第1-4話:大通りの話

 夏の日差しの下、永久子と一緒にバーベキュー会場へと向かっているときのことだった。

「そういえば前から気になってたんだけどさ」

 通りの名前が書かれた標識を見て、ふと前から引っかかっていたあることを思い出した。

「ああ、あれね、結婚したら奥さんをなんて呼ぶって問題ね。結論出たん?」

「なんの話だ、なんの」

 まったく記憶にないんだが。

「ありゃ、まだ決めてないのか。まあいいや、で、なんの話? ちょっとお姉さんに話してみんさい」

 そうやってあらたまって聞かれると困る。話を振っておいてなんだけど、本当に大した話ではないからだ。

「いや、ごめん、そもそも大した話じゃないんだ。たださ、永久子だったら『大通り』ってローマ字でどう書く?」


 さっき見た標識にはこの通りの名前、桜通りの名前が漢字とローマ字で書かれていた。

 標識の中央に横書きの「桜通り」があり、そのすぐ上、ルビを振るようにアルファベットで「SAKURA DORI」と少し小さめに書かれている。なお「DORI」の「O」の上には音を伸ばすことを表す長音記号である横棒が引かれていた。

 そしてこれを見たとき、キーボードで打つときと同じく「D O O R I」じゃダメなのかな、と思ったというだけの話だ。


 ちなみに街中で見かけるローマ字の中で、これよりも遥かに気になっているのは「交番」だ。

 アルファベット表記の看板も付けてること自体は別にいい。むしろ褒めたい。ただなんで「KOBAN」なんだ。「小判こばん」かよ。大判はどこだ。そもそも「POLICE」でいいのではないか、それがダメでもせめて「KOUBAN」にすればいいのに、何がそれを妨げているんだ。

 と、色々書いてしまったが、そうは言いつつ実は「東京」はやっぱり「Tokyo」がしっくりくる。我ながら主張に統一性がない。でもやっぱり「TOUKYOU」は違和感がある。

 まあ、それだけの話だったのであまり広げるつもりもなかったし、良く分からない、とかなんとか言われておしまいだろうと考えていた。でも永久子はいつだって俺の予想を超えてくる。


「ああ、通りだけにローマの話ってことね」

「え?」

 どういうことだ。

 戸惑う俺に、やれやれ、とわざとらしく呆れた様子でため息をつく。

「ほら、全ての通りはローマに通じてる、って言うでしょ」

 ふふん、と相手の得意げな様子に俺は首をかしげる。

「いや、それを言うなら『全ての道はローマに通ず』じゃないか?」

「そこはそれ、意味は同じっしょ?」

 いやそれはおかしい、と反射的に否定しようとしたが、まあ確かにその通りだ。

 通りだけに。

 って、まずい、少し毒されてきたぞ。

「いや、だからそういう話じゃなくて、ローマ字でどう書くかって話だよ。普通にキーボードでタイプするときのこと考えたら『D O O R I』だけど、標識とかでその表記はあまり見かけないなと思ってさ。長音記号が使われてたり」

「あー、あれね。あの、まさにフランス、って感じの記号でしょ」

 へえ、良く知ってるな。

 俺は素直に驚いてしまった。あの長音を表す記号と同じ名前のフランス大統領がいる。

「まあ確かにフランスだけど……良く知ってたな。音声記号とか興味ないと思ってたけど」

「え? 興味ないよ?」

「やっぱり」

 知ってた。

 だとすると、どうして知ってたのかますます不思議なんだが。

「ほら、ちょうど授業で発音記号とか音声記号とかやったばかりだったから」

 ああ、なんだ。種明かしされれば拍子抜けするほどに簡単な話だった。言語学入門だか音声学入門だかそんな名前の授業だった気がする。同じ学部の俺も大学に入った年にその授業を受けたはずだ。

