第26話・リオンクールの風

『創世の……力』


 からっぽな空間、上も下もない場所で、エーディとふたり寄り添ったまま、私は鸚鵡返しに呟いた。永遠にフリーズする筈だったユーリッカが去ったいま、ここは最早完全に閉ざされた世界で、なにひとつ生み出さないままにいずれ消え去るところだと思っていたのに。


『リオンクールを愛し、育んだ貴女は、ただその想いを種子として育めばいい……貴女は世界の全てを思い出せる筈。全ての失われたものは、いま、貴女のうちにあるのです』

『わたくしの中に』

『そう……。だけど……』


 女神はすこし言い淀む。


『だけど、何ですか?』

『全てを解放すれば、貴女自身の自我が、存在が保てるかどうか……もしかしたら、貴女はそのまま世界に溶けて、貴女自身ではなく世界そのものになってしまうかも……』

『そんな!』


 と声を上げたのはエーディ。


『世界と引き換えにマーリアが消えるのですか? そんな馬鹿な事があっていい筈がない!』

『必ずそうなると言っている訳ではありません。マーリアが世界を愛するのと同じくらいに自分の命を愛していれば戻れるかも……。でも、もう時間がない。わたくしももうすぐ消えてしまう……そうなれば、この空間を開く力が無くなってしまう。貴女次第です、マーリア……』

『わたくし、やるわ』

『マーリア!』


 不安げに見開かれた銀の瞳。私の愛しい愛しいひと。


『大丈夫……あなたがいてくれるから、わたくしは絶対に戻って来れる。あなたが、本当のわたくしを見つけて、愛を教えてくれたから!』


 思えば、今までの私は、良い王妃になろうと、国を護らねばと、ただそればかりを思い、子どもの頃にエーディを慕った感情をずっと封印し続けてきた。自分のことはいい、王太子と結婚するのが私の運命なのだから、民の幸福が私の幸福なのだから、と思って……でもそれは確かにユーリッカの言っていた、『お綺麗な作り物』のようなものだった。今になって、『幸せになりたい、なんて誰でも持っている思い』とユーリッカに向けた言葉が、エーディと想いを通わせるまでの自分には当てはまっていなかったのだ、と気づく。

 私はエーディと幸せに生きたい。平和に満ち足りた世界で、愛に溢れた私のリオンクールで!


『エーディ、わたくしを強く抱き締めていて。決して離さないで!』

『決して離すものか。この腕が消えようとも、わたしは貴女を離しはしない!』

『ありがとう……』


 目を瞑ると、涙がこぼれ落ちたけれど、これは絶望の涙じゃない。


『女神よ、わたくしに力を貸して下さい!』


 厄災が起こる前のリオンクール……緑豊かな美しい世界。泉は迸り、畑は実り、人々は笑顔に満ちていた……。そのひとつひとつの風景を、私はしっかりと思い描く。私の親しかったひとも、会ったことのないひとも、今はただその笑顔ばかりが次から次へと溢れだしてくる。家々の灯りや街の風景、行ったことのないところまでも、まるでたった今見てきた記憶のように私のなかに甦る。私の記憶、私の思いは、風となり、世界中を巡る。全て失われた筈の世界に、再び光が満ちてくる……。


『ああ……っ』


 身体が熱くなってくる。私の中からあふれ出る生命の力の勢いが、私という枠を壊しかけている……これが、女神の言っていたことなのか。幸福感に満たされる……私は風そのものになってもいい、という気持ちに囚われそうになる。


『マーリア、マーリア! しっかり……どこにも行かないでくれ! わたしを一人にしないでくれ!』


 気が付くと、苦しい程にエーディは私を抱き締めている。私の様子がおかしい事に気づいたみたいで……でも、そのおかげで私は我に返った。


「エー……ディ」


 目を開けると。私たちは大地の上に立っていた。

 緑の草を踏み、陽のひかりを浴びて。


「マーリア!」

「エーディ!」


 失われた世界は戻ってきた。そして、私はここにいる……エーディの腕の中に。

 私たちは抱き締めあい、涙を流しながら夢中で何度もくちづけを交わした。


「貴女の身体が消えかけて……どこかへ行ってしまうのかと! 戻ってこないのかと!」

「あなたが呼んでくれたから……それに、わたくしだって誓うわ、エーディ! 決してあなたをひとりにしない!」


『マーリア……エールディヒ……本当にありがとう……』


 女神の呼びかけが聞こえる。


「女神ラムゼラ……ご無事で」


 よかった……これで何もかもが元通りに……と思ったけれど、女神の次の言葉は、意外なものだった。


『わたくしは間違っていました』

「えっ?」

『わたくしが世界を導かねばならぬと……恵みの力の使い道はわたくしが決めなければという思いに囚われていました。そのせいで、今まで巫女姫ばかりに負担を強いてしまっていた。人間は、わたくしが考えていた程弱くはなかった。少なくとも、あなたがたのような人間がいる限り、わたくしが導かなくても、世界は続いてゆく……』

