒーを傾ける。


『ああ。あそこね。あの不味いとこ。じゃあ駅で待ち合わせしよう。買い物行きたいし。電気屋で家電も見ないと』


「ねえ、せっかく休みなんだし映画とか観ない?」


僕の言葉に一瞬沈黙が浮かぶ。


『あのさ。もう引越しまで時間ないんだよ?分かってる?家具も買ってないし。全然準備できてないじゃん。遊んでる暇ないよ?』


だよね。思った通りの反応が返ってくる。いっそ小気味良い。


「そうだね。ゴメン。じゃあ駅で」


『あ、寄るとこあるから。十五分後にして。じゃ』


電話を切った後、先輩が残した煙草の臭いだけが空気中に漂っていた。多分、プライベートであの人に会うことはもう無いだろう。彼女が恐らくそれを許さない。


最後の面会を終えて、僕は先輩との思い出を僅かばかりの借金と共に捨て去ったのだ。


僕は少しずつ自分の人生が別のものに変化していっているのを感じていた。


以前は毎日奴隷の様に働き、土日になればストレスから解放されていた。それでなんとか日々を生き延びていた。


だがこれからは違う。


毎日奴隷の様に働き、土日も奴隷の様に彼女に尽くす。そしてまた働く。その繰り返しだろう。


僕の人生は僕個人のものではなくなった。僕に自由はない。


だが僕は幸せだった。僕を愛してくれる女性がいる。それだけで毎日が十分過ぎるほどだ。誰もが憧れる、無条件の愛を僕は獲得したのだ。


仮に自由が無くても構わない。パチンコやキャバクラやラーメン屋なんかに行くよりも僕は今、ずっと満たされているのだから。


結局のところ僕は、この不自由さにこそ満足しているのだ。これから毎日続くこの牢獄で、僕は幸せな日々を過ごすだろう。


時に人は自由を失くすことによって得る自由もあるのだ。僕は今、それを身をもって体感している。


人がなんと言おうと、僕はとても幸せである。



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