「それにセージは好きでしょ、こういうの」

「まあ、嫌いじゃないな」

「でしょ。だから覚えとこうかなってさ」

 そう真面目な顔でこっちを見る。その顔の真剣さに、思わず返事に窮してしまった。

 ただそれも一瞬の話で、永久子は顔の前で手を振りながら、ごめんごめん、とケラケラ笑い出した。

「嘘ついたわ。記号の名前、ほとんど覚えてないかな。ただ、ちょうど長音記号の名前だけ憶えやすいから憶えてたってだけの話でさ。ほらほら、やっぱ一応は女子だし、なんのかんのでオシャレってだけじゃなくてちゃんと美味しいし」

「……すまん、なんの話だ」

 フランスだからオシャレ、という結びつきは(短絡的ではあるが)分からんでもないが……美味しいってなんだ。美味しい大統領って世界でもかなり稀有な存在だぞ。

「え? 粕川先輩、知らないんすか? さすがにまずくないッスか。女子にモテないッスよ」

 大げさに永久子が慌てる。

 めんどくさいな。

 そのとき少し先にコンビニが見えた。大学から一番近いコンビニだ。気が付いたら駅から結構距離を歩いていたらしい。ちなみに目的地であるバーべーキュー会場のある公園は、駅から見て大学の向こうにある。大学の正門前を通り過ぎる感じになる。

「あ、ちょうどいいから教えたげますわ」

 永久子は、ビッと親指でコンビニを指すと、冷房がガンガンに聞いた店内へとズンズン入っていった。

 どうでもいいが後輩キャラを演じるならちゃんと演じきって欲しいな。まあ、それはどうでもいいが、こんな涼しい店内に入ったら出る気が失せないか心配だ。いや、そもそも「教える」って何をだ。バーべキューはどうするんだ。

 戸惑いと悩みは無限にわいてきたが、買いたいものもあったしコンビニに入ることにした。いや当たり前だけど永久子を置いて先に行くわけにも行かないし。


 コンビニの店内に入った永久子は俺が付いてきてるかどうかを確認もせずに、カゴを手に棚の奥へと入っていった。何を買おうとしているのかは気になったが、どうせ無理についていかなくてもすぐに分かるだろう、と自分の買い物をすることにした。

 外の日差しを思い出して水分補給用にウーロン茶のペットボトルを買ってレジへ向かう。すでに会計を始めていた永久子はなぜかお菓子とコーヒーを買ってた。ちょっと待て。このあとバーベキューだぞ。分かってるのか。

 心配する俺に気づく様子もなく、永久子は会計を済ませたそれらをイートインコーナーへと持っていった。とりあえず永久子に続いてレジを済ますとウーロン茶を持って後を追う。

「いやー、ホント、最近のコンビニは何でも売ってるね。ほれ、見れば思い出すっしょ」

 他のお菓子と一緒に並べられたそれを指差す永久子。

 って、おい。

「マカロンだろ、それ」

「正解!」

 人を指差すんじゃない。

 というか、それ以前の問題だ。

「不正解だ」

「え? 何が?」

「どこから始めたらいいのか分からないくらい不正解だ」

「そっか。じゃあ話も長くなりそうですし、一旦座りますか」

 呆れた声で説明をしようとした俺の後ろに回るとグイグイと肩を押してイートインコーナーの椅子に俺を座らせる。目の前にはマカロンを含むお菓子と一緒にホットコーヒーが2つ並んでいた。だからなんで完全に長居する態勢なんだよ。