「ですが、女神よ、リオンクールは女神の力で成り立ってきました。世界にはあなた様のお力が必要です!」

『そう……わたくしの力は世界に救いを与える為に湧く。人々がわたくしに祈りを捧げてくれれば、わたくしの力は強くなる。だから……わたくしは、巫女姫を通してではなく、誰にでも等しく恵みを与えられるよう、この国を護る風となりましょう。もう神託を授ける事は出来ませんが、その代わり、わたくしは全ての民の傍にいつもある……』

「ラムゼラ!!」

『さようなら、小さくも強きふたり……世界を救ってくれてありがとう……』


 そして、それきり、誰も女神の声を聴く事は叶わなくなった。だけれど、風は温かく、柔らかく……いつも護られているという安心が全てのひとに感じられた。人々は変わらずそれからも、ラムゼラへの祈りを絶やさなかった。


◆◆◆


「マーリア。許せなんて言えない。俺をぶっ叩いてくれ!」


 アルベルト王太子の謝罪に、私は思わず笑ってしまった。


「わたくし、淑女ですのよ。殿方を……王太子殿下をぶっ叩くなんて出来ません!」


 鞭で叩かれそうになり、首を刎ねろと叫ばれた恐怖の記憶は消えた訳ではない。だけど、この人は騙されていただけ。全てのひとびとは、居もしない『幻の邪神』に踊らされていただけなのだ。皆が希望を持ちたくて、救われたくて。そう考えれば、誰の事もいまはもう恨みには思わない。


「いや、俺はもう王太子ではない」

「えっ?」

「今回の事で、俺は己の未熟さを思い知った。俺は王の器ではない。先ほど、父上に話してきた。王太子の座は辞退してエーディに譲りたいと。父上もご了承下さった」

「そのような事! 兄上、兄上は国の為に帝王学を一心に学ばれて!」


 困惑してエーディは兄の意志を覆そうとする。けれど、アルベルトは正面からエーディに向き直って、


「それはたった今からおまえに任せる。なに、おまえならすぐにこなせるようになるさ」

「しかし、わたしには騎士団長の職務が」

「それはおまえの腹心のグレン・バートンにでもやらせとけ。俺は暫く、国を離れようと思う」

「え?」

「おまえの代わりに、世界中を見て、学んで来る。王国を離れても、この世界中には女神の守護がある筈。その様子を見ておまえに報告しよう。それに、旅を通して俺は強くなるつもりだ。帰った時に、おまえの補佐がちゃんと務まるように」

「兄上……しかしそんな……」

「吐いた唾は呑みこめぬ。それが元王太子としての俺のけじめだ。救世の騎士、エールディヒ・リオンクール、おまえが次の王だ」

「しかし……」

「兄貴に逆らうのか」

 冗談めかして口角を上げるアルベルトに、エーディはついに押し黙ってしまった。


 ……あれから数週間。世界が一度滅び、私が救った、という記憶は誰もの心にあり、私と私を助けたエーディは、救世の聖女と騎士と呼ばれ、担がれ回されて殆ど個人的に話す暇もなかった。

 兄弟のやり取りも気になるけれど、私にはもっと気になってたまらない事があった。


「あの……アルベルトさま。わたくしはどうなるのですか?」

「ん? どうなるか、とは?」

「その……婚約は」


 もしも、王太子は魔女にかどわかされていただけで、婚約破棄は無効だという事になったらどうしよう。そればっかりが不安で私の心を苛んでいたのだ。

 だけどアルベルトは笑い飛ばした。


「なんだ、そんな事を気にしていたのか。婚約は破棄だと言ったじゃないか」

「!!」


 ぱっと明るくなった私とエーディの顔を見て、彼は苦笑する。


「あー……すまん、そんな事を気にしていたのなら、もっと早く言えば良かったな。だけど、もはや王太子の座も退いた俺が、おまえらの間に入るなんて誰が見てもおかしいだろう!」

「そんな、兄上」

「……本当は譲りたくはないが、俺にはそんな資格はない。一度は俺の方から切り捨てたんだからな……そして酷い目に……。俺の心は弱すぎた。厄災に疲れた心に忍び寄った魔女に俺は屈してしまった……だから、マーリアを頼む」

「……わかりました。大丈夫ですよ、頼まれなくてもマーリアはわたしが幸せにします」

「ふっ、言うじゃないか」


 笑ったアルベルトの顔はどこか寂しげでもあったけれど、それから数日のうちに、彼は旅に出て行った。


 そして、国王の名において、第二王子エールディヒが王太子となったこと、公爵令嬢マーリア・レアクロスとの婚約が調った事が国民の前で発表される。

 誰もが、私たちを寿いでくれる。リオンクールの風は優しく温かく私たちを包む。手をつなぎ、私は未来の夫となるひとを見上げる。銀の瞳は優しく私を見つめ返す。

 全身全霊で、幸せだ、と感じた。

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