320

 夏は息を飲んだ。通路の真ん中に立ち止まった夏は、それからもう一度自分の歩いてきた通路をよく観察してみた。夏が飛び出してきた遥の部屋のドアは開いたまま。反対側の照子の部屋のドアは閉じている。その照子の部屋のドアの下から、通路の床の上に、赤いものが流れ出していた。その光景を見て、夏の心臓が跳ね上がった。夏の心臓はどくん、どくんと鼓動を強くしていった。夏はいつの間にか、その全身に大量の汗をかいていた。

 ……あれは、なに? ……なんなの? なんだか意識がふわふわする。頭がくらくらする。考えれば考えるほど、どういうわけか世界が曖昧になっていく。もう自分がどうにかなってしまいそうだった。

 赤いものはただ流れ出ているだけではない。赤いものは通路に溢れ(通路の床の上の一部に雨降りのあとの水たまりのような塊を作っていたのだけど)そこから大きな筆で、その赤色を絵の具に見立ててスケッチブックの上にゆっくりと線を引っ張ったようにして、赤い線が、隠されていた通路の中にまで続いている。

 その通路に残された赤色の線は『なにか』を強引に、ずるずると、引きずったような、そんな色の残りかたをしていた。夏はその光景を見て、ごくんと唾を飲み込んだ。

 ……なにか? なにかって。なに? ……いったい誰が、なにを引きずったの? ……誰がなにを、どこに、連れて行ってしまったの? 

 思考する夏の足は震えている。まるで今初めて立ち上がることを覚えた赤ん坊のように、それは心許なくぶるぶると震えている。

 それから夏はそのままその場にすとん、とまるで糸の切れた人形のように、床の上に落ちるようにして、しゃがみこんでしまった。

 ……もう立っていられなかった。夏の全身が震えている。……寒い。血の気がどんどん引いていく。(きっと夏の顔は真っ白になっているだろう)

 それでも夏は(ほとんど無意識のうちに)移動を開始する。うまく体が動かない。でも、移動しなければならない。夏は四つん這いになると、今度はまるで四つ足の動物のように、床の上を這うように移動して、ゆっくりと時間をかけて、遥の部屋のドアの前にまで戻る。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る