「で? セージがさっき、何?」

 すぐ隣に座った永久子はそう言うとマカロンを1つ口に放り込んだ。シャクッと美味しそう音がした。

「いや、だから、マカロンじゃないだろ」

「マカロンでしょ、これ」

 もう1つ口に放り込む。

「それは否定してない。長音記号の話だよ。じゃなくてだ」

 何かおかしいとは思ってたが、まさかこんなくだらないオチだとは思ってもみなかった。

 説明するまでもないが、マカロンは卵白を使った焼き菓子で、なんかオシャレで可愛いイメージがあるので女子に大人気のアレだ。我ながら浅い知識だな、と思う。

 大してマクロンは、先に説明したとおり、長音を表すための記号で日本語以外にも使われている……というか、そもそもラテン語経由で日本に渡ってきたものだ。

 ちなみにさんざんフランスフランス言ってきたが、フランス語自体はあれほどアルファベットの上を色々と飾りつけている割りにマクロンは使われていない。

「暗記法に好きなもののイメージを当てはめるのはいいアイデアだと思うけど、そういうのほど一度間違って覚えたらなかなか抜けないから面倒だぞ」

「でもマカロンとマクロンなんて言うて発音の違いじゃない? 口語ならごまかせる気がする」

「テストだとバツくらうぞ」

「そこはそれ、テストのために勉強してるわけじゃない、ってことよ」

 腕組みしながらうんうんと頷く。

「お前、テストのあるなしに関わらず勉強したことないだろ」

 呆れたようにそう返した俺の言葉に、永久子は不敵な笑みを浮かべて指を振った。

「ふっふっふ、私だって必死に勉強することもあるんじゃよ」

 なんだその語尾。

「本当かよ。少なくとも今も高校時代もテストのために勉強してるのは見た記憶ないぞ。なんのためだったら勉強するんだよ、お前は」

「え」

 あまり深い意味を考えずに聞いたのだが、なぜか永久子はこの問いに凍り付いた。みるみる内に顔が赤らんでいく。

 一体全体どういうことだ。こっちまで少し緊張してきた。沈黙を破ろうととりあえずなんでもいいからと会話を振る。

「そういえばなんでフランスなんだ」

「え?」

「いや、さっきまさにフランスとかなんとか言ってただろ。俺はてっきりフランス大統領の名前のことかと思ったんだけど、違ったみたいだから」

 一応、説明しておくと、フランス大統領にエマニュエル・マクロンという人がいる。39歳という史上最年少で大統領になった人だ。

「え? だってマカロンといえばフランスでしょ?」

「……そうなのか?」

 戸惑う俺に対して、うーん、とうなりながらまだいくつかマカロンが入った箱を持ち上げると、店員が客がいないせいで手持ち無沙汰そうにしているレジへと向かった。

 そこにいた女性店員と話し込んでいる。さらには男性店員も加わった。

 ミニ井戸端会議はすぐに終わり、満足そうな顔の永久子が戻ってくる。

「やっぱりマカロンといえばフランスだって」

 おいおい。

「お前、そんなことのために店員さんの邪魔するなよ」

「まあ、ほら一応色々買ったし、お客さんもいないし……あ、そうそう。マクロンは知らないって」

「そりゃ普通は知らないだろ」

「でも伸ばすときに上に線引くヤツだよ、って言ったら、見たことあるなあ、ってさ」「

 ほら、あの男の人の方、と教えてくれた。

「名古屋から状況してきたらしいんだけど、駅名のローマ字に使われてたって」

 マクロンっていうんだよって教えてあげたら感心してくれたよ、と続けたが、それより駅名の表記使われているというのが気になった。

「へえ、名古屋だとそうなんだ。東京だと使われてないよな」

「え? そう? 私このあいだ東京駅行ったけど、普通に使われてたよ……ほら」

 ここから、東京駅のローマ字表記は「Tokyo」の両方の「o」にマクロンが使われていることが判明したり、それはそれで違和感があると俺が言い出してから、記号なしのアルファベットのみで表せるならそのほうが覚えやすいのではないか、とか、ローマ字表記でどうやって「著書ちょしょ」と「調書ちょうしょ」と「嘲笑ちょうしょう」を区別すべきかという話をしてたら夕方になってた。

 俺が頭を抱えてた横で、妙に永久子が楽しそうだった。

 その様子を見ていると、なんとなくこいつの狙いどおりに事が進んだような気もしたが、正直どこからが作戦だったのか、今も良く分かってない。

 まあ、あとで実際に参加した人からバーべキューの雰囲気を聞いたらむしろ行けなくて良かった気もする。そういう意味では永久子に感謝すべきなのかもしれないが、素直にそう認めるのはちょっと悔しい気もする。複雑だ。


 あと、後日、念のため沙耶にバーベキューに参加できなかったことを謝りにいったらあっさり許してもらえた。いや……許してもらえたというか、なんかあの困惑は、そもそも俺を誘ったこと自体を忘れてたような気もする。

 まあ、いいか。永久子は楽しそうだったし。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る