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 ……とても美しい世界だ。ここはどこだろう? 私の知らないところ。世間知らずの私には、見たことも無い世界も、経験したことの無い世界も、私の想像以上にたくさんあるに決まってる。でも今は、こんなに美しい世界を見ることができた。それだけで、私は幸せ者だ。ゆっくりと私の体は沈んでいく。とても深い場所。とても怖いところ。これが死ぬってことなのかな? 初めての経験なので、私には死がどういう概念なのか正確に理解することができなかった。心がとても軽い。すごく気持ちがいい。もしかして死ぬってことは、とても気持ちがいいことなのかもしれないな。その通りなら大発見だ。きっとみんな驚くだろうな。死ぬってことは、もっと怖いことだと思ってた。でも死はこんなにも優しいんだ。私は両手を空に向かって伸ばしてみる。すごく高いところに光のような物が見える。人は死ぬと星になるんだと、私は考えていた。だから空に上っていくんだとなんとなく考えていた。でも私は沈んでいる。海の底に落ちていく。そうか、人は死ぬと星になるんじゃないんだ。海の中に還っていく。海の中で自然と一つになるんだ。

 ……でも、もしかしたらそれは私が人間じゃないからかもしれない。空にあるのは人間の天国で、私は人間じゃないから、海に沈んでいるのかもしれない。いらなくなって捨てられたゴミのように、ただ海に捨てられただけなのかもしれない。そうだったら少し悲しい。あなたと会うことができないからだ。あなたはあの光の中にいるのかもしれない。大切な人たちと一緒に星になって、夜空の中で幸せに暮らしているのかもしれない。私も一緒に居たい。みんなで楽しく暮らしたい。すごく贅沢な私の夢。私が求めた、ただ一つの願い。結局、叶えることができなかった。私の体はどんどん沈んでいく。光が届かなくなり、辺りが闇に支配されていった。私はなんとなく、ここが生死の境目なのかな、と感じた。この暗闇の中に落ちたとき、私は私ではなくなってしまう。冷たい深海の底で、私は永遠の眠りについてしまう。私は両手を胸の上で組むと、瞳を閉じた。さようなら。心の中でつぶやいた。たくさんの人にさようならを言いたかった。きちんとお別れがしたかった。私は頭の中で、あなたの唇の感触を思い出していた。忘れてしまわないように、何回も確認していた。あなたは泣いていたように見えた。あなたの涙が私の顔にたくさん落ちてきた。温かい涙。冷たい海の底とは違う、あなたの命の暖かさが、涙を通じて私に伝わってきた。私は最後に笑顔になった。あなたのことが心配だったけど、私は幸せな気持ちで胸が一杯になった。少しだけ、愛というものの正体が分かった気がした。もっとたくさんキスをすればよかったな。私の姿は、深海の中に消えていった。もう誰にも、私の存在を確認することはできない。

 ……それから少しして、私はようやく違和感に気がついた。いつまで待っても、自分の意識が消えない。はっきりと心と体を感じ取ることができる。おかしいな? 私、もしかしてまだ生きているのかな? とても冷たい海の底、それなのになぜか体が暖かい。誰かの熱を感じる。私は瞳を開く。とても怖かった。真っ暗な世界が怖かった。一人になるのが怖かった。それなのに、どうしてなんだろう? なんでここにあなたがいるんだろう? 私の目の前には、あなたがいた。私の体を守るように、あなたは私のことを抱きしめてくれる。暗闇が消えていく。辺りはとても澄んで、命の光を取り戻したかのように、輝き始める。私はあなたの体にしがみつく。あなたが迎えに来てくれた。私は一人じゃなかった。ちゃんと私を心配してくれる人がいるんだ。あなたの顔が目の前にある。あなたは微笑んで、眩しいくらい輝いて、大きな二つの瞳がすごく奇麗だった。私の意識が空に上っていく。海の中から飛び出して、光の中に吸い込まれていく。私の横には、あなたがいる。太陽の中で二人は一緒になる。私の瞳にはもうあなたの顔しか映っていない。あなたの瞳が私の顔を映し出している。

 私の体は熱を取り戻し、私はあなたの瞳の中でもう一つの太陽になった。私の目には流せない涙がたまっていた。私はいつの間にか笑いながら泣いていた。私はたくさん泣いた。泣いて泣いて泣き続けて、その涙が全部なくなって、そして私は人間になった。

 照子の体は熱を取り戻し、雨森照子は太陽になった。


 ……白い女の子は人間になったのだ。

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